辞書の政治学

 『辞書の政治学』(安田敏朗著、平凡社刊)を読みつつある。辞書編纂作業とその底にあるナショナリズムとの関係を論じるものかと思っていたが、それほど単線的な書物ではない。もちろん西欧諸国と比肩できる国家にならんとする日本の国家的事業として辞書編纂作業を捉える立場もあるが、これは辞書編纂を企画立案した人の立場であり、実際に辞書編纂作業を行った人はそうした思いとはほとんど無縁であったことを教えてくれる。
 また辞書を作る立場と使う立場でも辞書に対してとる態度が異なり、これは文化国家の証としての辞書と読み書きのときに使う字引としての辞書の差となって現れる。まあわが国の自動車技術の水準を内外に示す自動車と日々乗り回すための自動車とはおのずと性能も価格も異なり、一般国民がふつう必要とするのは後者であるというのと似たようなものであろう。辞書というものを普通一家に最低一冊はあるもので、それがないことは恥ずべきことであると言う意識を一般に浸透させることに辞書の政治力学が作用していることを本書は示しいてる。複眼的な論考になっていて、読んでいて飽きさせない。
 その中に辞書の項目を配列する際に、イロハ順や意義分類が混在した状態から五十音順に切り替えられたことが紹介されている。大槻文彦編纂の『言海』のエピソードであるが、福沢諭吉はその配列を見て、難色を示したという。この五十音順という配列は、西欧であればアルファベット順ということであり、著者はピーター・バークの『知識の社会史』の考察を引用し、「位階秩序的で有機的構造をもった世界という世界観から、個人主義的で平等主義的な世界観への転換」とある意味通じるところもあるだろうと示唆している。互いに関係しない項目が隣接して網羅的に配列されているという体裁が辞書の辞書らしさを生み出すということである。それにしてもバークが、十七世紀に百科事典の編成がアルファベット順になっていくことが一般に受容されたのは、「ある敗北感からだったように思われる。すなわち、新しい知識があまりにも急速に体型のなかに入ってきて消化も整理もできないような時代において、知的なエントロピーの力に対して人びとが抱いた敗北感であった」と論じている引用には興味をひかれた。インターネットの時代になり、テキストからハイパーテキストになり、五十音順に単線的に羅列されるだけでなく、ある項目からさらに別の項目のテキストへと移動する立体的なこのテキストは、まさに情報を消化も整理もできない時代にぴったりなテキストであろう。
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ブログという空間

『メディアと倫理』を読んでから、去年からつけ始めて細々と続けているブログで私は何をしているのだろうとふと考えた。日記風に拙い読書感想文を綴りつつ、それを「公開」することで、私はどのような形で社会に参加しているのだろうか。



 自分の身辺雑感を日記という形で記録して公開するというブログは、日記の持つプライベートな側面と、HPのもつ公共的側面を併せ持っている。この二面性がどのような可能性をもっているのかまだ十分自分でも分かっていないような気がする。


同時に気になるのが、『メディアと倫理』で論じられているような、存在論的に「ひきこもる」人々である。彼らはいったい何を欲望しているのか。著者の指摘するように安閑とした自分の空間をかき乱す事件に対して怒り、それをネットにぶつけているのか。そうすることでスキッとしたいだけなのか。ユダヤ人の存在がむかつくから殴ることによりスキッとするスキンヘッドの輩と同じ心理なのだろうか。        
 完全なひきこもりであれば、そもそも日記を公開する必要はなく、自分の部屋で好きなことをしていればいい。しかし彼らはまったく世間という回路から断絶しているわけではなく、私秘的空間に閉じこもり、匿名性というシールドに守られながらその匿名性を逆手に取り容赦ない罵詈雑言をネットの公共空間にまきちらす。それはまったく一方向的な連絡路であり、相手に言葉を吐きかける口はもっていても、聞く耳はもたない奇形な容貌である。そこにネットの双方向性から生まれる可能性は存在しない。燃え盛るネットでの不謹慎な発言を見ながら愉悦に浸っている姿は、自分で放火した火が燃え盛るのをほかの野次馬に混じって遠目で楽しんでいるものと同じだろう。
 さまざまな人々が混在するネット社会でどのような倫理を構築することができるのか、そしてこの混沌からアーレントの望むような公共空間を私たちは生み出すことができるのだろうか

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メディアと倫理

 今日はJR尼崎脱線事故からちょうど1年目の日であった。1年前の悲惨な自己報道を思い出しつつ、『メディアと倫理』(和田伸一郎著、NTT出版刊)を読んでいたら、その事故についての報道を評した文面があった。
 この事故当日中継のため救助活動の様子を報道するヘリコプターが飛び、アナウンサーが「見ればわかることをただなぞって叫びながら、しかも同じことを何度も繰り返し、「おしゃべり」を引き伸ば」すという不謹慎なことを行い、テレビではスタジオの「コメンテーターが、画面外から救出する場面についてどうでもいい専門知識を披露」する。ここから著者は、メディアの無神経な行為という<見ること>を抑圧するものがあるからこそ、視聴者は画面の映像を見ることが可能になるという一見逆説的な解釈をする。
 実は誰もお気楽な茶の間で、こんな悲惨なものを直視したくはないのだ。そして「テレビを見る者がたいしたものは見せられないと知りつつ見ているという」シニカルな態度は、「<見ること>、<思考すること>が抑圧されているのを知りながら、それを放棄しているということ」だと論じている。
 ここで表象と情報を区別するべきであることが重要であると著者は説く。いま情報のパイプと成り下がったテレビ画面は、「世界へと再び<存在し>直すために思考する場所ではなくなり、それとは別のもの、すなわち世界から逃避し気楽に世界に在ることを責め立てない非難所に成り下が」っている。


 リアルタイムな情報を受信できるようになってしまった現代人は生成する現場とは無縁なところで気楽にその情報を受けられるようになったことで、「自分を世界(他者)に曝し出すことなく、気楽なままで世界に関わるための道具」としてメディアを見ている。アーレントやハイデガーのいう世界からの退きこもり(撤退)としての思考ができなくなっている現代の状況を実に的確に論じている。
 この分析を基点に論じられる「見ることの倫理」を今まさに構築していかなければならないし、これはメディアの分野だけに限られるわけではあるまい。


 著者はあとがきで、こう述べる。



 倫理的主体とは、道徳規範、常識、世間の目等々を気にして自己を律するというところから受動的に生み出される主体ではない。それは「自己の自己に対する関係」、「自己への配慮」(ミシェル・フーコー)から自己を律しようとする積極的主体のことである。
 例えば、倒れている人を助けずに見捨てて通り過ぎようとすることは、「世間」に非難されるからしてはならないのではない。その人を見捨てることは、逆に自分が倒れているところに人がやって来てもその人が助けてくれることはない、そうした世界を自分のその振る舞いそれ自体によってつくり出してしまうことを意味するのである。その見捨てる振る舞いによって、自分がそうなっても誰も助けれくれない世界の住人に、自分からなってしまうことを意味するのである。だから見捨てるべきではない。(中略)これについてはジャン=リュック・ナンシーによって引用されていたサルトルの次の言葉を引用しておこう。「世界がわれわれの創造物であるかのように、世界に対して責任を負う」ことが問題なのだ、と。


 1年前の事故報道を昼食をとりながら眺めていた自分を思い出しながら、この本は是非広く読まれるべき本であると感じた。

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ノリ・メ・タンゲレ

 『私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ』(ジャン=リュック・ナンシー著、荻野厚志訳、未來社刊)を読む。ゴルゴダの丘で磔刑に処せられたキリストの復活を描いた絵を題材にして、そのときキリストが復活を目撃したマグダラのマリアに言った「私に触れるな(ノリ・メ・タンゲレNoli me tangere)」という言葉についての哲学的考察である。
 ナンシーは復活という奇蹟をあくまでも内在的に考察する。復活は死の意味づけを向けなおすことである。



キリスト教思想がこれほどまでに復活を強調するのは、それはまずもってキリストという人格の、それゆえまた彼の死の、徹頭徹尾人間的な現実性を強調するからである。死の現実性は否定されていない。「復活」という語は、自らを「起ち上がらせる」行為、あるいは自らを「立て直す」行為を意味している(ギリシア語の「アナスタシス」にしたがって)。


起ちあがらせることによる方向=意味(サンス)の変化は、しかしながら決して特定の方向を与えるものでもなく、完成とは無関係であることをナンシーは強調する。復活は死んだものに起こる再生や輪廻、回復、転生ではない。また死の中に自らを維持するというヘーゲル的な揚棄でもない。なぜなら方向=意味の立て直しは他者に由来するものだからである。他者が死せるものを復活させるのではなく、他者が死せるものに代わって復活する。


 マリアは、復活したキリストの声を聞き、かつ園丁の姿をしたキリストを見ている。視覚は彼の現前を捉えているにもかかわらず、園丁の姿としてしか捉えることはできない。そして声も園丁の語りとして彼女は聞く。キリストからの呼びかけで園丁が誰か分かった瞬間、触覚による無媒介的な確認は拒否される。復活したキリストが自らに触れることを禁止したのはなぜか。復活したものは死んだものだり、分離されたものである。この触れることの不可能なものを禁止されること、すなわち触れることを永久に延期させられることによって私たちは真理がどういうものかを教えられるし、信ずるということがどういうことかを知る。
 禁止されているかぎり私たちはその禁止されているものを信じ、そこへの到達可能性の希望を抱くのだ。



キリスト教的愛の不可能性は、「復活」の不可能性と同じ秩序に属しているのかもしれない。両者に共通する真理は、この不可能性そのものに起因しているだろう。しかしそれは、なんらかの奇蹟、心理学的だったり生物学的だったりする奇蹟が、不可能なものの必然性を思弁的ないし神秘的方策へと変換することでもなく、まさに不可能なものの場所に自らを保たなければならないという意味である。不可能な場所に自らをたもつ[se tenir]ということ、それは人間がその限界-暴力と死の境界線の上に自らをたもつ、その場所に留まる[se tenir]ことである。この境界線の上で、人間は倒れ落ちるかその身を曝け出すかするのであり、どうやっても必然的に自らを失うのである。だからこそ、この場所は、眩暈あるいはスキャンダルの場所でしかありえず、許されざるものの、同時に不可能なものの場所でしかありえない。


 ヘーゲルの「否定的なものへの滞留」を連想するが、ナンシーは復活したイエスではなく、明らかにそこに立ち会ったマリアに重点を置いている。共にいる他者という存在の意味を考える上でこの違いは大切なことのように感じる。

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心の哲学

 『MiND 心の哲学』(ジョン・R・サール著、山本貴光・吉川浩満訳、朝日出版社刊)を読む。心と身体はどちらかに還元できるものなのか、まったく別のものなのかという古くからの哲学の問題に対するサールの解答である。サールは、心的なものと物理的なものを論じる際に、いずれか一方が他方に「還元」できるかどうかという問いの立て方の曖昧さが混乱の元凶であると論じている。この「還元」というのが曲者で、因果論的還元と存在論的還元に分けて考えなくてはならないとする。前者は、ある現象が因果的に先立つ別の現象のふるまいによってもたらされ、かつそれに限る場合に当たる。後者は、ある現象がまさに別の現象そのものにほかならない場合に当たる。そして意識は、因果論的に還元を行うことはできるが、意識という概念をもつうという点を失わずに存在論的に還元を行うことはできないとする。ニューロンのふるいまいの因果で意識を説明できても、ニューロンのふるまい即意識ではないというわけだ。意識には客観的に記述される性質以外に一人称的存在論的観点があり、因果論での説明はこれがすっぽりと抜けてしまう。
 心は物理的現象に還元できるかという問いは、存在論と因果論を区別せずに論じていることから生じるみかけ上の問題に他ならない、彼は論じる。意識一般を生物学的観点から客観的に記述することは可能だが、その時それが他ならぬ「私」の意識であるというのは、説明できないということだ。「私がほかの誰でもない私であることはどういうことなのか」という問いは厳然として残ることになる。
 私の行為を因果論的に記述することは可能であろう。この時私の行為は決定論的になる。しかし他でもないこの「私」という視点から記述される私の行為には自由がある。私という視点、まったく形式的で空虚なこの「私」という一点が私の行為を自由にする。
 私は私の視点から私の行為を私の言葉であなたに説明する。表現された言葉があなたの視点から受け取られる。私とあなたが言葉で結ばれることで、私は自由になれる。
 生物学的自然主義に立脚しているというと、唯物論的に心を説明しているのではないかという誤解を招くかもしれないが、サールの論考はそうした論とは全くことなる。最終章の平易ながら奥深いサールの洞察を読むだけでもそれは直ちに理解できる。



 人はときおり「科学的世界観」について、それがあたかも事物がどのようにして他のものとともにあるのかにかんする一つの見解であるかのように、また、あたかもあらゆる種類の世界観がある中で「科学」がその一つを提供しているかのように語る。一方でこれは正しい。しかし他方でこれは誤解を招きもする。実際になんらかの誤りを示唆している。同一の現実を、さまざまな関心を念頭におきながら眺めることができる。経済的な観点、美学的な観点、政治的な観点といった観点がある。この意味では、科学的研究は数ある観点のなかの一つにすぎない。しかしながら、この考え方をこう解釈する方法もある。つまり、それが示唆するのは、科学は固有の存在論的領域を名指すものだと考えるということだ。それはまるであたかも日常的な現実とはちがう科学的な現実が存在していると語るに等しい。これはおおいに誤っていると思う。本書で暗に示してきた見解をいま明らかにしておこうと思うが、科学は存在論的な領域を名指すものではない。科学とはむしろ系統的な探求のためのなにものかを見つけ出すための方法群を名指している。


 私たちは複数の世界に生きているわけではない。また、二つの異なった世界-心的な世界と物理的な世界、科学的な世界と日常的な世界-にまたがって生きているわけでもない。そうではなく、ただ一つの世界があるだけだ。そこには私たち全員が住む世界である。私たちには、自分たちが世界の一部としてどのように存在しているかを説明する必要があるのだ。


そう、どのように存在しているかを説明する必要があるのだ、私の言葉で。


 

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貨幣と精神

 『貨幣と精神』(中野昌宏著、ナカニシヤ出版刊)を読む。貨幣がどうして貨幣として通用するのかという問題が主題とされるが、根底にあるのはそもそもある社会システムが成立するとはどういうことで、どういうしくみで成立するのかという問いである。
 運動、変化、時間が含まれていない論理の世界からいかにして運動する システム=構造が生成するのかというのは、哲学上の問題だ。ゼノンの「飛んでいる矢は飛ばない」という有名なパラドックスに端的に示されているように、そもそも論理の世界には時間がない。ここでは流通する貨幣というシステムの成立を説明するのに、ラカン理論が援用される。著者は、無意識的な衝迫「せきたて」に着目している。ラカンの 「エクリ」所収の自分の背中に着いている円盤の黒白を推論する囚人ゲーム(本書p156)を例にあげ、静の状態での推論には一定の限界がある場合でも他人の「先走り」という論理外の運動により一気に結論が出され状態が遷移することを説明する。一旦次なる状態が生成、成立してしまえば、その事後の状態から眺めると客観的な状態として把握されてしまう。事態を動かした契機は客観的に見て主観的なものでありながら、成立した事後ではどの主観から見ても客観的な状態である。引用されている新宮一成のコメントどおり、「ラカンの功績は、主体の時間化という、通時的な事態が、一見共時的なものである論理的推論から構成されることと、この推論が、間主観性の中で起こることを指摘したことである」。


 著者が指摘している「せきたて」による客観的な「正解」の主観的先取とは、第2章で触れているフレームの選択問題とも関係すると思われる。さらに「せきたて」からの選択にはあらかじめ決まった正解は存在しない(「正解とされているもの」は存在するだろうけど)。したがって選択されたものがすなわち事後的に目的(=宛先)と解釈されることになる。これはアルチュセールの「イデオロギー的呼びかけ」に決まった選択肢が存在しないことと符合するだろうし、デリダのラカンに対する郵便の宛先問題の批判への解答となる。象徴界に住まう人間の欲望が間主観性の中で衝突反射するときに運動する世界が出現するという著者の洞察は根本的であり、それゆえ象徴界をもつ存在にしか「世界」は現出しないだろう。推論する人工知能には克服できないフレーム問題をあたかも解決しているかのようにふるまう人間の認識問題(常に自分を含みこんだ、自己言及的な世界でものごとを処理していくこと)と深く関わっているように思う。

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情報と戦争

 ここまで進んでいたのか、こんなことまでできるのかというのが正直な感想だった。
 『情報と戦争』(江畑謙介著、NTT出版刊)を読んだときの感想である。考えてみれば、高度なIT技術というものには当初軍事目的で開発されたものが、後に民間産業に転用されたものも多いときくから、人の生死、国家の勝ち負けがかかる戦争に集中的に利用されるのは当然といえば当然である。
 ミサイルの先端に誘導装置を格納して、テレビカメラの映像とコンピュータに記憶された目標のデジタル画像とを比べて目標を識別し、ピンポイント攻撃をする技術などは聞いてはいた。しかし驚かされたのは個々の武器の高度IT化もさることながら、戦略自体が高度な情報ネットワークにささえられることにより、従来戦地に投下されていた物量よりもはるかに少ない量で同等あるいはそれ以上の戦争が遂行できること、ICタグなどの利用により兵站補給が万一に備えての補給を想定しなくてもよくなったことなど戦略自体の考え方に革命を起こしていることだった。
 また、敵味方のコンピュータネットワークを利用した情報戦略(諜報や撹乱妨害)も紹介されている。コンピュータネットワークのハッキングを行えば、例えばイラクのフセイン一族の銀行資産を消滅させることも理論上可能だという。果たしてそれは倫理的に許されることなのかという問いも自ずから生じてくる。戦争倫理というと殺しあうことにおける倫理を連想してしまうが、こうした情報倫理にも関係しているのだ。
 基本的なことなのに意外と難しいのだと思わされたのは、陸軍と空軍どうしといった共同作戦の遂行だ。



 ・・・空軍には所詮、陸上戦闘の実態はわかるわけはない、陸軍の連中は航空機の運用はまるで理解していないというような、お互いの専門性と相手の実情に対する知識の欠如からくる確執が生まれがちである。別の言葉で言えば、相手を信用(信頼)できない。階級の呼称や用語の違いなどから、隣の軍種がやっていることは、いっそうわかり難くなる。
 信頼ができない以上、情報の共有が難しい。ネットワークとは、そしてネットワーク中心の戦いとは、情報の共有と融合に他ならないのだが、互いに信頼していないと、すべての情報を提供しようとする気持ちにならなくなるし、(ネットワークから)提供された情報を信じない結果になりかねない。ネットワークを介して結んだ別の軍種の部隊が支援をしてくれるといっても、信頼がないと、それに期待することはせず、米海兵隊のように、自分のための独自の航空部隊を持とうとするようになる。これでは効率の改善は得られない。
 これは「文化」の問題である。ネットワークというものをどのようなもので、それによってどのような効率(戦闘能力)の改善が得られるかを理解できる「意識革命」が必要とされる。だがそれは容易なものではない。同じ者同士で群れるという、人間性(人間の特性)に関する問題だからである。


 ここまで高度化するとロボット化された戦士たちが戦うスターウォーズみたいな戦争を想像するけど、人間が関与する限り素朴な信頼の構造というのは、この世界でも重要なんだ。

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眼差しの欲望

表象する欲求としての衝動のうちには、いわば予め視線が注がれている一つの<点>が、つまり衝動がそれにもとづいて一つにする働きを行う統一性そのものが含まれている。この着眼点、もしくは視点は、衝動の構成部分なのである。
(『哲学と反哲学』木田元著、岩波現代文庫より)

 ある対象を見つめるときに、意識しているにせよしていないにせよ、対象の側から<私>を見つめる点(視点)が存在している。そしてそれがないとこちらから見ている対象を含んだ構図の統一が崩れてしまうような、そういう視点が<私>が見る風景には予め織り込まれている。
 このハイデガーの指摘の重要性は、単に視線という知覚の潜在的構造について言及したことよりも、さらに深く「表象する欲求としての衝動」が作用していることが根本にあることを明らかにしていることだ。
 私の眼差しを支えている風景の中の「しみ」としての視点は、欲望の視点である。そして私はこの視点に同一化することは決してできない。
 私が対象を見つめる(対象に視線を向ける)。それはいい。ではその中に潜む欲望は誰の欲望なのか。ラカンであれば、大文字の他者の欲望と答える。ものを見つめるときに、常にそして既に私は他者の欲望に従っている。
 見て楽しむとき私が楽しいだけではない。私の中の他者も楽しんでいる。

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モダンのクールダウン

 『モダンのクールダウン』(稲葉振一郎著、NTT出版)を読む。
普遍性を前提とする「近代」という時代認識に対置されるポストモダン社会の論考であるが、その中で東浩紀のデリダ論である『存在論的、郵便的』、永井均の『魂に対する態度』が参照されていた。歴史認識についての三種類の方法論(解釈学的、系譜学的、考古学的)を基点に、「歴史」という物語の脱構築をめぐる考察が述べられている。歴史上の実在の人物(ここの議論では西欧世界の歴史を代表する象徴としてキリストがとりあげられている)にある意味づけを行う作業に必然的にまとわりつく「汚染」を警戒する「否定神学」的デリダと、認識論的汚染を免れた存在論敵歴史の実在を積極的に認める永井が対置される。



 イエスという歴史的に実在した個人に、「キリスト教の創始者」という歴史的な意味づけがまとわりつくのは、あくまでも後付であり、われわれはそのような意味づけを剥ぎ取られたイエスその人について考えることができる。しかしながら、われわれがそんな可能性について考えることができるのは、つまりイエスという特定の個人に注目してあれこれと考えることができるのは、まさにそのイエスが「キリスト教の創始者」という意味に汚染されて、われわれの歴史の中に位置付いているからこそである。


 歴史は事後性というかたちでしか認識できないことのアナロジーで連想するのは、物理学でも似たような世界観があるということだ。量子力学的世界観である。古典的物理観は、ヘーゲル的世界観に相当し、ある歴史的事件や人物の存在は、過去の事象の弁証法的発展の結果であるように、単線的な因果論で説明される。量子力学的世界観では、ある事象は観測者が観測という行為を行うことによって初めて確定する。ある電子は確率論的に多くの状態で共存し、観測することでその多数の状態の中から特定の電子の位置が選ばれる(コペンハーゲン解釈)。これは先ほどのキリストの例でいえば、イエスに似た「キリスト教」的生き方をしている人が多数存在しており、歴史上ある特定の人物がイエスとなるという解釈をすることが可能になる。観測された電子によりその周囲に存在していた電子が認識可能となるのと同様に、キリストが存在するようになって初めてキリストに似た人々が認識可能となるのである。イエスがキリストになったことは事後的に結果から振り返れば必然であるが、イエス個人にとっては偶然である。このわれわれにとっての必然性を絶対化することが「否定神学」とされる。
 コペンハーゲン解釈ではある電子の位置を観測した瞬間、特定の状態以外は人為的に捨象されてしまう。さきほどのイエスの例でいえば観測された電子を特権化する否定神学的眼差しである。特定のものを特権化することなく他の状態も引き続き共存すると考える量子力学の多世界解釈のアナロジーで、こうした歴史解釈を変えることができないか。

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なぐさめ

 昨日紹介したアリス・マンローの短編小説集『イラクサ』に所収の「なぐさめ」という作品では、進化論をめぐるエピソードが登場する。
 筋萎縮側索硬化症(ALS)を患い、自殺してしまう高校教師のルイスは、学校で生徒たちに進化論について教える。ところがそれを妨害しようとする生徒が現れる。彼(および彼女)らは、創造説主義者であり、ダーウィンの進化論と同等に聖書の創造説を教えよと迫る。
 彼は頑としてその理不尽な要求に屈服することなく進化論を講ずるわけであるが、アメリカでの進化論反対論者について知らないと不可思議に思われる読者もいるのではないかと思う。日本ではキリスト教の土壌はないから生物学の授業で聖書の天地創造が登場するなんてそれこそ驚天動地、想像もつかないことだろう。 日本でいえば天照大神の神話が生物学の授業に登場するようなものだ。しかしアメリカでは裁判沙汰にまでなっており、ダーウィンの進化論に対し、創造説を教えることは違憲であるという州連邦地裁の判決が出ている始末なのだ。周知のとおりブッシュ大統領は「敬虔な」キリスト教徒であり、妊娠中絶に反対し、進化論以外の解釈を学校で紹介することに吝かでない態度をとっているくらいである。
 物語は地球の生命の歴史を講じていた愛する夫が自殺という最後を遂げ、火葬された遺灰の感触の美しい描写で終わるのだが、上述のような文化的背景のある国では唯物論的な生物学教師の最後というのはまた独特な印象を残すに違いない。
 そうそう葬儀の場面では、死体の防腐処置embalmingのことも出てくる。これも日本では馴染みのない風習だが、小説の中でうまく利用されていると思う。
 愛する人と死別した悲しみが抑制の効いた筆致で描かれた佳品であると思う。

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