八橋図と言ってまず思い浮かぶのは
尾形光琳の「八ッ橋図屏風」(江戸時代)でしょう。
同じく尾形光琳の「八橋蒔絵硯箱」もよく知られています。
これは鈴木春信の浮世絵。(江戸時代)
これは前にも載せましたが、東京国立博物館が所蔵する「伊勢物語絵巻」。江戸時代の作品です。
これも前に載せましたが、京都銘菓西尾の八ッ橋、明治時代の包装紙。
ご存じ花札の図柄。
こうして並べてみると、八橋とかきつばたのイメージは、どれも同じであることがわかります。このイメージはいつごろ成立したのでしょうか。
伊勢物語ができて100年ほど後の一人の少女が、常陸国から京へ上る旅の様子を日記に記しています。有名な「更級日記」がそれです。
そこには「やつはしは名のみして、はしの方もなく、なにの見所もなし。」とあります。
さらに250年ほど後、鎌倉時代の中ごろ、一人の女性が尼となった晩年に善光寺や伊勢を詣でる途中、八橋に立ち寄っています。「とはずがたり」という日記です。
「八橋といふところに着きたれども、水行く川もなし。橋も見えぬさへ、友なきここちして
われはなほ蜘蛛手にものを思へどもその八橋は跡だにもなし」
他にも、鎌倉・室町時代の旅日記で八橋のことが記されているものはいくつかありますが、どれも、「かの有名な八橋を一度この目で見てみたいと思ってやってきたが、橋も花も何もなくて、がっかりした」というものばかりです。
三河八橋の無量寿寺のかきつばた園は、江戸時代末期に作られたものだそうです。上の写真の庭園は、平成になって整備されたものです。
つまり、本家本元の三河八橋のかきつばた園も、「八橋とかきつばたのイメージ」に倣って、後世に作られたものということになります。
「八橋とかきつばた」のイメージは、江戸時代には、しっかり固定したものとなっています。いつごろ、だれが描いたのでしょうか。
現存する室町以前の「伊勢物語絵巻」に八橋の部分が残っていれば、どんな風に描かれているか、見てみたいものです。
どなたかご存じの方があれば、お教えください。
私が訪ねた当日、無量寿寺では、在原業平の法要が営まれていました。観音経を読誦していたので、一緒にお唱えしました。
(つづく)