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真田の里を訪ねた

2015年12月11日 08時12分54秒 | 戦国時代

長野市松代、上田市、真田町は長野県内で真田氏の本拠本貫といえる土地で

歴史ファンにはたまらない

上田市から北、菅平に通じる途中に真田氏の発祥の地、真田町がある

ここには真田本城の遺構が残っている

すぐ近くには天敵、信濃最強の武士「村上義清」の葛尾城があって真田領を脅かした

真田本城に行ってみたが、上杉謙信の春日山城、村上の葛尾城の様な峻険な山城でなく

こんもりとした丘陵の様な感じで規模も大きくは感じなかった

真田の武器はなんと言っても、三代にわたる知謀知略であった

しかし武田信虎と手を結んだ村上の攻撃に耐えられず、真田幸隆は上州に落ちていった

耐乏生活の後、父の信虎を駿府(静岡)に追い払った、武田晴信(信玄)の子分として

真田氏は信濃に舞い戻った。

そして村上義清が武田の圧迫に耐えきれず、越後の上杉謙信を頼って落ちると

真田は上田一帯を領地として、上州の一部までに版図を拡大した

その頃には息子の真田昌幸が家督を継ぎ、息子、正之と幸村の兄弟も戦力となった

上田城は上田市の市街地にある、今も石垣や櫓の一部が残り本丸跡も残っている

武田勝頼が織田、徳川連合軍に破れて滅んだあと、敵であった上杉謙信に次男の

幸村を人質にして同盟を結び、織田信長亡き後の徳川家康に敵対した

そして上田城に攻め寄せた徳川勢を、知謀を駆使して僅かな兵で追い払った

その後も関ヶ原に向かう3万の徳川秀忠軍を、数千の兵で上田城に足止めして

関ヶ原の戦闘に参加させなかった、もし石田方の西軍が勝ったなら真田の勲功は

西軍第一であったかもしれない。

しかし歴史は徳川の勝利に終わったが、昌幸、幸村の西軍方の親子は紀州に追放

打ち首にならなかったのは長男を徳川方に参加させた事による

これも昌幸の策略だと、小説では書いている

そのため、真田は江戸時代を松代に10万石を得て明治維新まで生き延びた

松代城祉は川中島を望む犀川河畔に石垣で囲まれて残っている

櫓や天守などは無いが、天守台跡、本丸跡、二の丸などがそっくり残っている

後方には川中島の決戦で上杉謙信が陣を構えた妻女山も見える

近くの真田歴史館や真田屋敷や武道場なども見物である

 真田氏の軍用道路である松代と真田を結ぶ地蔵峠越えも走ってみると面白い