タカちゃんの絵日記

何気ない日々の感動を、スケッチと好きな音楽と、そして野鳥写真を。。。

♪待てど暮らせど 来ぬ人を 宵待ち草の・・・ (竹久夢二)

2012-07-08 | 植物

  宵待草 (詞:竹久夢二・曲:多忠亮)

1・まてどくらせどこぬひとを

  宵待草のやるせなさ

  こよいは月もでぬそうな

宵待ち草(よいまちぐさ)が、日暮れを待ちかねたように月を映して咲きはじめ、一夜限り

はかなく散ってゆきます。

子供の頃から「月見草」と呼んでいますが、正しくは「オオマチヨイグサ」といい、竹久夢二

によって創られた『宵待草』は、「待ち」「宵」にかけてそうしたのでしょう。

さすがに大正浪漫を代表する詩人(画家)の付けた、歌のタイトルらしいではありませんか。

恋多き夢二だったようですが、実ることのなかったひと夏の恋を詞に謳い上げたものです。

~ひと夏の恋~

明治43年夏、夢二はよりを戻した元妻たまきと、息子を伴い房総方面に避暑旅行に出掛

ます。 

犬吠埼の太平洋を望む海鹿島に宿をとり滞在します。 

この時、たまたま姉を頼って当地に来ていた女性(長谷川賢・19才)との出会いがあり、親

く話している内に心を惹かれた二は、呼び出しては束の間の逢瀬を重ねるが、結ばれ

ることもないまま、その夏も終わってれぞれに帰郷します。

彼女を忘れることが出来ず、翌年、夢二はふたたび当地を訪れ、彼女が嫁いだことを知り

自らの失恋を悟ります。

この時、夢二はひとりこの浜で待てど暮らせど来ぬ女性を想い、悲しみにふけったと言わ

れています。

浜辺に咲く待宵草にこと寄せて、実らぬ恋の憂いがこの詞を着想させたのでしょう。

ちなみにこの詩の基となった詞は、

「遣る瀬無い釣り鐘草の夕の歌が あれあれ風に吹かれて来る

待てど暮らせど来ぬ人を 宵待ち草の心もとなき 

想ふまいとは思えども 我としもなきため涙 今宵は月も出ぬさうな」

この原詞には、もともと二番があったとも言われているが、冒頭の歌の爆発的な人気にあ

かって、昭和12年映画化された際、西條八十が 

    宵待草(西條八十)

2・暮れて河原に 星一つ

  宵待草の 花の露

  更けても風は なくそうな

二番を作詞したが、その後ほとんど歌われることはなかったと云う。

数年前、当地の県立美術館で竹久夢二展があった際、美人画を観賞したがなるほど既成

の枠にとらわれることのない、あの時代を浪漫的奔放(良くも悪くも)に生きた、画家・詩人

の絵だと感じたものです。

             ~今日も良い一日でありますように~

 

 

 

 

                                         

 


桃の実を、籠にもりてや、床の上  (正岡子規)

2012-07-07 | その他

家内が、ちょっと思い切って(高い?)私の大好きなを買って来ました。

桃栗三年柿八年・・・植えてからたったの三年で実が生ることから、今から約50年も

、兄が野原を開墾して桃畑を作った際、作業を手伝いましたが大変でした。

実が生る様になって4、5年間も収穫したでしょうか、当時は、まだ果樹園など誰もや

いなかった時代でもあり、素人の手探り仕事で、結局、管理が行き届かず失敗に

終わってしまいました。

当時は、今の様に甘くジューシーな桃ではなく、少し硬目の甘酸っぱい味でしたが、随

分食べさせてもらった記憶があります。(お陰で今も、少し硬めの桃が好きです)

「桃」は、中国でも日本でも邪気祓い、悪鬼除け、不老長寿をもたらす果実として親

まれ、「古事記」にも、イザナギノミコトが黄泉の国から追われて逃げ帰る時(松江市

東出雲町の「黄泉平坂」)、桃を投げつけることで鬼女、黄泉醜女(よもつしこめ)を退

散させたとの記述があります。

また岡山、香川、愛知などには、子供の頃よく聞かされた「桃太郎伝説」~桃から生ま

れた桃太郎が長じて、鬼が島の鬼を退治した民話が残されています。

また五節句の一つ、3月3日の「桃の節句」は桃による加護によって、女児の健やか

な成長を祈る日本の伝統行事続いています。

しかし英語圏では、桃は傷みやすいが綺麗で美味しいことから、俗語で「若く魅力

的な娘」を表し、そこから「ふしだらな女」「乳房」等の、少しお色気ムードの意味に

転じたイメージの果物の様です。

何はともあれ、早春に花を愛で、夏には甘い桃の実を着ける桃はいい!

            ~今日も良い一日を~

  庭に咲く黄色いカラーの花


今年も真っ赤なトマトが生りました。

2012-07-06 | 植物

今朝、我が家の菜園で採れたばかりのトマトです。

マイホームを求めてから約20年、猫の額ほどの菜園スペースをとり以来、20年

トマトとゴーヤだけは毎年欠かさずに作っています。

トマトの連作は病気が出ると言われますが、一度も出たことはなく、夫婦二人が

ひと夏食べるには、あり余るほどよく出来てます。

最近でこそ、トマトのビタミン類やリコピン等が、健康に良いと取り沙汰されてま

すが、カちゃん達が子供の頃には「青臭い、味が変だ。」などと敬遠されて、子

供はほとんべませんでした。

トマトは江戸時代に日本に入って来た様で、最初はもっぱら観賞用だったとか。

それはそうでしょう、ちょんまげにこの、「真っ赤な食べ物」はちょっとミスマッチだ

と思ませんか?

真っ赤なトマトを見て「まぁ美味しそう!」と言うのは現代っ子、「変な色!」と言うの

は昔の子、トマトにはそんな歴史があるようです。

このトマトが、本来は多年生の野菜だとは知りませんでした。(寒い冬さえ越せれば

20メートル近くの蔓になり多年草の野菜)

夏本番のこれから真っ赤なトマト」は、朝食の定番デザートの一品として食卓を彩

ります。

       ~今日も良い一日であります様に~

 


・・・曲がりなりにも一本道 迷いながらも一ツ事 (相田みつを)

2012-07-05 | 風景

 ~松江市・恵曇漁港にて~

聞けばこの道60年の漁師さんだと云う、今は漁を息子に譲って、気が向けば波止

場に出て、破れた網の繕い仕事に精を出しているとか。

「お元気ですね~」と声をかけると、「海が好きだからここまで来てしまったのヨ。ワ

シの生き甲斐だから!」と、きっぱりと言い切る、繕いの手を休めることもなく、この

道一筋のおじいさんである。

漁は引退したというものの、肌は黒光りして精かんそのもの、顔に刻まれたシワが

漁師として一筋に打ち込んできた、男の歳月を感じさせる。

ほんと、いい顔ですね~  

 「相田みつを」も言っています「曲がりなりにも一本道 迷いながらも一ツこと」と。

ひょっとして、このおじいさんが現役の頃、獲った魚が我が家の食卓に上っていた

のかもしれません?

いや、きっとそうです!

            ~今日も良い一日であります様に~

 

 

 

 

 


やすらぎの 清水寺は 風みどり。

2012-07-04 | 風景

             こんにちわ!

またまた、の春4月15日以来の、清水寺三重塔です

月に一度、用事があって安来に向かうため、空き時

には、ついついこの寺に足が向かってしまいます。

すでに塔の周りの樹々は、夏への衣替えをしてて、

境内の濃き杉や檜、銀杏などの巨木が茂っていて、

ここに来ると、このひんやりとした空気や時間の流れが

界のことを忘れさせてくれるようです。

       ~今日も良い一日を~

 

 

 


♪♪あした浜辺を~ さまよえば~・・・

2012-07-03 | 風景

~恵曇町・古浦の砂浜に寄せては返すさざ波~

 「浜辺の歌」  (作詞林古渓・作曲成田為三)

1・あした浜辺を さまよえば 

  昔のことぞ しのばるる 

  風の音よ 雲のさまよ 

  寄する波も 貝の色も

2・ゆうべ浜辺を もとおれば

  昔の人ぞ しのばるる

  寄する波よ返す波よ 

  月の色も 星のかげも

むかし小学校唱歌として歌った、「浜辺の歌」は、春の海ひねもすのたり・・・的な日本

的情緒を持ったのんびりとした印象の歌で、私達はこの歌は2番まで歌っていた様な

気がしま

今も浜辺を歩くと、ついつい口ずさんでしまう歌です。(歳だな~。 今時の子はこんな

スローテンポの歌は歌いません)

ところで、以前何かで、「この歌には隠れさた3番目の歌詞がある。」との記述があったこ

を思い出しました。

早速、調べて見ました。 するとこうです!

教科書では、3番の歌詞があまりにも1・2番の歌詞と印象が違うということから、載せら

れなかったのではないかと言うことです。

ちなみに隠された3番の歌詞は、

3・疾風(はやて)たちまち 波を吹き上げ

  赤裳(あかも)のすそぞ ぬれひじし

  病みし我は すでにいえて

  浜辺の真砂(まさご) まなごいまは

 ※赤裳~女性の着物の赤い裾 まなご~最愛の子供

1・2番は、作者が幼い日神奈川県下の浜辺を歩いた時の追憶を歌ったったものだとさ

ていますが、3番は大正5年頃、作者が父親となって後の心境が歌われているのでし

ょうか。

それにしても「赤裳」の歌詞は、背景を知らない小学生の唱歌としては、難解で無理が

あったのかも知れませんネ。

でも無意識に口ずさむのだからしかたがありません。

好きですからこれからも、私は歌いますよ!

          ~今日も良い一日を~

 


 


京橋川周辺の街並み

2012-07-02 | 風景

~松江・京橋川沿いに建つ旧日銀松江支店の街並み~

1938年西欧古典様式の日銀松江支店として建てられて以来

43年間この地の金融機関としての役割を果たしてきました。

この建物に対する地元民の「保存運動」が契機となって、2000

年春には、新しく「匠の館」として再生しました。

建物外観の重厚さは元より、窓口カウンター、照明、二階の回

庫室の大扉などが、銀行当時のままに残されており、かつての

面影を残しています。

「カラコロ工房」の名は、小泉八雲が松江大橋(当時は木橋)渡る

下駄の音が、「カラコロ」と響くことに感銘したことに由来するとか。

(ちなみに松江大橋は、かつては「カラコロ橋」とも呼ばれていました。)

今は工芸実演や各種イベント等が行われ、市民憩いの場となっ

ています。

この界隈は京橋川を挟んで、南側には江戸時代京から輿入れし

てきた姫に因んだ「京店」とされ、昭和初期の面影を残すちょっと

洒落た商店街のある街並みとなっています。

     ~今日も良い一日であります様に~


松江大橋周辺の街並みです。

2012-07-01 | 風景

~松江大橋周辺の街並み~

松江市の南北をつなぐ松江大橋、御影石の欄干と唐金犠宝珠が橋の荘厳さと

城下町松江の歴史を物語っています。

川面にはシジミ漁の船が浮かび、北の川辺には古くからの旅の宿が軒を連ね

、川風を受けてそよぐ柳並木が、旅情をかきたてます。

小泉八雲の著書「知られざる日本の面影」の中でも、この松江大橋の情景をこ

の地への愛も込めて紹介しています。

この松江大橋は、初代藩主・堀尾吉晴が、月山富田城から松江に移城(1608年

する際、資材を運ぶために架橋したのが始まりとされ、そこから17代目の橋に

なる様です。

何度架けても橋の流失が続くことから、人柱の犠牲になった「源助柱」の碑が橋

の袂にあって、悲しい伝説として今も語り継がれています。

松江大橋周辺のこの街並みは、松江を代表する風景であり、松江出身者の方に

は昔懐かしい風景でしょうネ。

             ~今日も良い一日を~