いせ九条の会

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ぼくは 芸術の子です 竹内浩三/山崎孝

2006-05-14 | ご投稿
5月12日、私は「五月会」主催「ひょんと消ゆるや」―ぼくは 芸術の子です・竹内浩三―の朗読劇を聞かせていただきました。5月12日(1921年)は竹内浩三の生まれた日で、朗読劇を聞く前に「五月会」の会長森節子さんと一緒にさせていただきお墓参りをしました。朝熊山の竹内浩三の墓の傍に詩碑が建てられています。竹内浩三の姉 松島こうさんの「わがねがひここに成りたり双腕に抱けるほどの小さき碑」という思いにふさわしい碑です。12歳の時、母を亡くしている竹内浩三が、「姉ちゃん、姉ちゃんと追いかけてくる幼い日の竹内浩三のあのベソをかいた童顔」の姿を、松島こうさんが脳裏に浮かべて、碑の前に佇まれたであろう姿を思い浮かべることのできる碑です。竹内浩三は大人になってからも姉に甘えています。竹内浩三の母は歌人でした。その血は二人の子供に受け継がれました。

松島こうさんは9年前、肉親の情愛だけでなく、日本社会で弟の文学が持っている価値に気づき、本居記念館の館長であった高岡庸冶さんに竹内浩三の遺稿集を預けています。そして高岡庸冶さんも遺稿集に感銘を受けています。1966年「手紙集」が出版されています。

朗読劇を行なう為に大阪から「あめんぼ座」の方たちが、お墓と詩碑を丁寧に洗い、少し苔むした詩碑はきれいになりました。遠く離れ血のつながらない人たちが花を手向けお墓に参る、その姿に竹内浩三の文学の力の大きを見る思いがしました。私も以前、奄美島唄歌手RIKKIファンクラブの方が伊勢にツーリングしてきて、詩碑を訪れたと知らせを受けたことがあります。竹内浩三の文学に感銘を受けた人たちは全国にいることをじかに知ることができました。(RIKKIはリッキと読み、島唄調で見事に「イムジン河」をうたっている。テレビにも出ている)

伊勢市での朗読劇開催は松島こうさんに聞いていただく為に催されとのことで、会場には品の良い高齢の女性、松島こうさんのお姿がありました。会場はお寺の本堂内で大きくはありませんでしたが満席でした。

私は軍国主義教育を受けた竹内浩三が絶対的天皇制国家の本質に迫った「骨をうたふ」をどうして書くことが出来たのか、以前から不思議に思っていました。このことを少し私なりに朗読劇を聞いた機会に考えてみました。

竹内浩三と共通点がある石川啄木の詩「飛行機」は「見よ、今日も、かの蒼空に/飛行機の高く飛べるを。給仕づとめの少年が/たまの非常の日曜日/肺病やみの母親とたった二人の家にいて、ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ…。見よ、今日も、かの蒼空に/飛行機の高く飛べるを」と詠っています。沈鬱な日常生活の離脱への思いを空と飛行機に託しています。

竹内浩三の詩「雲」は「空には/雲がなければならぬ/日本晴れとは/誰がつけた名か知らんが/日本一の大馬鹿者であろう(中略)雲は歌わなければならぬ/歌はきこえてはならぬ/雲は/雲は/自由であった」と詠っています。私には、平板で変化のない一つになってしまった社会の価値観とそれからの脱却の思いが感じ取れます。

二人に共通してあるのは当時の社会の常識・現実からの自由への強い欲求とそれを表現した文学的才能です。もう一つ共通するものがありました。金銭に無頓着なことです。啄木も周囲の人にお金を借りては散財をしています。竹内浩三は在学中(日本大学専門部現芸術学部)に、何度も姉に金が足りなくなったから送って欲しいと手紙を出しています。

二人とも金銭に無頓着なのは生まれた環境のせいかも知れない。啄木は村では上流層である住職の子ども、竹内浩三は伊勢でも指折りの呉服屋・洋服屋の子どもでした。啄木は父が住職を追われ、家族を養う立場に立たされます。

竹内浩三は父親に財産を残して貰っていますから、竹内浩三は、金銭が関係した生活上の抑圧は感じずに居られた。しかし、軍隊生活で人並み以上に不自由を感じたと思われます。親友の中井利亮さんは竹内浩三が「帰りたい。よくまぁこんなところにいて発狂しないものだ」と話したことを述べています。

石川啄木が生きていた時代は社会主義思想にまだ触れることが出来、その思想を学んでいます。啄木の軌跡を辿ると1909年ローマ字日記を記す、4月浅草に通い娼妓と遊ぶ、日記に赤裸々に描く。6月16日函館から家族(妻子と母)が来て、本郷区本郷弓町の床屋の二階に移る。10月妻節子が啄木の母との確執で盛岡の実家に向かう、金田一の尽力で妻は戻る。12月になり父も同居する。金田一京助(アイヌの叙事詩を集成した学者)の家族は石川啄木をとても嫌っていました。啄木が家に来ると借金を頼み、父が貸した為に自分の家の家計が苦しくなっていました。

1910年6月3日無政府主義者の幸徳秋水の検束の報道が出で、啄木は大逆事件を熱心に調べています。8月下旬「時代閉塞の現状」を執筆しますが、校正係として勤めていた「朝日新聞」には掲載されません。「時代閉塞の現状」は、理想を抱く者に対して国家や家などの秩序が重くのしかかることを述べ、文学は社会をリアリティに描くべき、と主張しています。そして「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨を塗りつつ秋風を聴く」と詠い、日本帝国主義の本質を見抜く歌を作っています。幸徳秋水は日露戦争に反対する主張を「平民新聞」で述べています。

竹内浩三の生きた時代は社会主義思想に通常では触れることの出来ない時代になっています。しかし、優れた感性で社会の異常さを感じとっていってゆきます。

中学時代に同人誌を竹内浩三と共に出していた坂本楠彦さんは書いています。要約しますと、盧溝橋事件が起きて陸軍が兵を動かすと、国民から従軍を嘆願する血書が続々集まってくるというような報道がされていた頃、竹内浩三は「血書嘆願 ヘヘ、私もしましたよ。場の男」(小林察著「日本が見えない」)というコラムを同人誌に載せて学校から発行停止を受けたと述べています。

一緒に文芸誌を出した小林茂三さんは、『…何よりも発想・表現・価値判断の尺度が現代人離れをしていた。例えば、軍事教練で「気を付け!」をしている時、突然「ウァッハッハッ!」と笑ってしまうのである。未来人の彼には「不動の姿勢」は現代人の、醜い偽善の姿と思えたのであろう。当然、配属将校や生徒監の教員からは、不謹慎な生徒というレッテルをはられてしまった』(小林察著「日本が見えない」より)と述べています。

軍隊に入営中の「筑波日記」、1944年1月21日は(前略)「三島少尉ニ呼バレ、ユクト、コナイダノ演芸会デ発表シタ「空の神兵」ノカエウタハ、神兵ヲブジョクシタモノデアルカラ、今後ウタウベカラズ、作ルベカラズト」と記しています。(「筑波日記」は小林察著「日本が見えない」より引用)ここでも、中学時代から持っていた、醜い偽善を嫌う性格が表れ行動しています。茨城県西筑波飛行場滑空部隊挺身第5連隊歩兵大隊第2中隊第2小隊に入隊していました。

「筑波日記」1944年5月23日は、演習の帰り道で「赤塚の駅前で、子供が部隊の横をよこぎったと云って、中隊長は刀を抜いて子どもを追っかけた。本気でやっているのである。その子供の一生のうちで、これが一番恐ろしかったことになるであろうと思った。寝たのは24時過ぎであった」と記しています。

竹内浩三の政治意識が少しわかることが日記にあります。「筑波日記」1944年7月22日は、(前略)ところで、話はかわるが、サイパンがやられ、東条内閣がやめになった。一体これはどう云うわけか。「政治に拘わらず」と勅諭に云われているし、ぼくは、もともと、政治には、ぜんぜん、趣味のないおとこで、新聞などでもそんなことは、まったく読んだことがなかったから、そう云うことに口をはさむシカクはないのだけれども、東条と云う人は、あまり好きでなかつた。山師のような気がしていた。そして、こんどやめたと云うことも、無責任なことのように思えてならない、と記しています。「筑波日記」は密かに姉の元に送られた手帳に記されていたものです。

竹内浩三は軍隊生活の抑圧から気持ちを紛らわそうと、「一番消極的な夢」を記しています。「筑波日記」1944年6月19日、本部のうらに将校集会所ができて、その庭つくりの仕役に出た。

谷田孫平がその静かな眼をいきいきとさせて云うのである。満期したら、北海道で百姓をするんだ。牛を飼うんだ。毎朝牛乳を飲むんだ。チーズやバタやす乳を醸(つく)るんだ。パンを焼くんだ。ジャムをつくるんだ。キャベツやトマトも植えるんだ。ひろいみどりの牧場を見ながら、サラダをたべるんだ。

 谷田孫平に、敵のたまがあたらぬよう、このたのしい夢が戦死しないよう祈りたい。

 おれは、こうなんだ。やりたいことがいろいろあるんだ。

 その一つ。志摩のナキリ(註 現在の志摩市大王町波切に竹内浩三は遊びに来ている)の小学校で先生をする。花を植え、音楽を聴き、静かに詩をかき、子供とあそぶ。

 これがおれとして、一番消極的な生き方だ。たまに町に出て、映画など見る。すると、学校の友だちが、その映画で、華々しく動いている。みじめな道を選んだものだ。そう考えて、じぶんを淋しく思うようなことはなかろうか、それをおそれる。

 も一つ。南方へ行くんだ。軍属になって、文化工作に自分の力一杯仕事をするんだ。志摩のナキリでくすぶっているよりは、国のためにいいことだと思う。おれだって、人に負けないだけ、国のためにつくすすべはもっている。自分に合った仕事をあたえられたら、死ぬるともそれをやるよ。でも、キカン銃かついでたたかって死ぬると云うのは、なさけない気がするんだ。こんなときだから、そんなゼイタクもゆるされないかもしれぬ。自分にあたえられた仕事が、自分にむいていようがいなかろうが、それを、力一ばいやるべきかもしれぬ。しかし、おれはなさけないんだ。孫さん、お前おれの気持わかるかな。(以上)

啄木は自らの生活体験と社会主義思想で帝国主義の本質を見抜きました。竹内浩三は、軍国主義思想に染まらず、あくまでも人間らしい自然な心を保ちながら鋭い感性で、絶対的天皇制国家の本質を見抜いた。忠君愛国の大義をふりかざし、個人の人生を容赦なく奪う姿を「骨をうたふ」などで表現し、後世の人々に国家と個人のあり方を考えさせる文学を残しました。

21世紀に入っても悲しいことに「骨をうたふ」は、イラク戦争を起こした米国と有志連合参加国の兵士の運命を表現する詩になってしまいました。

遠い他国でひょんと死ぬる……ふるさとの風や/こいびとの眼や/ひょんと消ゆるや

日本人がこの運命に陥らないために、憲法は守らなけばと思います。