庭木に隠れて日陰になっていた「千両」が、今年、周辺の木の枝を落として日当たりを良くした為か、例年に比べて出来が良く、これなら正月用に豪華な生け花に出来る・・・と、内心、ほくそ笑んでいたところ、何やら、実がポロポロと落ちてしまったのか、今は、すっかり寂しくなっている。
そう言えば、傍らに植えてある「ムラサキシキブ」の実が落ちるのも、やっぱり、早かったような・・・病気かな?
遊び仲間の同級生の訃報が入った。
この「遊びの会」を始めて15年間、皆、ほゞ75歳となり、これで3人の仲間を見送った事になる・・・この数が多いのか少ないのか、はたまた、世間一般として妥当な数なのかは分からないが、こんな事が日常になるという自覚は持っている。
自身に近い年齢の方を見送ると、次は自分かなと思って寂しくなるという話もよく聞くが、今の私は、まだ、どこか他人事、つまり自分自身の事として思いを至らせることは無い・・・とは言っても、「何時までも私は生き残る」とも思っていないから、訃報を聞くたびに、我が生存圏内が段々と狭まって来る感じは、確かに、ある。
家族葬だと言うが通夜参列を依頼された遊び仲間の友達に、お供物(お線香)に短いお悔やみの手紙を添えて託した。
ほゞ毎日、庭の落ち葉掃きを「禅修行だ」と自分自身に言い聞かせて実践している。
最初は、毎日毎日なんと空しい仕事だ・・・と、ネガティヴな気分で始めるが、その内、あれこれ結論の出ない事柄が脳内を駆け巡り、何時の間にか、目の前にある落ち葉に集中していて、この落ち葉はどこから降って来るのかなとか、なんと味わいのある色なんだとか、掃き終わった場所に、新しい落葉がはらりと落ちると、これは明日に残そうとか・・・1時間余(長くても2時間くらい)の落ち葉掃きを楽しんでいる自分を発見するのだ、まさに、これ「禅修行」と言わなくて何ぞや!という境地に至っていると察する。
ま、そんな風で、訃報を聞いたその日も、落ち葉を掃除しながら逝ってしまった3人の仲間と遊んだ日々を思い起こし、あの時は笑ったね、まぁ、よく飲んだなぁと思い出される愉しかった思い出と共に「禅修行」に勤しんだ・・・が、その日、久し振りに我が家の屋敷に沿った区道(他人様のもの)を掃除したものの、きっちり、我が屋敷に沿った区域内だけ・・・という利己主義的行動を実践しているのだった。
つくづく、利己的というか打算的というか、「無償の行為」の出来ない自分を再発見・・・これでは救われないな・・・と、思う。