いせ九条の会

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平川克美さんの憲法擁護論/山崎孝

2007-01-16 | ご投稿
品川政治さんは「経済界が改憲一色であるなどと、ぜひ誤解しないようにしてください」と述べていますが、1月13日の朝日新聞に同じ経済人の平川克美 リナックスカフェ社長の論説が掲載されていました。この論説を紹介します。

国論を二分するような政治的な課題というものは、どちらの側にもそれなりの言い分があり、どちらの論にも等量の瑕疵があるものである。そうでなければ国論はかようにきっばりとは二分されまい。国論を分けた郵政法案の場合も、施行60年を迎えて近頃かまびすしい憲法の場合も、重要なのはそれが政治課題となった前提が何であったかを明確にすることである。

 政治は結果であるとはよく言われる。仮に筋の通らぬ選択をしたとしても、結果において良好であればよしとするのが政治的な選択というものだろう。ただし結果は結果であって、希望的な観測ではない。米国のイラク介入の結果を見るまでもなく、しばしば自分が思うことと違うことを実現してしまうのが、人間の歴史というものである。

その上で、憲法改正の議論をもう一度見直してみる。戦争による直接のの利得がある好戦論者を除外すれば、この度の改憲問題は反対派も賛成派も平和で文化的な国民の権益を守るという大義によってその論を組み立てている。

 9条をめぐって護憲派は、広島、長崎に被爆の体験を持つ日本だからこそ、世界に向けて武力の廃絶を求める礎としての現行悪法を守ってゆくベきであると主張し、改憲派は昨今の国際情勢の申で国益を守るには戦力は必須であり、集団的自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、と主張する。

 なるほど、どちらにもそれなりの正当性があり、等量の希望的な観測が含まれている。しかし将来起こりうるであろうことを基準にして議論をすれば、必ず両論は膠着することになる。

では、確かなことはないのかといえば、それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う。これを国益と言わずして、何を国益と言えばよいのか。

 「過去はそうかも知れないが、将来はどうなんだ」と問われるであろう。現行の憲法は理想論であり、もはや現実と乖離しているといった議論がある。私は、この前提には全く異論が無い。その通りだ。確かに日本国憲法には国柄としての理想的な姿が明記されている。理想を掲げたのである。そこで、問いたいのだが、憲法が現実と流離しているから現実に合わせて憲法を改正すべきであるという理路の根拠は何か。

 もし現実の世界情勢に憲法を合わせるのなら、憲法はもはや法としての威信を失うだろう。憲法はそもそも、政治家の行動に根拠を与えるという目的で制定されているわけではない。変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである。当の政治家が、これを現実に合わぬと言って批判するのはそもそも、盗人が刑法が自分の活動に差し障ると言うのに等しい。

現実に「法」を合わせるのではなく、「法」に現実を合わせるというのが、法制定の根拠であり、その限りでは、「法」に敬意が払われない社会の中では、「法」はいつでも「理想論」なのである。

     ◇

 平川克美さんは1950年生まれ。著書に「9条どうでしょう」(共著)など。(以上)

平川克美さんは、憲法は「変転する現実の中で、政治家が臆断に流されて危ない橋を渡るのを防ぐための足かせとして制定されているのである」とのべています。海外で武力行使してはならないとする憲法規定は、米国に日本が軍事協力を求められた局面で威力を発揮しています。その最大の事実の証明は、平川克美さんの指摘した「それは戦後60年間、日本は一度も戦火を交えず、結果として戦闘の犠牲者も出していないという事実がこれにあたる。政治は結果と効果で判断すべきだというのであれば、私は、この事実をもっと重く見てもよいのではないかと思う」であります。

日米同盟は「血の同盟」だと考える安倍首相は、この憲法規定が一番邪魔で、憲法解釈さえ変えようとしています。

改憲派の、集団的自衛権を行使できなければ、国際社会へ応分の責任を果たすこともできない、という主張を具体的な事実を挙げて論破しなければならないと思います。