いせ九条の会

「いせ九条の会」の投稿用ブログです(原稿募集中)。
会の趣旨に賛同される方、メールでご投稿ください。

真のヒューマニズムとは/山崎孝

2006-05-11 | ご投稿
浅野慎一さん(神戸大学・社会学)は、2002年から、中国東北地方と日本の双方で中国残留日本人(残留孤児、残留婦人)とその家族に関する実態調査を行なってきました。そして残留孤児を育てた中国人養父母の生活史・誌を『異国の父母―中国残留孤児を育てた養父母の群像』(岩波書店)を今年1月に刊行しました。その浅野慎一さんが2006年6月号「図書」で、中国残留日本人孤児の養父母について書いています。抜粋して紹介します。

 「一人の人間の生活と、一つの社会の歴史とは、両者をともに理解することなしには、そのどちらの一つをも理解することができない」(C・W・ミルズ『社会学的想像力』鈴木広訳)。養父母の人生は、帝国主義、東西冷戦、グローパリゼーションといういずれも国境を越えた現代史の対抗軸につねに立たされ、虐げられ続けてきたといえよう。しかし彼・彼女らは、単に時代に翻弄されてきただけの客体ではない。「養父母になる/養父母である」ためには、明らかにある種の主体性が、つまり「能力」が必要だったのである。

 以下、それぞれの時期において、養父母の主体性、「能力」とは何だったのか、検証しよう。

 まず第一期、養父母達は日本の侵略によって様々な被害を受けたにもかかわらず、戦後、敵国だった日本の孤児を引き取って育てた。それはなぜか。

 ある養母は戦時中、日本人警察官に蹴り倒されて流産し、その後、二度と妊娠できなかった。彼女は今、こう語る。「私は日本人にあれこれ言うつもりはありません。当時、日本人が侵略しにきたのも、日本政府・国が派遣したからでしょ。一人一人の日本人が悪いわけではないのです」。日本の敗戦後、彼女は、路上に遭棄された日本人孤児と出会い、「誰も引き取らないと、この子は餓死するかもしれない」と、たまらない気持ちになって、引き取ることにした。「子供に罪はないし、育てなければ死んでしまうのですから。日本人とか何人とか考えず、ただ私の娘だと思って育てただけです。子供を置いて逃げた日本人の親を非難するつもりはありません。日本人の親も、手放したくて手放したのではないのです。当時は、そうしなければ子供が生きられなかったから、仕方がなかったのです」。

 ある養父は、日本の侵略で飢餓に瀕し、労工として強制労働をさせられた。日本の敗戦後、彼もまた生後まもない日本人孤児と出会った。子供は骨と皮に痩せ、息が荒く、とても育つとは思えなかった。彼は語る。「捨てるのは簡単です。でも、やはり命は助けなければ……。まぁ、どの国の子とか考えずに、救命という感じですね。私は、子供を捨てて逃げた日本人のことを冷酷だとは思いません。逆に、一番賢明だったと思います。捨てなければ、まちがいなく皆、死んでいたでしょう。捨てたからこそ、子供は生きられたのです」。

 この二人に限らず、養父母達は当時、中国にいた一般の日本人をほとんど非難しない。むしろ同情している。彼女達に言わせれば、「一般の日本人には何の権力もなく、私達と同じ」であり、「上の人が言えば、下はそれに従わなければならないのは、日本でも中国でも同じ」だ。敗戦後、殺されたり、難民になった日本人は、「偉い人ではなく、普通の農民や女性・子供ばかり」だった。日本人の実父母が子供を遺棄したことも、子供の命を助けるための「一番賢明」で「優しい」、しかしそれだけに「気の毒としかいいようがない」選択だった。

こうした養父母のまなざしにおいては、中国人か日本人かという国籍の違いより、権力者か民衆かといった階級の違いの方が重視されている。またそこには、何にもまして人間の「生命」を優先する感性・責任感がみてとれる。

 さて第二期、養父母達は、どのようにして日本人孤児を守り抜いたのか。

 ある養父は、国民党と共産党の内戦による食糧難で餓死寸前になりながら、養子を抱いて食糧がある農村への関門を命がけで突破した。養子が「小日本鬼子」といじめられるたびに、転居を繰り返した養父母もいる。文化大革命時代、養子だけでなく養父母も「日本のスパイ」の嫌疑で街を引きずり回されたり、収監されたりした。一六年間も農村に下放されたり、暴行を受けて半身不随になった養母もいた。こうした中で養父母達は、「この子は日本人ではない。自分が生んだ実子だ」と言い張り、真相を隠して養子の「生命=生活」を守り抜いた。

 東西冷戦のイデオロギー対立や政治的迫害は、養父母と残留孤児の親子関係を引き裂かなかった。むしろ迫害は、親子を一層強靭な運命共同体にした。それは、養父母からの一方的関係ではない。ある残留孤児は国共内戦中、豆の残り糟を食べて飢えをしのぎ、祖母(養父の母)に食糧を譲った。朝鮮戦争時の米軍による空襲の際、身を挺して家族をかばった残留孤児もいた。養父母達は、こうした養子の一つひとつの行為に感動し、今もそれを記憶し、残留孤児のことを「とてもいい子だ」、「親孝行な子だ」と語っている。

 そして第三期、日中国交回復以降、残留孤児の肉親捜しが本格化し、養子の多くは日本に永住帰国して行った。これは養父母と養子の双方にとって、つらい別離でもあった。当初、「日本に行かないで」と泣いて養子に懇願した養父母も少なくない。しかしその後、養父母達は養子の苦悩を理解し、葛藤を乗り越えて、肉親捜しに協力した。「私が死んだら証人がいなくなる」と、ついに真相を証言したある養母は、「身を切られるようだ。どうしたらいいかわからない」と今も涙を流す。日本への永住帰国についても、養父母達は最終的には養子の希望を受け入れた。ただしそれは、養子が「日本人の血を引く日本民族」だったからではない。むしろ養子がこれまで中国で「取り残された日本人」として差別や不利益を被ってきたこと、そしてグローバリゼーションの進展に伴って養父母や養子の山家を含む中国東北地方の大多数の民衆の生活が困難に陥ってきたことが、養子の日本への永住帰国を容認した大きな理由であった。「日本に行けば、養子は日本人として差別されることもないだろう」、「養子や孫も生活苦から抜け出せるだろう」、「日本政府は、戦争被害者である養子の生活を支援してくれるに違いない」。養父母達はこのように考え、別離の苦悩とその後の孤独に耐えようと決意したのである。(中略)

 こうした養父母の能力は、文化や民族によって異なる多元主義ではない。競争に勝ち残ったり、あるいは競争からの離脱を自ら選択するような個性的能力でもない。自己と他者の二分法を前提とした利他主義でもなければ、ボランティアのような市民的共同とも違う。「養父母になる/養父母である」能力とは、人間としての普遍主義、しかもどんなときも人間の「生命=生活」を最も大切なものとみなし、帝国主義、東西冷戦、グローバリゼーションに抵抗し続ける、静かな批判的普遍主義である。(以上)

希望を抱いて帰国した孤児たちに日本政府は訴えられるような態度でした。このことも浅野慎一さんは詳しく書かれています。

小泉首相は、「日本人が侵略しにきたのも、日本政府・国が派遣したから」と、普通の日本人の責任は問わないが、上の人の責任はあるとする、日本人残留孤児を育てた養父母を含めた中国人の靖国参拝批判を考慮せず、戦争指導者を神として祀る靖国神社に参拝を繰り返しました。小泉首相自身の心を大切するけれど、中国人の養父母の日本人孤児に対する慈愛に満ちた心にも応えず、侵略の被害を受けた一般中国人の心にも思いやることをしませんでした。

中国人婦人の「子供に罪はないし、育てなければ死んでしまうのですから。日本人とか何人とか考えず、ただ私の娘だと思って育てただけです」、中国人男性のどの国の子とか考えずに、救命する態度は、民族を超え、国家を超えた人類愛の立場だと考えます。これが真のヒューマニズムだと思います。民族主義に陥ると自国民には同情をするが、他国の人のことを視野に入れることに弱く、悪い場合は憎悪の対象にしてしまう場合があります。

自民党新憲法草案前文は、「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概自ら支え守る責務を共有し」と煩雑な言い方で、まずは最初に自国に対する責任感と気概を持つこと、国を守る責務を強調しています。この強調は、日本が公正を求める国際社会の態度と対立した場合でも、自国の立場を擁護することが求められます。擁護しなかった場合は「非国民」というレッテルを張られかねないのです。この傾向はイラクでの日本人人質事件でも表れました。

これに対して日本国憲法前文は「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めている国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う」と、真のヒューマニズムの立場を明確にしています。

「九条の会」に結集した人たちは、国の根幹である憲法を変えようとする自民党政治を拒否する。「時代に流される客体」であることを拒否しょうとする人たちの集まりだと思います。