八年前の、三月十五日は、昼過ぎに、家族で相談をした結果、福島でも、電気が回復したので、当面は生活できるからとの誘いもあって、避難をすることにした。午後1時ころから、生活用品、まず、特に介護に必要なものを車に積んだ。車いす、ポータブルトイレ、介護用のマット、介護食、おむつ用品、詰め込んで、午後16時に出発した。天変地変のあとの、原発事故は、見えないものの恐怖、得体の知らない恐怖、原発は一基、また一基、また一基と、爆発が続いての恐怖。テレビの実況映像は、10階建てくらいのビルが爆発する。黒煙が吹き上がる。40キロ先の対岸の火事だっぺぇなんてのんびりしていたが、見えない放射線の恐ろしさが報じて、平々凡々の日常が、一変した。数時間おきの、余震の恐怖もあった。日々防災と、減災を念じるしかない。