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松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 謀略流転記』を読む その4

2014年01月20日 | 戦後秘史・日本占領期

松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 『馬賊一代 下』 謀略流転記を読む その1では 中島辰次郎が著書で語った「松川事件」の回想のことを記した。 今回その2 では「松川事件に私はそれと知らず関係させられたと語った」1970年夏の記者会見に先立ち、畠山清行、アサヒ芸能記者とともに、松川事件の現場で記憶の検証を行いながら畠山に話したこと。松川事件に関わったという中島を除く6人のメンバーのことなどを中心に『馬賊一代 下』 謀略流転記には書かれていないこと、について触れる。 また10本以上になるという畠山清行の中島辰次郎インタビュー録音の要点(畠山の『何も知らなかった日本人』の中の中島証言要録)との相違とはなにか。現場をその時経験したものしかわからない事実というものが語られているのだろうか。

その4ではその2で記したはずの文章が欠落しているのを発見したので、それを復元することにする。

それではまず、中島辰次郎のインタビュー記録をもとに読み物風にまとめた畠山清行の『何も知らなかった日本人』に整理された佐世保上陸から松川事件までの流れを引用する。(上記の書籍222頁~227頁 詳伝社文庫2007年)

「引揚げが佐世保に着くと、まっ先に乗り込んできたのは私服の二人の二世だった。当時、キャノン機関では、航海中に引揚げ者の身許を調べ、港に着くと同時にこれと思える人物は、機関に連れ込み、おどしたりすかしたり、あらゆる手段を弄して工作員を獲得するという方法をとっていたのである。
 中島の場合は、すでに機関長の日高大佐がキャノン機関の一員となっていたし、(当然、日高は中島のことをキャノンにもらしていて、キャノン機関では、中島の帰りを待っていたのではないだろうか。でないとすると、後述の竹谷有一郎がいう通り、日本に帰ってきたものをいきなり松川工作に投ずるのも妙な話で、前もって彼の経歴を知り、松川工作の一員に予定していたのではないかとも思える。が・・・・・)台湾での乗船と同時に経歴の調査があり、その書類は、沖縄寄港で米軍の手に渡っていた。すでに連行はその時点できまっていたと思えるが、                  「CICのものだが、ききたいことがある」
と停船と同時にのりこんできた二世は、中島を地元のCIC本部に連行した。そして簡単な訊問で、中島に間違いないことをたしかめると、進駐軍専用列車にのせて東京に連れて来て、丸の内の郵船ビルの個室に入れた。
 そこで一夜をすごすと、翌十六日の午前八時(1949年8月16日 ブログ主注)には、、新顔の二世が迎えに来たのである。

「どこへ行くのですか」
ときいたが、
「一緒に行けばわかる。このことは、日高大佐も知っている」
という。中島は、日高大佐の名が出たから
「これもOSS所属の日高機関の工作だとばかり信じていたが、後にOSSとは別の、進駐軍G2のキャノン機関の工作ということを知った。」
と語っている。
 ジープで行った先は立川でそこには四人の日本人が、待っていた。中で、五十ぐらいの年輩の風間と呼ぶ男が頭らしく、他の日本人達を指揮していたが、その四人と中島と、彼を迎えにきた二人の二世(一人は光田とよび、小柄な方が土田と呼んだ)の七人は、米軍の輸送機で仙台に向かった。仙台についたのは、十時頃だったが、中島は、仙台ということも、街の商店の看板に「何々商店仙台支店」とあったからわかったので、飛行場で小柄な二世が、電話で、どこかでへ連絡すると、車が迎えに来て三階建ての建物へ案内された。それが、仙台のCICであったことも、その部屋の電話番号の一三六○を覚えていて、中島は後で、調べたのである。

 そこで午後まで休憩して、三時頃に早い夕食をすませると、七人はジープと、黒塗りのフォードの乗用車に分乗して、仙台を出発した。中島はフォードの後部座席に、風間と並んで腰掛けた。風間は、前の座席に座った日本人に、しきりに日本共産党のことを話していた。今こんな風に勢力をのばしているような、かなり立ち入った話だったから、風間はおそらく共産党関係の人物ではないかと思われたが、土地不案内の中島には、どこをどう走ったのか、さっぱり見当がつかなかったのである。(後に、仙台から陸羽街道を通って金谷川に向かったものではないかと推測された)
 かなりの距離を走って、夕刻「金谷川小学校」という看板のあがったあたりまで行くと、前を走っていたジープが速力をゆるめた。大槻という呉服屋があって、その先の踏切まで行くとバックして、学校の横の畠に車をのり入れた。畠にはまだ長くのびていない麦かなにかがはえていたが、あまり手入れもとどかずかなり荒れていた。

 (後に、松川事件当時の耕作者に聞いたところによると、その頃この畠でつくっていたのは、「とうもろこし」か「たばこ」ではなかったかと言っていた」  しかし当時は手不足で、ろくろく手入れもしていなかったし、半分は荒れ地のままで、夏草の生いしげるにまかせてあったというから、車の乗り入れたのは畠地に接した荒れ地。もしくは畠地のはずれではなかったかと思える。・・・著者)

「まだ時間が早い」
「こんなに明るくちゃぁ」
など囁きかわし、煙草を吸ったりして時間をつぶした。ジープには、細長い箱が二つ積んであって、バールなど道具類が入っていた。それを点検したりして、夜を待っている様子だったから、中島は、
「一体我々は何をするんです」と
風間にきいてみたが、
「私には言えないよ。光田さんにきいて見給え」   
という。光田という名前はその時はじめて出たのだが、中島が二世の、体の大きな方の光田にきくと、
「ノーコメントだ。我々がやることを君はみていればいいのだ。君も専門家ではないか」 という。

専門家とは、なにをさしていったのか、中島も判断に苦しんだが、後に思えば謀略や破壊工作の専門家という意味だったらしいのである。

そのうちに日は暮れたが「まだ早い、まだ早い」で動こうともしない。咽喉がかわいて、水が欲しくなった。すると、二人の日本人が、軍隊で使う布製のバケツをさげて、小学校に水をもらいにいった。誰もいないので、黙って井戸からくんで来たという話だったが、缶詰をあけたり、水を飲んだりして、じっと夜のふけるのを待っていた。

 ヘッドライトを消して、車が畠から道路へ出たのは真夜中だった。大槻呉服店の前を通る時、二人か三人の黒い人影のうごめくのがみえた。ヘッドライトを消していたので、相手の服装や人相もわからなかったし、二世は拳銃を手にしていたが、相手も車に近寄って来る気配はなかった。

 踏み切りの手前で自動車を停めると、バックで畠の中に入れた。そして、二つの木箱を抱えて七人全員が降りると、線路に沿った畦道をを左手へ、歩いて行った。箱を二つ抱えているから歩きにくく、歩調もにぶった。それに歩調を合わせるから、六百メートルほど進むのに小一時間もかかった。それでも、「まだ早い」というので、その六百メートルほどのところで道具箱をおろして煙草に火をつけた。ライターのものもあれば、マッチの物もいたが、煙草の吸殻やマッチの軸を現場に残しておいてはいけないというので、学校の横の畠でたべたかんづめの空かんを、光田が持って来ていたのに入れた。

 光田は大型の懐中電灯を持っていたが、それで照らして煙草の吸殻の点検がすむと、道具箱の中から大きなスパナを出して左側の線路の釘を抜いた。光田が懐中電灯を斜めに構えて線路を照らす。月のない、暗い夜だったが、懐中電灯で、線路は長く遠くまで光り、釘のありかがよくわかった。みんな交替で、約30本ほど抜くと、一メートルほどもあるでかいスパナで、釘を抜いた線路を、二人がかりでねじりずらした。つまり、それで抜いた線と抜かない線との継ぎ目のところが、四、五十センチずれたわけである。作業は、それで終わりで、

「別に内緒でこそこそやるとか、音をしのんでやるというようなことは、まったくなかった。普通の線路工夫が、線路工事をしているのと、あまり変わらない、罪悪感などまったくない工作だった」

と、中島自身も、後に語っていたのである。 」 (畠山清行 『何も知らなかった日本人』 1976年初版は青春出版社、引用は2007年7月刊行の祥伝社文庫版 222頁ー227頁)

畠山清行は中島辰次郎にこの告白を聞いたのちも、取材の都合で月、二、三度会っていたと書いている。たまに松川の話が出ると最初に話したこと以外のことも思い出し、畠山にかたっていた。

箇条書きにしるしておく。

1 仙台から、金谷川を経て、現場に行く間に、二世の光田からもらったタバコがキャメル

2 使用したマッチが蝋マッチ

3 風間という男の、子分のような男が、清水という名

4 事件後数年して、風間と清水が連れ立って、銀座三越か松坂屋の裏にあった北海道拓殖銀行のビルは入る姿を見た

(畠山は、この北海道拓殖銀行は、当時アメリカ関係機関があったことがわかったと記す) 同書228ー230頁

 

また、松川事件に関する中島の回想は1976年発行の『馬賊一代 (下) 謀略流転記』 番町書房にある。当ブログにこの部分は掲載してあるので、まずその 「松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 その1」を読んでいただきたい。

「松川事件 中島辰次郎と戦後史の闇 その1」 2012年 11月18日掲載 のページは下記 ここ▼

             http://blog.goo.ne.jp/jfk1122zzzya/e/0a5f3733d734971bd81202513ce4d631

 

のちに「アサヒ芸能」に1970年8月に松川事件の真相を発表するため、畠山と中島辰次郎は、松川事件の現場にアサヒ芸能記者とともに19707年7月12日に松川事件現場検証を試みている。それをもとにした中島辰次郎の松川事件に関する記者会見は、多くのメディアが無視して、事件を大きく報道しなかった。

アサヒ芸能の記者会見発表の1回目の記事は2013年9月29日に当ブログ記事あります。 ここ▼

             http://blog.goo.ne.jp/jfk1122zzzya/e/b45d47a7afdd2cc62f7fbf6a885b2ea6

 

次に、畠山の 『何も知らなかった日本人』に戻り、1970年7月12日の松川事件現場検証での中島の証言と、畠山のコメントを考えてみる。

中島の証言は死後に発表する予定で畠山は取材していたのだが、畠山は説得を試み、その重要性から、「後代に真実を伝えるため、歴史の証人として、名乗り出る義務がある」 として説き、生前の即時発表となったと記している。 (畠山230ページ)

 

 ▲ 松川事件現場見取り図 畠山清行 『何も知らなかった日本人』 2007年 祥伝社文庫版229頁より

 

7月12日

午後3時50分 福島県松川町(現在は福島市)金谷川小学校到着

中島     「どうも、ようすがおかしいですよ。たしか、大槻呉服店は、あのへんにあったはずです。それに、白壁の土蔵もみあたらない」

 (ブログ主 注  松川事件のあった前夜、当時破蔵師だった斉藤と平間は、破蔵の作業を行っていたのはこの蔵である。のちに、脱線転覆した付近で不審な背の高い9人を目撃したのは彼ら2人である)

畠山コメント と中島は、高架線の下あたりを指さして、しきりに首をひねっていた。そこで、いまは小学校のはすむかい、小川をへだてた国道沿いにある大槻呉服店(事件(前夜、土蔵破りがあったという店)を訪れてきいてみると、まさに中島の言葉どおりだったのである。事件当時、東北線のこの付近の線路は単線で、上り下りともに同じ鉄路を通っていたが、七、八年前に上りの高架線を設けて複線化することになり、大槻呉服店は現在の場所に移転して、そのときに白壁の土蔵もとりこわしたものであった。

つぎに、中島の記憶に導かれて、最初に車を入れて日暮を待ったという畑の坂道をのぼってみた。ここには、いまは一軒の農家が建っていたが、

中島     「ここですよ、ここに車を停めたのです」

畠山コメント という場所は、その家の裏手にあたっていて、目の下に小学校の校舎がある。小学校で、きいてみると、当時は、まだその位置に校舎がなく、雑草が生いしげっていた らしい。水をくんできたという井戸を探してみると、これも校舎の裏手に、いまは使っていないポンプ式の古井戸がみつかった。

陸羽街道を浅川踏切にでると、

 中島     「ヘッドライトを消した車をおいたのは、ここですよ」

畠山コメント と踏切手前の、左手の草原を指した。草原は道路から少しさがっていて、80センチほどの落差があったが、、自動車の出入りできないほどのものではない。

中島     「無人の踏切小屋があったはずだが・・・・・・」

畠山コメント というので、線路の向かい側を見ると、これもい建ち腐れのまま残っていた。(事件当時は、熊さんという踏切番が、通行人のある昼の間だけ番をしていたのである。ー著者(畠山)

踏切手前の線路から約2メートルさがった50センチほどの幅の道を現場のほうへ向かう。約800メートルほどで、田圃の道は終わり、小山にさえぎられていたが、そこへ到達するまでに、中島は、

中島    「たしかこのへんに岩が突き出ていて、その前に石があるはずです。その石に腰かけたり、岩壁にもたれて小休止したんですが

畠山コメント と言った。小山にさえぎられた地点で線路にのぼると、彼の言葉とおり、岩壁が突き出ていて、腰かけたという石もある。

中島    「現場のすぐ前に、雑木やすすきの茂みがあり、ここで小休止しているうちに列車が通り過ぎた」

畠山コメント  というすすきの茂みも、現場の七、八メートル手前にあった。中島らは、いちおう作業にかかったが、いくらも経たないうちに「休憩」の合図があり、この茂みに寝ころがったりして、一時五十七分ごろに現場通過の上り112列車の通り過ぎるのを待ったのである。

現場の慰霊碑に「線香と花を捧げて合掌黙祷した中島は、鉄路の上にかかると、当夜の情況を思い出しながら、ぽつりぽつりと、語った。その語ったところをつづりあわせると、

 

 

以下 その5に続く 近日中に更新

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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