好奇 高齢者 の呟き

地場産業や蒲原の風景 山 山野草 良寛歌碑、 史跡 旧北国街道を訪ねる、 また聞いたり話した、方言を紹介したい、 

燕市のシンボル ,回想

2010-01-02 17:37:24 | Weblog
お正月二日 天候は晴れ 少し寒いが雪が降らないだけでも朝は
道路も凍結も心配して居ましたが、それ程でもなくて、恒例に
している 四五年間も働いた 会社の当時の社長に お年始に。

『写真は南町から中の口川挟んで 見る燕のシンボル 水道の塔(旧配水塔)
文化センター(浄水場跡地) 一九三八年~一九六九年まで 使用。
全高さ30、M 巾10、M  正八角型。此の辺りの中の口川 曲がる 
この辺 から直江川とも呼ばれて 直江兼続が
改修したとも言われている。 当時洪水で苦労した事が窺われます。
この堤防沿いの桜並木が 私のお気に入り 此処を絵にしています』余談です。

私の今までの人生がすべてこの会社と共に 当時は若さで 怖いもに知らず
かなり反発したりも しました、会社の為 社員の為にも 製品開発 
顧客の開拓 懐かしいです、当時は考えたら 社長も もちろん私も
若く 燃えて仕事をしていました 。 入社時は おばさんと私が最初の
社員でした。関西から 九州 名古屋 東京 全国飛び回って居ました。

工業団地に進出商社だけでなく 一貫メーカー目指して 努力が報われる時代
五〇人ほどの社員 何十社の協力工場も有りましたし。 新製品を考える事も
寝ても覚めても デザイン金型から手配 販売戦力で自分が会社を動かす
そんな気概でした。小さい会社ながら親戚でも無い人が 取締役にも為れたのは
時代ですね、
営業部長 公害管理者 交通管理責任者 顧客の接待 海外でもゴルフも
ハワイやタイでも 国内は 長野 奈良 千葉 彼方此方で 会議と称する
観光で 楽しく働き該のある時代でした、当時は自分の能力と勘違いしていましたが、 

そんな事を感じて話して来ました 。高齢者は過去を懐かしく思う。仕方が無い
今更将来 未来を語れません。評論家になってしまいますから。
私は特に高齢になってから 苦しかった事 いやな事も 思い出は楽しい事のみ
思い浮かびます。幸せな事です。
コメント
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