神様がくれた休日 (ホッとしたい時間)


神様がくれた素晴らしい人生(yottin blog)

父20歳の3月10日

2018年03月11日 10時23分15秒 | 昭和という時代

昭和20年東京。 前年からアメリカ軍の無差別都市爆撃は激化してきて、東京もただ事では無くなってきた

そのため、子供達をいち早く長野県などに集団疎開させた

一般住民の中にも、危険を感じて東京から地方へ疎開する人たちも出始めた

父は調布飛行場で兵役に就いていたが、父の父母(私の祖父母)は亀戸に住んでいた

しかし福島の三春の叔父さんから「東京も危ないようだから、こちらに疎開してこい」と言ってきた

それに甘えて、父の父母は3月5日に福島へ疎開することを決めていた

ところが、父が8日に休日をもらって家に帰ってくることになり、疎開の日を11日に伸ばしたのだった

これが生死の分かれ目になったのだから皮肉なものである

 

父は8日に亀戸を訪ね、一家団欒を楽しみ9日の朝には調布の部隊に戻った

そして10日の深夜0時、アメリカのB29が数百機の編隊で東京上空3000m以下という低空で

爆弾を落とし始めた、(通常は安全な8000m前後でやってくる)もう日本に迎え撃つ戦闘機がほとんど

無いことを知っての行動だった

低空だから確実に目標に命中する。 今回は軍需工場でも飛行場でも軍の施設でもなく

明らかに民間人が密集して住んでいる下町、上野、浅草、日本橋、亀戸、砂町といった住居地への

爆撃だった。

東京市民が寝静まった深夜0時から侵入して、まず可燃性が高い油を住宅地にまき散らし

その後に発火する焼夷弾という爆弾を大量に落とした。

これは爆発させて破片で殺傷、破壊するのでは無く、木造の日本家屋を燃やすための爆弾なのだ

日本の家屋を徹底的に研究して、いかに効率よく激しく燃やすための実験を何百回も繰り返して研究した

爆撃方法だった。

あっという間に下町で数千戸の家が燃え上がり、どんどん延焼していった、そこにまた新たな爆弾を

落としていく。

2時間の間に100万戸の家屋が燃え尽くされた。 空気は湿度0、周囲は全て発火点に達していて

走り逃げ惑う馬が一瞬で炎に包まれたという証言もあった

衣服は火をつけなくても燃え上がり、炎の空気が咽から肺を焼き尽くし、熱さに耐えられぬ人たちは

橋の上から隅田川や十間川に飛び込んだが、川面はB29が撒いた油に火がついて燃えており

潜れば3月の冷たい川水で瞬く間に凍え、上は焼熱地獄、下は氷結地獄で瞬く間に人々は死んで

流され、下流の橋桁の周りは焼け焦げた遺体で川が見えないほどだったという。

防空壕に逃げ込んだ人々は安心も束の間、入り口が爆弾で塞がれた上に、酸素不足になって

みんな金魚のようにアップアップしながら窒息していく、奥に潜んだ者は灼熱地獄の中で蒸し焼きになって

死んでいった。

オーブンの中で焼かれたに等しいから、ナチスが行ったアウシュビッツのガス室と同等の残虐行為であった

こうして10万人の市民がむごたらしい死に方をしたのだった。

 

空襲が始まる前から警報が鳴りはじめ、父の高射砲隊もB29に向けて打ち始め、数機に被害を与えたが

米軍の攻撃に、さしたる支障はなかった。

同じ部隊の兵が父に「どうもきみのご両親が住むあたりがやられているようだが、何事も無ければ良いが」

と言った。 調布は高台なので浅草方面が火の海となって南国の夕焼けのように燃えているのがわかる

(横浜が爆撃されたときも真っ赤な空が見えたという)、気が気ではないが、戦闘中に私情は禁物だ、

やきもきするがどうにもならない

朝になって、下町出身の兵隊に半日の偵察休暇が与えられた、父は直ちに上野を目指して省線に乗った

上野で下りると、一面がれきの山で、都会の景色が何もかも無くなっていた、そして普段は建物の影で

絶対見えないはずの筑波山が見えた。

一緒に上野で下車した砂町の出身という上等兵と二人で城東区を目指して歩きだした

あちらこちらがまだくすぶっていて、時々炎を上げたりしている

空襲が終わって、まだ8時間ほどしか経っていないのだから当然である、通りは黒焦げや半焼けの遺体が

半端でない程の数で転がっている、最初は目を覆いたくなる景色だったが次第に慣れて平気になった

とにかく早く、亀戸へ行って父は(父の)父母の安否を確かめたかった

ようやく亀戸に着き、自宅あたりらしきところへ行ったが、どこもかしこも焼き尽くされて家などどこにも無い

ここだ!とわが家らしき焼け跡を見つけたが、木材がぶすぶすと煙を上げている

父母の遺体らしきものも見当たらず、手がかりは無いかと探し回っていると、偶然隣に住んでいた加藤さんに出会った

慌てて両親の消息を聞いたら

「ああ、逃げ出したときは一緒だったんだ、とりあえず香取神社に逃げたんだけどさ

もう人で一杯だし、焼夷弾が火を噴いて落ちてくるし、危ないからってオレたちは福神橋から向島に逃げたんだよ

そうしたら、まったく燃えていないところに出て命拾いしたのさ。 だけどね、あんたんとこの両親は亀戸駅の

方に行くと言って、そっちに行っちゃったんだよ、あっちは錦糸町から砂町までほとんど全滅したらしいよ・・・・・

大丈夫だとは思うけどさ、そっちを探してご覧よ」

それから、駅方面に向かい、錦糸町に向かった、ときどき救護所があって、そこで聞いてみても消息は全く

わからなかった。 錦糸町公園には遺体が次々と運び込まれて積み上げられていった。

更に探しまわったが見つからず、ついに兵営に戻る時間が来た。 後ろ髪引かれる思いで亀戸を後にしたのだった。

(父の)父は50歳、母は45歳という若さだった