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神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

野球小僧

2023年06月21日 11時33分45秒 | 野球
今日の朝食
目玉焼き、厚切りベーコンステーキ越中醤油味甘口、朝取りネギ納豆
わかめ、油揚げ、さや、ニラの味噌汁


昼食 自家製塩ラーメン


その昔、戦後間もないころラジオからは灰田勝彦の「野球小僧」という軽快な歌が流れていた。
父が20代の頃、灰田勝彦に似ていると言われて結構モテたそうだ
確かに、灰田勝彦の写真を見ると似ている、私も父に似ればよかったと思うが・・
だが私を「お父さんに似ている」という人もいるが、それは「瓜二つ」という意味ではないから真に受けることはしない。

ともあれ昭和30年代、私は小学生で遊びと言えば、やはり野球だった
この頃、少年雑誌に寺田ヒロオさんの「スポーツマン金太郎」という野球漫画が連載されていて、野球少年を夢中にさせた。
山奥の金太郎少年が巨人軍に入団して活躍する漫画で、村でライバルだった桃太郎も西鉄に入団して競う話
巨人には当時のスター王、長嶋もチームメートとなる、監督はV9の川上さん
西鉄にも中西、豊田、稲尾というスーパースターが居て、巨人と日本シリーズで熱戦を繰り広げた。
私は個人的には子供ながらアンチ巨人で、国鉄スワローズのファンだった、もちろんエース金田正一投手が大好きだった
捕手は根来選手、たしか後に監督をやったような気がする
飯田、土屋、箱田、町田、宮本、徳武とか選手がいたように記憶しているが60年前の事定かではない。
常に大洋、広島と3チームでBクラスを競っていた国鉄だが、金田投手は今では考えられぬ働きで、全試合の半分くらいに登板していたようだ
ダブルヘッダーで先発の後はリリーフで登板するとかあったらしい
10何年か連続で20勝以上をあげていたが、弱小チームでこれだけ勝つのだから
いかにすごかったかがわかる
去年までのエンジェルスの大谷選手に似ている、国鉄で300勝あげたのだからこれだけでもすごさがわかる、巨人に移籍して積み重ね日本選手初の400勝投手になった、打撃も良いので代打出場もあった。

小学校2年の時に、海に近いところに住むスポーツ万能のT君と数名で砂浜で野球をして遊んだ
あれで足腰が自然に鍛えられたと思う、高学年になって運動会のリレー選手に私とT君、同じく野球仲間のS君も選ばれたのだから確かである。
S君は後に東大医学部に進学して、田舎町では天才少年と言われた男であった。(東大紛争で試験なく、最初の年は仕方なく、京大医学部に現役入学)

私の家は最初は海辺にあったが、父が行商の先行きを危ぶみ、1km内陸の地区に引っ越して小さな鮮魚店を開店した、昭和32年の事である
家の隣は、かっては沼だったと言う、それを砂で埋め立てて300坪の砂場が出来た、そこは出入りが自由で子供たちの遊び場として開放されていた
学校から帰ると、カバンを玄関から放り投げて、砂場で野球をして遊んだ
毎日野球をやった
竹を切ってバットにした、ボールはゴムボールだったからデッドボールでも痛くない。
右打ちがレフト方向にホームランを打つと、それは我が家を直撃した
左打ちは距離が短くて国道にボールが出るとホームランになった、右と左のホームランは飛距離が半分だったから、断然左打が有利だった
中学生のケンちゃんが一緒に遊んで、左打でシーズン100ホーマーを記録した
私は右でシーズン16本だった、中学生が小学生とやるなんてずるいと思った

中学生もいれば幼稚園児もいて弟は年長、私は小4だったが弟の同い年にM君が居た、この二人も小さいながら野球の中に混じって駆け回っていた
このM君が高校三年生の時、わが母校初の甲子園出場を果たしたが彼がキャプテンだった、一回戦で完封負けを喫したが、翌年も連続出場してエースのK君がプロ野球選手になった、生涯一軍成績は0勝1敗だったが球団親会社の経営陣として迎えられた。

これより5年前にも私の一年先輩Sがプロ野球に入団、一軍で生涯成績25勝くらい上げた
Sと一緒にプレーしたショートのNは我が家に隣家の長男で私が生まれて初めての友達、小学校入学して引っ越すまで遊んだ
野球センスは良かったので、本人もプロを目指したが叶わなかった

働くようになってからは25歳ころから朝起き野球のチームに所属したが
魚屋の青年部のチームを再結成(父たちの時代にチームがあったが、長い間やっていなかった)「サンマーズ」というチーム名で、それは先代の時と同じだった、これは魚屋の県大会もあって、そこで優勝したからなかなか強いチームだったのだ。
他にも、乾物問屋の野球好きが作ったチーム、自動車工場が作ったチーム、テナントで入ったスーパーのチームにも所属した
最後には、昨日書いた麻雀仲間で作った「タイガース」というのもあった
これが唯一勢いで作ったチームで、麻雀メンバーに定時制高校野球部の連中を引きづりこんでやっていたが、彼らの地区大会の応援に行ったことから、サポートメンバーだった年上の我々も参加してタイガースを作ったのだった。
酒のみの虎と、寅年生まれの虎の集まりでタイガースと名付けたのだった
最後は地域の商工会のチーム、私はタイガースと商工会チームで初めて存在感を現した。
タイガースでは名誉発起人となり、商工会ではマネージャー兼スコアラー兼選手として頑張れた。

7勝25敗の弱小チームが、最後の大会で優勝候補に勝利して3位になった、私は生まれて初めて4番セカンドでフル出場、高校球児だった相手投手から3打数3安打3打点1四球の活躍、神がかりだった、これが草野球最後の試合となった。
まるで「がんばれベアーズ」みたいな幕切れだった。








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