高校生の頃、父はすでに私を自分の後継ぎとし魚屋にすることを決めていた
そのとおりの人生を送ってきたわけだが、そんな高校生の時に、ふと言った。
「おまえは学校の先生か坊さんが似合っている」
その言葉を聞いて思ったのは(小学校の先生ならともかく、中高の生意気盛りを教えるのは性に合わない、研究者として仲間や個人でやる学者ならよいが、教壇に立つのは向きではないと、だが坊さんはまんざら見当違いではない)
坊さんといっても厳しい修業を生涯続けて仏に仕えるなどというのは、とてもじゃないが無理である
それでは坊さんになんかなれない、だが世間の坊さんを見渡せば、尊敬に値する立派な坊さんもいれば、ゴルフ三昧だ、女狂いだ、ヤクザまがいの坊さんもいる
それならば私でもなれないことはあるまい、但し後者の坊さん並みではなっても意味がない。
さて歎異抄を読んでいて時々心に入ってくる言葉がある
例えば「親鸞さまの正しい教えは、没後わずか30年ほどで教団という集団組織の中で、その真意が曲解されている
『お釈迦様(阿弥陀仏)の教えは、唯一この世界で親鸞だけの為の教えである』と親鸞さまはおっしゃった。らしき言葉が出て来た。
そもそも仏教の始まりは個の深い悩みに人が陥ったとき、絶対的な安心、導きにすがる人間の心の作用がつくりだしたもの
お釈迦様にしても、聖徳太子にしてもこの世の無常と、人の力では変えることのできない死や病、様々な欲心(煩悩)に対して、どのように理解するかの問いである。
ならば私にも、それはある 真剣にこれらの無常や自分の非力、あまりの小ささに思い悩むならば、そこには宗教があり仏様と出会っている。
まさに「お釈迦様は私だけの為に教えをくださったのだ」
ならばお釈迦様の教えを理解しなくてはなるまい、それが修行だ
お釈迦様の教えは、口伝を受けた直弟子たちによって、数万の経典として編纂されたが、お釈迦様の教えの年代や、弟子の資質によって内容は微妙に違ってもいる
開祖と呼ばれる宗派の長は、それぞれが自分の心に合う経典を選んで、**経を開山した。
だから元はお釈迦様の教えでありながら、対立を繰り返している
親鸞さまが作った浄土真宗さえ、東と西に分裂したではないか
またお釈迦様の教えもアジアに広まる中で大乗仏教、小乗仏教などの対立もあった、こうしたものを見ると立派な宗教と言っても人間臭さから抜け出ていない
まさに「群盲 象をなでる」であって、とてつもない大きな教えの中からわが意に沿った部分を取り出して「我が宗派」を名乗っている
もちろん、大きな幹となる法華経など特に重要な骨の部分は共通してはいるが
それは教団という大きな組織になって、経営が主たる目的になったことで残念ながら雑念が若干紛れ込んでしまった。
親鸞さまが申された通り、宗教は個人の中にあって、個人個人の悩みが違うだけの数だけあると言うことだ
だから宗教は個人でもできると言うことではないか、宗教にルールがあるのか
縛りがあるのか? それは宗教と言えるのか
ルールは集団を統一統率するためにある、個だけであればルールは必要ない
全て自分に帰ってくるからだ。
もちろんルールをガイドラインにすれば理解するには楽である、でもそれは本当に求めるものの答えであるのか?
己の苦しみの質や量は自分にしかわからない、それをグループに分けて考えるのは占いと同じではないだろうか
この苦しみは個が解決するしかない、それが出来なければ教団に救いを求めるしかあるまい、その中には問題の教団もあるのだ
教団を選ぶにも個の責任が生じることを承知しなければ泣きを見る。
私は今さら宗教家になる気もないし、なる力もない、だが心の中に宗教観を持つことはいつでもできる、今でもできる
寝る前に寝るまで一人宗教を実践できる、仏心を持ちながら眠りに落ちるのは座禅に通じるのではないか?
浄土真宗は理屈が簡単で、宗教を面倒だと考える悩める人には向いている
「南無阿弥陀仏」を十篇唱える、それを一日何度か繰り返すだけで阿弥陀様が救ってくださると言う
宗教家でもない、忙しい庶民にはまことに都合よい宗派なのだ
キリスト教であれ仏教であれ、信じる者は救われる、信じるところから始めるしかあるまい
私が仕事をやめたのはその力が及ばなかったからだが、別の部分でもいやなことがあったのも一つの原因だ
それは、生きた魚を調理すると言う殺生に耐えられなくなったからだ
新鮮野菜の中から出てくる虫さえ殺せない、こうなると調理人失格だ、仏心をもったらお終いだ、そんなことで仕事に嫌気がさしていた
今は野菜を育てる、生命を作る方に回った、いずれはその命をいただくことになるが、リアルな魚よりは罪の意識は少ない
それも勝手な解釈かもしれないが、それさえ嫌気がさせば、もはや飢え死にするしかあるまい。
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