横浜のほほん・続

植物や生き物を見ながら歩いて感じたことなどを中心に日々を綴る。

会津、角館、京都

2021-11-09 06:17:01 | 日記



会津若松市、御薬園に隣り合う一帯は天寧寺町と表記されていた。
その昔は門前町だったのだろう。
また東山温泉に隣接する広い範囲が会津若松市東山町大字石山天寧と呼ばれている。







その大字石山天寧に「曹洞宗・萬松山天寧寺」がある。
実は私の菩提寺は京都にあって、同じく「曹洞宗・萬松山天寧寺」という。

天寧寺というお寺は全国に8ヶ寺あり1ヶ寺を除き全て曹洞宗だ。
山号まで同じ「曹洞宗・萬松山天寧寺」は会津若松、京都のほかに秋田県仙北市角館にもある。







天寧寺・本堂。

萬松山天寧寺は室町時代の武将・蘆名 盛信により開山されて以来、蘆名氏の菩提寺として栄え、
最盛期には多数の末寺、僧堂、雲水を擁した大寺院であった。
天正17年(1589年)蘆名義広が伊達政宗に敗れ会津を追われ、この戦いで天寧寺も焼失した。
その時の住職が追われて京都に移り、本尊を安置する仏堂を建てたのが京都の萬松山天寧寺だ。
蘆名義広は関ヶ原の戦いの後、慶長7年(1602年)に父と共に秋田領に入り、角館を与えられた。
そして会津の天寧寺の末寺として角館に山号も寺号も同じ萬松山天寧寺を創建した。
その後、会津の天寧寺も再建されて、萬松山天寧寺が3ヶ所に存在することになったわけだ。









この天寧寺の裏手に近藤勇の墓がある。
近藤勇は戊辰戦争の時に新政府軍に捕らえられ東京・板橋で処刑された。
首は京都三条川原で晒されたが、何者かが持ち去り、この地に埋葬したという。

今回は、時間の都合で墓所に行くことを割愛した。


コメント (2)
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