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松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 下』 謀略流転記を読む その2

2014年01月17日 | 戦後秘史・日本占領期

松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 下』 謀略流転記を読む その1では 中島辰次郎が著書で語った「松川事件」の回想のことを記した。 今回その2 では「松川事件に私はそれと知らず関係させられたと語った」1970年夏の記者会見に先立ち、畠山清行、アサヒ芸能記者とともに、松川事件の現場で記憶の検証を行いながら畠山に話したこと。松川事件に関わったという中島を除く6人のメンバーのことなどを中心に『馬賊一代 下』 謀略流転記には書かれていないこと、について触れる。 また10本以上になるという畠山清行の中島辰次郎インタビュー録音の要点(畠山の『何も知らなかった日本人』の中の中島証言要録)との相違とはなにか。現場をその時経験したものしかわからない事実というものが語られているのだろうか。

 

それではまず、中島辰次郎のインタビュー記録をもとに読み物風にまとめた、畠山清行の『何も知らなかった日本人』に整理された佐世保上陸から松川事件までの流れを引用する。

「引揚げが佐世保に着くと、まっ先に乗り込んできたのは私服の二人の二世だった。当時、キャノン機関では、航海中に引揚げ者の身許を調べ、港に着くと同時にこれと思える人物は、機関に連れ込み、おどしたりすかしたり、あらゆる手段を弄して工作員を獲得するという方法をとっていたのである。
 中島の場合は、すでに機関長の日高大佐がキャノン機関の一員となっていたし、(当然、日高は中島のことをキャノンにもらしていて、キャノン機関では、中島の帰りを待っていたのではないだろうか。でないとすると、後述の竹谷有一郎がいう通り、日本に帰ってきたものをいきなり松川工作に投ずるのも妙な話で、前もって彼の経歴を知り、松川工作の一員に予定していたのではないかとも思える。が・・・・・)台湾での乗船と同時に経歴の調査があり、その書類は、沖縄寄港で米軍の手に渡っていた。すでに連行はその時点できまっていたと思えるが、                  「CICのものだが、ききたいことがある」
と停船と同時にのりこんできた二世は、中島を地元のCIC本部に連行した。そして簡単な訊問で、中島に間違いないことをたしかめると、進駐軍専用列車にのせて東京に連れて来て、丸の内の郵船ビルの個室に入れた。
 そこで一夜をすごすと、翌十六日の午前八時には、、新顔の二世が迎えに来たのである。

「どこへ行くのですか」
ときいたが、
「一緒に行けばわかる。このことは、日高大佐も知っている」
という。中島は、日高大佐の名が出たから
「これもOSS所属の日高機関の工作だとばかり信じていたが、後にOSSとは別の、進駐軍G2のキャノン機関の工作ということを知った。」
と語っている。
 ジープで行った先は立川でそこには四人の日本人が、待っていた。中で、五十ぐらいの年輩の風間と呼ぶ男が頭らしく、他の日本人達を指揮していたが、その四人と中島と、彼を迎えにきた二人の二世(一人は光田とよび、小柄な方が土田と呼んだ)の七人は、米軍の輸送機で仙台に向かった。仙台についたのは、十時頃だったが、中島は、仙台ということも、街の商店の看板に「何々商店仙台支店」とあったからわかったので、飛行場で小柄な二世が、電話で、どこかでへ連絡すると、車が迎えに来て三階建ての建物へ案内された。それが、仙台のCICであったことも、その部屋の電話番号の一三六○を覚えていて、中島は後で、調べたのである。

 そこで午後まで休憩して、三時頃に早い夕食をすませると、七人はジープと、黒塗りのフォードの乗用車に分乗して、仙台を出発した。中島はフォードの後部座席に、風間と並んで腰掛けた。風間は、前の座席に座った日本人に、しきりに日本共産党のことを話していた。今こんな風に勢力をのばしているような、かなり立ち入った話だったから、風間はおそらく共産党関係の人物ではないかと思われたが、土地不案内の中島には、どこをどう走ったのか、さっぱり見当がつかなかったのである。(後に、仙台から陸羽街道を通って金谷川に向かったものではないかと推測された)
 かなりの距離を走って、夕刻「金谷川小学校」という看板のあがったあたりまで行くと、前を走っていたジープが速力をゆるめた。大槻という呉服屋があって、その先の踏切まで行くとバックして、学校の横の畠に車をのり入れた。畠にはまだ長くのびていない麦かなにかがはえていたが、あまり手入れもとどかずかなり荒れていた。

 (後に、松川事件当時の耕作者に聞いたところによると、その頃この畠でつくっていたのは、「とうもろこし」か「たばこ」ではなかったかと言っていた」  しかし当時は手不足で、ろくろく手入れもしていなかったし、半分は荒れ地のままで、夏草の生いしげるにまかせてあったというから、車の乗り入れたのは畠地に接した荒れ地。もしくは畠地のはずれではなかったかと思える。・・・著者)

「まだ時間が早い」
「こんなに明るくちゃぁ」
など囁きかわし、煙草を吸ったりして時間をつぶした。ジープには、細長い箱が二つ積んであって、バールなど道具類が入っていた。それを点検したりして、夜を待っている様子だったから、中島は、
「一体我々は何をするんです」と
風間にきいてみたが、
「私には言えないよ。光田さんにきいて見給え」   
という。光田という名前はその時はじめて出たのだが、中島が二世の、体の大きな方の光田にきくと、
「ノーコメントだ。我々が・・・

 

この項続く

後半部 このあと佳境に入るのだが、掲載作業ミスだったのか、投稿が長すぎてエラーになったのか投稿が消えていた。1年後に発見!近日中に続編を再掲載する予定。

 



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