このごろ休日になると、うちの寺の門前にスマホの画面を見ながらやってきて、しばし立ち止まり、画面をこすって、ふたたび画面を見ながら立ち去っていく人をよく見かけます。
歩いている人もあるし、自転車の人もあります。若い人よりも結構なおとなが多くて、親子連れの時もあります。早朝、犬の散歩をしているときに見かけることもあるし、日が暮れてから画面の青白い光を顔に映しながら歩いていることもあります。たいていは、かなりの距離を歩くつもりで、それなりのいでたちをしています。
その人たちに共通することは、画面しか見ていないという点です。
木々の紅葉に目を留めるわけでも、鳥のさえずる方向に目をやるわけでも、家ごとに違う屋根組みを見上げるわけでも、路傍の仏に手を合わせるわけでもなく、ただひたすら画面を見ています。画面に映された街並みの中を歩いています。
もちろん、すれ違う人やそこで生活する人に、ほほえみかけたり会釈したりすることはありません。
ためしに、わたしはうちの門前に立っていた人の周りをその人をじろじろ見ながらぐるりと一回りしてみました。その人は、全くわたしに視線を向けることなく、画面をこすり続け、それが終わると何ごともなく立ち去っていきました。
うちのお寺の宝塔が「ポケストップ」とやらになっているらしく、ポケモンGOというスマホゲームをやりながらたどり着くようです。宝塔は礼拝の対象で、いつも花を供えてあります。手を合わせて祈りを捧げる場所なのですが、ポケモンGOをしている人で拝んでいく人はありません。
ポケモンGOは、室内にこもって熱中するゲームとは違って、外に出て、自分の足で歩き、ポケモンを探すうちに、いままで知らなかった町を歩き、新しい出会いや発見がある画期的なゲームだと思っていました。
しかし、実際は違うようです。ゲームをしている人は、仮想空間を歩いている。現実社会にいるのに、現実を見ていません。
わたしは、古い町並みを歩いたり、古い仏さまのいらっしゃる田舎の村里を歩いたりするのが好きです。
その土地の風土に合った家々、季節ごとの木々の色、そこに住む人々の営み。いろいろなものに目が行きます。目に見えるものだけでなく、頬をなでる風の感じ、土の匂い、花の匂い、水音、鳥や虫の声、五感を総動員してすべてを感じ取ろうとします。土地の人に会えば、その方たちの暮らしの場にお邪魔させてもらっているとの気持ちで頭を下げ、こんにちはと声をかけます。
人は、現実の社会の中でさまざまな人と関係し合って存在しているのに、ポケモンGOをしている人は、自分ひとりだけで仮想空間にいるつもりでいる。現実社会の中にいるのに、心は仮想空間の中にある。わたしにはとても違和感があります。
お釈迦さまは悟りを開かれてまず初めに八正道をお説きになりました。その第一が「正見」。物事を偏りのない正しい目で見ることです。
スマホゲームというフィルターを通すと、自分に都合のよいものしか目に入らなくなる、現実社会にありながら見えなくなる、これはとても恐ろしいことです。
この世界ですべてのものごとは互いに影響を及ぼし合い、つながり合っています。他と関係なしに独立して存在するものなどはありません。
お釈迦さまはそれを「諸法無我」とお教えになりました。自分という存在すら単独に存在するものではなく、互いの関係のなかで生かされている存在にすぎないのです。
また、私たちの世界は自分の思い通りにならないことばかりです。それを「一切皆苦」とお教えになりました。
スイッチを入れたり切ったり、リセットしたり。現実はゲームのように自分の都合で思い通りにできるものではありません。思い通りにできるからこそゲームは楽しいのでしょうが、しかし、それが現実社会と重ねられているというのは、よくないことだと思います。
自動車運転中にポケモンGOをして、現実社会にたしかに存在している歩行者が目に入らず、ひき殺してしまうという悲惨な出来事が起きています。
人は、この社会の中でお互いに関わり合って生きているのに、自分自身に都合のよいものしか目に入らなくなる。お釈迦さまの教えの八正道とは、かけ離れた生き方です。戒めていきたいです。