OUR HOME ISLAND - いおうとう(硫黄島)

戦前に在住していた島民が、戦後の小笠原返還後も故郷に帰ることが許されていない硫黄島についての情報発信をいたします。

硫黄島島民の集い 今年も「故郷の廃家」を皆で歌いました。今年は2回歌いました。

2008年09月19日 | 硫黄島・小笠原村
「集い」の締めは、恒例の、参加者による歌です。
歌詞のプリントは、開始前に席に配っていただいてあります。

赤組、白組に分かれて、有志は演壇に上がり、それ以外の皆さんは
席で歌います。
鉢巻と赤白帽も用意してくれています。

昨年は、登壇はせずに、席にいましたが、
今年は、叔母たち、小学生の娘と壇に上がりました。

歌う曲は、
運動会の歌、赤組応援歌、白組応援歌、ふるさと、故郷の廃家 です。
歌詞のプリントを手に、上がりました。

故郷の廃家については、このブログで、
最初に昨年の訪問の式典で歌ったことを書かせていただき、
その後、昨年の「集い」、今年の6月の訪問の式典でも
歌ったと報告を書かせていただきました。

最後の部分の「ため」が難しいので、なかなか
皆が合わないことは、昨年もそうでしたので、
分かっていました。
「あれたる わがいえに」の部分の 「る」を
4分音符で5拍分伸ばすのすが、待ちきれずに
バラバラになってしまう部分が難しいところです。

硫黄島の式典の時には、しっかり覚えて下さっている
父島、母島の中学生の皆さんが歌って下さるので、
よく知らずに伸ばす箇所を待ちきれない人がいても
大きくバラバラに崩れることはありません。

今回は、「ここは、故郷の廃家 が、バラバラにずれないように
少しでも頑張ろう。できるだけの声で歌えば、少しは
早く出てしまう人がいても、何とかできるだろう。」と、
今年は壇に上がることにしました。

役員のお一人である、総合司会の方(以下、名司会役員の方)が、
リードして下さいます。

私たちは赤組に入り(たまたま席から近い方に上がった結果)
鉢巻を締めている時に、
役員の方のお一人で、赤組応援団長をつとめて下さる方が、
「故郷の廃家についてブログに書いてあるのを目にしました。」と
おっしゃるので、「それを、書いたのは私です。」と申し上げました。

故郷の廃家を歌う番が来ました。
その時に、赤組応援団長役員の方が、名司会役員の方に、
「この曲を歌うようになった経緯について、書いている参加者に
話をしてもらいましょう。」と持ちかけて下さって、
私がマイクを持たせていただきました。

準備ができていなくて、分かりにくい、下手な説明の
話になってしまいました。すいませんでした。
硫黄島に派遣された少年兵たちが歌った曲であることを
説明しました。

この歌の訳詩は、九州出身の唱歌の作詞家犬童球渓であること
も以前の記事に書いたところ、
鹿児島県在住で熊本県人吉市の犬童球渓の生家を訪ねられたというワシモ様から
コメントをいただき、ワシモ様のホームページにも、
「故郷の廃家」についての話を掲載していただきました。

(ワシモ様のホームページでは、歴史、文化、芸術、紀行文など、たくさんのコンテンツを読むことができます。また、掲示板には、いろいろな方々が、写真や記事を寄稿しています(私もその一人です。)が、ワシモ様のカバーしている範囲が広いので、様々な方が、興味深い味わいのある、写真やイラストなどを文章とともに
寄せています。 ワシモ様のホームページは、検索エンジンで、「ワシモ washimo」キーワードで検索すると、すぐに見つけれられます。)

「集い」での、故郷の廃家 のエピソードの紹介の説明の時には
ブログの記事を読んで下さってから調べて詳しくご存知の赤組応援団長役員の方
が、作曲者と訳詩者についてご質問して下さったのですが、

ブログに記事まで書いておきながら、勉強不足で知らなかった、私が
「犬童」を「いぬどう」と、言ってしまったところ、赤組応援団長役員の方が
すぐに、「いんどう」と訂正して下さいました。

犬童球渓 の縁で、ご自身のホームページにも このブログのことを
紹介して下さった、ワシモ様にも申し訳のない大失敗でした。

「故郷の廃家」を、皆で歌いましたが。
大きな声で頑張ったのですが、やはり、思っていたとおり、
長く伸ばす部分では「ため」を作りきれない人が多く、先に出てしまい、
ずれてしまいました。

名司会役員の方が、
小学生3人を真ん中に呼び集めて
まずは、「ふるさと」を
もう一度、小学生3人がマイクを持って、皆で歌いました。
こちらは、音程がむちゃくちゃなの(うちの娘。頑張っていましたが。)が
入ってしまっていたせいもあって、
リズムではなくメロディーの方がバラバラになってしまいましたが、
「92歳の方から小学生まで参加という年齢の幅の広さ」に
言及して下さる名司会ぶりに、会場は和みました。

最後に「故郷の廃家をもう一度」と、皆で歌いました。
この2度目の時には、「あれたる わがいえに」の
待ってためる部分で、名司会の役員の方が、リフレイン風に
伸ばす5拍分のところで、「あれたる」を入れて下さるという
臨機応変な対応ぶりで、1度目のようにバラバラにならずに
全員で歌うことができました。


開会の時には硫黄島で犠牲になった方への黙祷をしました。

あまりに多過ぎる貴い命が失われた悲惨な戦闘の犠牲者への
慰霊の思いで墓参帰島の式典で歌うのと同じ
この「故郷の廃家」の合唱で、楽しかった集いが、閉会となります。

年に一度、親交を深めて、自分たちが「硫黄島民であること」を
皆で確認し合う、この集いは、本当に貴重な機会であると思いました。
この「硫黄島民の集い」が、
これからも毎年ますます盛んに開催されることは、
非常に大切なことであると、思います。


写真は、希望者に配っていただいた 島唐辛子の木です。

硫黄島原産、父島育ちの木を取り寄せて下さった木だと思います。
帰ってすぐに、自宅の大きめのプランターに植え替えました。
たくさんなっている実は、硫黄島の祈念館近くの木で
摘んだ実よりも、「ふっくら」しています。


集いの会場で写真を撮影して下さっていた、 
コメントも送って下さった「硫黄島島民のつどい一役員」様から
当日の写真を送付していただきました。

その中に、
赤白帽で、マイクに向かって「ふるさと」を歌う、うちの娘
壇上のたすきを掛けた赤組応援団長役員の方と並んで鉢巻をしめた私
という写真もありました。ありがとうございました。
コメント
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