横浜のほほん・続

植物や生き物を見ながら歩いて感じたことなどを中心に日々を綴る。

鶴ヶ城

2021-11-03 06:08:32 | 日記



会津若松に行けば鶴ヶ城は外せない。

立派な堀に水を満々とためている。







あいにくの小雨にけぶって始まった紅葉の向こうに天守が見えた。

鶴ヶ城は630年ほど前に造られ正式には若松城というそうだ。
鶴ヶ城は難攻不落の名城として知られ、戊辰戦争でも新政府軍の猛攻に耐えたのち開城したそうだ。







その後、明治政府の方針で天守を初め建造物が全て取り壊され、
現在の天守は昭和40年に鉄筋コンクリ-ト造りにより外観復興されたものだ。







天守の東南に「荒城の月」の歌碑があった。
「荒城の月」は土井晩翠が明治31年に作った詞で 明治34年に滝廉太郎が作曲した。







この歌碑は教え子たちにより昭和27年に建立され除幕式には土井晩翠も出席したそうだ。







歌碑の脇の石段を上がると本丸と二の丸の間に内堀が見える。







この赤い橋は本丸と二の丸をつなぐ廊下橋と呼ばれている。
初期には橋の往来を外から見られないように屋根と壁がついていたそうだ。







二の丸を過ぎて三の丸跡んい入ると博物館脇に銅像が立っていた。
新島(旧姓・山本)八重だ。テレビドラマ「八重の桜」のモデルとしても有名だ。

鶴ヶ城・籠城戦でも銃や刀を持って奮戦したが敗れてしまい、新政府軍の入城を切歯扼腕して見た。
その時に詠んだとされる「明日の夜は 何国の誰か ながむらん  なれし御城に 残す月影」。

その後、兄の縁で京都の女紅場(女学校)に赴任し、同志社英学校を設立した新島襄と結婚する。
同志社英学校は現在の同志社大学で、私の子供の頃から京都では知らぬ者のない学園だ。
しかし新島襄夫人が会津の人だとは、当時は全く知らなかった。





コメント (2)
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