『紅一点論』(斉藤美奈子著、ちくま文庫)を読む。
アニメーション、児童向け伝記に登場する女性が男性の視点からどのように類型化されているかを論じた本である。紅一点というのは、男性の中に偶然紛れ込んだ女性一人というのではなく、本来男性だけで占められるべき組織であったところに、ある理由からその位置を占めることを許された一人の特別な女性という意味である。その理由は、女性が男性に勝るとも劣らない特別な能力をもっているか、男性の領分を侵さないことが明らかであるかである。
著者は、こうした女性の類型を(1)魔法少女(女の子の国のヒロイン)、(2)紅の戦士(男の子の国のヒロイン)、(3)悪の女王(悪の帝国のヒロイン)、(4)聖なる母(脇役)に分類している。
これは上に述べた紅一点となる理由という点から見直すと、男に伍する能力は、男性と同じ土俵で勝負するような能力である場合は、その女性は「戦士」として認められる。その能力が男性とは異質な能力である場合、「魔力」をもつ女性(=魔女)とみなされる。男性の領分を侵さない女性とは、年端のいかない少女か母としての女性であることになる。
基本的に男性は自分と同等またはより優れた能力のある女性を認めたくない(社会における男女の機会均等を推進するのもそのルールを作るのが男性である限りにおいてである)から、そうした女性は、悪の帝国の戦士である場合は滅ぼされる運命にあるし、身内の場合は最後は非業の死を遂げる悲劇のヒロインになる運命にある。ライバルとなる心配のない女性は、一つは「かわいい」女性であり、ときには男性のセクハラも笑って許してくれるような女性である。もう一つは「やさしい」女性であり、男性のわがままを許してくれる母親のような女性である。「かわいい」、「やさしい」というのは、男性の世界では異質な原理であり、これは立派な一つの能力であり、男性からみて理解に苦しむほど優れている場合は「魔力」と呼ばれるし、ときには「聖なる」ものとして崇め奉られる。この類型の女性は自分の領分を守っている限りは男性にとって善なる存在だが、ひとたび身の程を忘れて男性の領分に侵入するようになると、前者は「悪女」といわれ、後者は「悪しき母(鬼婆)」となる。
さまざまなアニメや女性の伝記においてそうした類型化がどのように描かれているかを著者はこれでもかというばかりに暴いていく。それは読んでいて思わず相槌をうったり、笑ったりしてしまう。
同様に男性のアニメキャラクターにも女性からみた幻想は反映されるはずだからこれはおそらくお互い様である。
そしてどんな男性および女性もそうした類型にぴったりとあてはまるような人はいないから常に男女の理解はすれ違いを続けるのだろう。
『パブリッシュ・オア・ペリッシュ』(川崎茂明著、みすず書房刊)を読む。
昨年はいたるところで偽装が社会問題となったが、こちらは知の偽装問題を取り上げた著作である。表題のpublish or perishとは、自らの研究成果を発表して成果を残すことがなければ、その専門分野からは淘汰されてしまうというこの業界の死活問題を端的に言い表した言葉であるが、本書ではこれが1942年に使われたのが最初であると述べ、アメリカでスプートニクショックの後国防と宇宙開発競争におけるソ連の優位を打ち破るべく大学教育と研究に政府が資金を投入した以後論文発表を推進するために広まった経緯があるようだ。その結果論文量産主義がはびこり、結局誰も読まないような論文が量産され、パブリッシュ・アンド・ペリッシュとなり真に得たい情報すら得にくい状況になることが危惧されるようになったという。
そこから著者は、最近の自然科学界を騒がせた論文捏造の背景に迫っていく。そこには研究資金に見合う成果を比較的短期に発表していかねばならない背景と研究室という非常に狭い世界(ほんとうに狭い)での教授と研究員という圧倒的に力関係の差がある人間関係、責任感系が曖昧な共著者という問題を指摘していく。この中で匿名で描かれている教授と論文の恣意的変更を求められた大学院生の話などは、(一方的な情報源から記述ではありながら)さもありなんという話である。
特に著者は、そうした捏造などが発覚した際に当該学術誌が論文の取り下げを行う普遍的ルールの確立が必要であることを強調している。確かにこれは重要なことで、多くの場合論文取り下げの広報があまり目立たない形で掲載されることが多く、その理由や経緯を明記すべきだろう。それは「簡単に編集者への手紙欄などで扱われるべきではない」し、「原則的には、撤回通知の著者は、撤回論文と同じ筆頭著者であるべきである」。こうしたことは周知されないと、撤回された後でもそれがわからずに引用されるということが起こるからである。これは食品でいえば、消費期限切れと分かった食品がその後も店頭に残って買われるような状態であり、より性質が悪いといえる。
著者はさらにインパクト・インデックスという学術誌の評価のための尺度が研究者の成果の評価に使われる誤用を批判(この部分は私も教えられること大だった)し、より適切な評価を確立する必要性を説くとともに、ピアレビュー制度の改正についても述べレフェリー側からの改革も必要であることを説いている。
論文査読から公表という過程が成立して時が経ち、さまざまな利権や資金が絡むようになったサイエンスにはそれに相応しいシステムが必要だということだろう。捏造や盗用を防ぐシステムとしてオンラインでのメール受理システムも一法であると書かれているのもインターネットがこれだけ発達した現在興味深い方法かもしれない。科学者も人の子であり、名声や資金のために捏造や盗用する誘惑があることは認め、その誘惑を損だとあきらめさせるようなシステムを確立することが、単純に研究者個人の倫理を説くより有効だろう。
科学界の問題に限らず、いろいろなシステム(特に経済的利益や社会的権限が成功すればするほど大きくなるようなシステム)を導入する場合には常に悪用されることを前提とした上で、悪用されても発覚すればそちらの方が逆にコストのかかるのだということをシステムの受益者に周知徹底させるようにシステムを設計していく思想が必要だということだ。
『移りゆく教養』(苅部直著、NTT出版刊)を読む。
世間一般の常識によれば、今の大学生は「教養」がないらしい。そしてこれは「今」に始まったことではなく70年代以降そうらしいから、私も「教養」が没落した時代の人間であるようだ。ある数学者はこれからの日本はもう一度その「教養」なるものを復活していくことが必要だと説いていた。ではその失われたり、復活させなければならない「教養」とは一体どんなものなのか。確かに大学には教養部というものがあった(専門課程に入る前の申し訳あるいは前座のようなものとして)。こうした日本の大学の制度の中に組み込まれていた「教養」部というものはどのような系譜をもつものか。本書の前半ではヨーロッパ、特にフランスやドイツ、イギリスの大学教育での「教養」の変遷や「ドイツ的」な教養を受容した日本での「教養」なるものがどのようなものであったかが説明されている。当然それぞれで歴史と風土が異なるので教養の色合いは異なっているのだが、洋の東西を問わず教養というもののなかに世間一般や実学とは距離を置いた人格形成というベクトルと、よりよい社会を作るための市民を育てるための(政治的な色彩を帯びた)ベクトルがせめぎあっていることを教えてくれる。
第四章ではその「政治的教養」、社会である一定の秩序を形成していくために必要とされる「教養」について論じられている。この部分はトーンが変わるが、あとがきによると「地域文化の同時代史研究会」の報告書にかかれた原稿を改稿したものだということだ。前後の論調とは違う具体的な話が挿入されているという感じは否めないが、逆に政治と教養を考える上でたいへん面白く、重要なポイントとなっている。この部分があるのとないのでは本書の印象が全く違ってくる。
第五章ではより現在の教育問題に重心を移し議論がされている。著者の指摘するようにこと教育問題については、外野席の素人の論説があまりにも横行しているような気がする。もっと積極的に教育の専門家は発言すべきだろうし、その場が与えられてしかるべきだろう。日本のマスコミは「教養」というものを表向きは失ったことを嘆きながら、実際はその高踏的なものにルサンチマンがあるのではないだろうか。本書にも書かれてあるが、「居酒屋チェーンの社長や、亡き落語家の妻が、政府の「教育再生会議」の委員に「有識者」として名を連ねているのを見ると、そういう人をさげすむつもりはないが、やはり絶句してしまう」よね。
教養の力というものがあるとすれば、ここで論じられているように自らがいやおうなく置かれている伝統とその権威を客観化し、議論していける種類のものだろうと思う。伝統的な失われた「教養」なるものの復古を叫べばいいというものではないのだ。そこには当然伝統や歴史的背景を異にする人びとへの「物語想像力」(ヌスバウム)が必要となるだろうし、その上でお互いに議論していくためには「政治的」教養が必要となるだろう。本書に引用されているオルテガが語った「教養」の意義は、まさに正論であろう。
生は混沌であり、密林であり、紛糾である。人間はその中で迷う。しかし人間の精神は、この難破、喪失の思いに対抗して、密林の中に「通路」を、「道」を見出そうと努力する。すなわち、宇宙に関する明瞭にして確固たる理念を、事物と世界の本質に関する積極的な確信を見出そうと努力する。その諸理念の総体、ないし体系こそが、言葉の真の意味における教養「文化」(la cultura)である。
教養というのは授受できるようなものではなく、血肉となるかならないかというもの、というのがいいすぎなら振る舞いとして身につくかつかないかというようなものに近いのかもしれない。だから欲しがって求めれば求めるほどそれから遠ざかるようなものなのかもしれない。教養として読んでおくべきといわれるような著作は、それぞれの時代に生きた人びとが遺してくれた生の密林の歩き方だとしたら、それを単に読んだことがあるというだけではなく、今どのように使えるかを知っていること、その使い方を知らない人に教えることができることこそが大切なはずだ。
『人間行動に潜むジレンマ』(大浦宏邦著、化学同人社刊)を読む。
進化ゲーム理論を解説しながら人間の社会、特に互恵的な協力がどのように進化してきたかを考察した著作である。
最初の部分は囚人のジレンマやパレート最適の概念を解説し、第3章では共有地の悲劇を最初に示し、協力的な戦略が進化する機序について考察している。ギンタス・モデルという考え方では多くの人が非協力者にコストをかけてでも罰(サンクション)を与えようとする傾向をもっていることに注目し、十分なサンクションがある場合には協力行動が非協力行動よりも得になることを説明している。この場合サンクションのコストが高くつくと効果がない(サンクションコストをめぐる二次ジレンマ)。さまざまなサンクションの効率的な手段が発達するとそのコストが下がること、これが一旦功を奏するとサンクションを発動しなくてよくなるからさらにそのコストが下がる。サンクションのコストが小さいと集団選択の効果が弱くてもサンクションを提供する戦略が得になることが解説されている。
このようなメカニズムは一般の人間集団だけでなく、生物個体の統合性維持においても有効な考え方であることが第4章で説明されている。生体の免疫機構もこうしたサンクション機構であるという考え方はたいへん面白い。花粉症という無害な物質に対するアレルギーは、過剰なサンクション機能の発動というわけである。この章の後半では、生物の攻撃性とその抑制がいかに進化してきたか、攻撃性の抑制によってなわばりと順位制が成立することが説明されている。
第5章では人間社会で独特の発達を遂げている他者への共感という機序が攻撃性と並んで重要な要素であることが説明されている。攻撃性と共感という相反する機構をうまく使い分けて(ここで「しっぺい返し」戦略が有効性を発揮する)、多人数の協力が進化してくる。協力体制をより強固にして維持していくためには「裏切り者探知モジュール」の発達が欠かせない。著者はホモ・サピエンスで高度に発達した言語システムによりより効果的なサンクション(規範)が成立したと考えている。
こうして成立する「仲間」の協力体制を確立できた集団は非常に有利になるに違いない。しかし同時にそれは他者に対しては排除的に働くという必然的な欠点も存在する。また仲間うちでは権威主義がはびこりやすくなる。著者の言葉によれば「権威主義は社会的な自己免疫疾患」である。自分、自集団のメンバー、外集団のメンバーのそれぞれに利益、不利益かによって行動は8パターンに分けられる。この行動パターンはさまざまな社会での個人や集団の行動を解釈する上で参考になるし、どのように向ければ行き詰った局面を打開できるかのヒントも与えてくれるに違いない。自分の属する集団の勝手により生じる問題は解決が困難だが著者の診断によると、
権威主義のレベルを低く抑えることが、自集団勝手の弊害を減らすうえでは有効である。それは同時に、サンクションのかけ過ぎによってパレート非効率を招くオーバーサンクションを防ぐうえでも有効だ。権威主義には集団内の結束を高め、協力を促進する効果もあるのだが、免疫の過剰反応のようなオーバーサンクションや、外集団に対する攻撃性といった弊害も大きいので、ほどほどにするのが吉であろう。
さらに自集団の範囲を広げていくことを勧めている。これが有効ならグローバリゼーションは進めかたさえうまくいけば有効に機能するはずなのだが。最後により抜本的には集団選択に頼らない多人数協力の促進方法を開発できればと述べられている。しかしこれは今まで人間を進化させてきたメカニズムに拮抗するものでもあるところが難しい点だ。
『メディアは存在しない』(斎藤環著、NTT出版刊)を読む。
『InterCommunication』誌に連載された記事をまとめたラカン派精神分析者からみたメディア論である。表題は明らかにラカンの「女性は存在しない」からつけたとわかるから、そういう意味で「メディアは存在しない」のである。社会学でのメディアについての存在的言説に対して、精神分析からの存在論的言説というかたちになっているので、どうも議論がかみわわない印象である。これは著者も本書で述べているように、「理論社会学と精神分析における最大の対立点」が「言語」に対する視点の違いによるものである。
シニフィアンの圧倒的優位性を維持することで、精神分析は「階層性」や「情報」といった概念によって撹乱されることを免れている。なぜか。もし仮に言語を、隠喩ではなくコードの体系として理解するなら、こうした撹乱を免れることはできない。なぜならば、もしも伝達に際して意味が一義的に決定づけられるコード体系がコミュニケーションを媒介するのなら、そこには必然的に「メタレヴェル」が派生することになり、コミュニケーションはその記述を免れることができなくなるからだ。
たしかに言語を隠喩としてみるならば、そこには絶対的な基準点というものは存在しないし、中心には欠損しかない。言語の獲得は他者を自らのうちに招じ入れることによって自らのうちに穴をうがつことであり、そこから語る自らの欲望は無意識のうちに他者の欲望となるであろう。
コミュニケーションの優位を説くルーマンに対して、ラカン派である著者はそれを二者関係であることを批判する。否定の契機である他者がそこには欠如しているからである。おそらくこれはルーマンのいうコミュニケーションが想像的なもので、ラカンのいう象徴的なものではないということなのであろう。
精神分析がその理論上言語をすべてに優先させるのはしかたがないとしてもそれはあくまで仮説でしかない。「精神分析を受け入れるなら、行為の動機づけとして「欲求」や「本能」を想定してはならない」というのはそこから出てくるドグマであるが、これはドグマであるがゆえに自らの限界を示してはいないか。治療における言説として有効性があるとしても(これも今やかなり疑わしいかもしれない)、社会理論としての有効性がどこまであるのか疑問に感じてしまう。言語機能というものが自然的基盤をもつことが解明されつつある現在、「言語」として特性と「言語を使う人間」の特性とは区別して論じなければならないのではないだろうか。
人口減少の危機が叫ばれること喧しきかぎりであるが、それを論じるにあたり基本的な知識を与えてくれる恰好の書物である。個人としての人は生まれて、一定期間生きたのち死ぬ。集団としての人はその個々人の生と死、人の移動によって成り立っている。集団としての人の数の推移を分析し、予測することが人口学demographyの目的であるが、著者も告白しているように「日本の将来の出生率の動向を正確に推測できる水準には達していない」のだそうだ。国連人口部長のタバ氏によれば「人口推計は科学的な労作というよりもアートである」とのこと。このアートによってどのような将来の日本像が描かれるのか。当面の予測によると日本の人口は減少を続け、65歳以上の人口割合は、2025年には30.5%、2050年には39.6%に達するという。2025年までの人口減少はまだ緩慢であり、その影響は軽微にとどまるそう(逆に言うと何らかの対策を打てる最後のチャンス)だが、2025年の時点でかかえる負の人口モメンタムによってその後急速に減少していくという。著者は「人口崩壊」と名づけているが、これはいわば日本人という種の絶滅への道だろう。野生動物と同じく一定の数を割り込むともはや自然のままでは回復は望めないのかもしれない。
著者は人口減少がむしろ好ましいとする楽観論についても言及し、時期によってはそうしたこともありうるが、期間は短いと述べている。確かにそうだろう。
歴史的にみて、死亡率が低下することによってなぜ出生率まで低下してくるのか。単純そうに見えるがこの疑問についても確乎とした答えはなく、対立学説があるというのも驚きである。死亡率の低下がとにかく究極的原因とする考え方に対して、社会経済的要因が根柢にあるとする考え方がある。本書を読む限りでは、後者の考え方の方が現在の日本に当てはまるような気がする。子どもをつくるという長期的投資についての費用対効果の考え方が変わってきているのだろう。苦労はしても子宝を授かる方が幸せであるという伝統的な価値観は大きく揺らいでいる。また女性、しかも限られた年齢の女性しか子どもをつくれないという生物学的制約に加えて、女性の避妊というのも小さくない要因であることが指摘されている。女性を「産む機械」と表現した某大臣は辞職に追い込まれたが、「機械」という表現が不適当だったのか、「産む」すなわち産んで当然という表現が不適当だったのか。男性に従属させられ子どもを産んでこそ女性という全うな機械であるという考え方が非難されたとすれば、この国では明らかに女性の少なからぬ割合が産まない人生を選択しているのだろう。
いろいろと考えさせられることが多い本である上に、生命表や合計特殊出生率、人口置き換え水準の意味、期間出生率とコーホート出生率の違い、安定人口モデルなど基礎もしっかり教えてくれる良書であると思う。
『プラスチック・ワード』(ウヴェ・ペルクゼン著、糟谷啓介訳、藤原書店刊)を読む。
内容が空虚でありながら政治や社会に蔓延し、日常言語の姿を歪曲している言葉を「プラスチック・ワード」として、その警鐘を鳴らす本である。著者はこの語の30にのぼる特徴を列記している(p68)。
A1 話し手にはその語を定義する力がない
2 その語は表面的には科学用語に似かよっている。それはステレオタイプである。
3 それは科学に起源をもつ。
4 ある領域から別の領域へと移し変えることができる。その限りではそれはメタファーデである。
5 科学と日常世界の間の目に見えない結び目をつくる。
B6 きわめて広い応用範囲(使用領域)をもつ。
・・・・
全部列記するのは控えるが、著者は一見科学的に見えながら歪曲されたコノテーションをもつ言語が無批判に流通する現状を憂えている。単純な科学批判ではなく、科学の領域で定義された用語がいい加減な形で日常生活で使われること、すなわち科学的用語の勝手な転用を問題としているようだ。ことばを「階層化し植民地化する」と批判していることからハーバマスに影響を受けているようだ。
日本で言えば政策を提言するときの官僚の作文のなかに鏤められている外来語や専門用語がまさにこれにあたるだろう。政策を実行する側が知を握っており、無知な民衆を従わせ、家畜化するための衒学的な用語である。
著者は、科学の概念自体ではなく、その転用において、それを担当するエキスパートたちを批判している(p188)。
科学はこれからもますます専門化していくし、専門用語はさらに増えるだろう。それを理解しやすいように簡約化することと、誤りやすい比喩によってわかったかのようにすることとは全く違うのだということを抑えておくことが必要だろう。著者は、「アイデンティティ」、「セクシュアリティ」、「エネルギー」、「インフォメーション」、「コミュニケーション」などのカタカナ語や「発展」、「輸送」、「近代化」などをあげている。
自然を制御するという欲望が続くかぎり科学の営みは終わることはないだろう。そしてそのことによって偶然によって弄ばれることが少なくならば、科学への要請は止むことはないだろう。著者がこの中でトクヴィル(『アメリカのデモクラシー』)を引用して指摘しているところは、重要だと思われる(それにしてもトクヴィルの洞察力には敬服する)。
民主的な国民は、類を表わす用語や抽象的な単語を熱烈に好むものである。なぜなら、これらの表現は思考を広げてくれるからであり、少ししかない空間に多くの事物を封じこめることによって、知性のはたらきを助けてくれるからである。(中略)
民主的な言語のなかにあるふれている抽象語、いかなる特定の事実にも付着させずにあらゆる話題に用いられるこうした抽象語は、思考を肥大化させ、思考に蔽いをかける。抽象語は表現の速度をますます増大させ、観念の明晰さを減じる。しかし、ことばに関していえば、民主的国民は労苦よりも曖昧さを好むものである。
そもそもわたしは、民主的国民のもとで話し書く人々にとって、こうした曖昧さが密かな魅力となっているのではないかと疑っている。(中略)
・・・民主的な国々に住む人々は、足場がさだまらぬ思考をもつことが多い。彼らには、それを閉じ込めるための巨大な表現が必要なのである。今日言い表した観念が、明日に到来するであろう新しい状況に合致するかどうかがわからないのだから、自然と抽象語への嗜好を抱くようになる。
訳文について感じたが、著者が問題のプラスチック・ワードとしてあげている「発展」という用語は、ドイツ語では「Entwicklung」なので、ここは著者が科学的用語からの転用を問題視している文脈に照らすと、日本語に訳すならば「進化」としたほうが適当ではなかったかと思われる。日本でもこの用語は生物学で使用される意味を全く無視して濫用されているのは周知のとおりである。
『自由とは何か』(大屋雄裕著、ちくま新書)を読む。
近代社会の前提である「自由な個人」という近代的自我を問い直し、その価値を考察する著作である。この近代的自我、人格というものは自然的存在では全くなく、虚構であることを著者は前提とする。ここで虚構だから意味がないのではなく、社会を作るルールとしてこの擬制は事実以上に重要であることを著者は強調している。功利的にみれば、そのような虚構を採用した方が社会にとって、また社会を構成する人々にとって効用が増大するのである。個人の自由というものもそうした擬制の中で考える必要がるわけだ。
自由については、冒頭でミルの他者危害の原則、シュテルナーのエゴイズム、バーリンの自由論が要約される。個人の自由は他者の自由の侵害行為を排除して初めて成立すること、それはすなわち個人は他者にとっての潜在的自由の侵害者であることが確認され、積極的自由が権力によって歪曲される危険性が消極的自由に比べ高いことからバーリンは後者を称揚した。
消極的自由が他者に対する故意の干渉によってしか侵害されないのなら、リバタリアニズムがいうような最小の政府が望ましい。自然や市場原理に任せておくのがいいということになろう。しかしそこには自由を奪う危険があると著者は指摘する。
監視社会についての考察が続くのだが、レッシングの『CODE』から規制についての四つの手段(法・市場・社会規範・アーキテクチャ)が挙げられる。法や社会規範といった事後的に機能する規制に対して、アーキテクチャのように事前的に、支配されるという意識なくなされる規制システムについて著者は注意を喚起する。これは相互い排他的なものではなく、それぞれ一長一短があるのだが、私たちが自由を事前規制的なシステムから逃れることで得られるとするならば、それに対するリスクも引き受けねばならないことを著者は強調している。このあたりは監視社会を一方的に国家権力による悪であるとして、それへの抵抗を主張するような単細胞的議論には陥っていない点が評価される。
次に自由であることの証が、問われれば個人が自分の選択・決定や行為を説明できること、それにより自らの選択と行為の責任を引き受けることと不可分であることが述べられる。
たとえ自己決定なるものが事実として存在しないとしても、だからその帰結に対する責任を負わなくていいという結論がただちに導かれるわけではない。そうではなく、責任を負うときに・そのことによって私が「自由な個人」だと言うのかどうか、私が「自由な個人」であるという擬制を作り出すのか、それが社会において認められるのかどうかが問題なのだ。
「自由な個人」だから帰結の責任を負わなくてはならないのではなく、責任を負うときに・そのことによって私は「自由な個人」になる。ここでは、自由と責任のあいだの因果関係が逆転しているのである。
しかし自由な個人という擬制が現代社会においては弱体化しつつあり、それがアーキテクチャ的規制によって守られてもいるのではないかということ、またパノプティコン的監視という非・法的なものの内面化によって法の下に平等な個人が生まれることに著者は充分自覚的である。著者は「それでもなお、人々が自分のことを自律的な個人であると信じていることには相当の意味があるのではないか」と信じている。自分が自らの意志で行為したと感じられることは、やはり価値のあることだろうし、その意識があってこそ他者から承認される存在となりうる。
『「かわいい」論』(四方田犬彦著、ちくま新書)を読む。日本で、特に女性がしばしば口にする「かわいい」という表現の意味をさぐりながら日本文化を考察した本である。まずはこのことばが「かはゆし」から「かほはゆし」という古語に遡ることができ、今昔物語に初出があること、そしてその変遷を辿りつつ印欧語やその他の言語においての差異をみると定石を踏む。その後に大学生に対してとったアンケートを紹介する。実はこの結果が面白い。月並みな(これが大学生かという)回答もある(のはもちろんだ)が、中にはなるほどというものもある。「かわいい」という言葉には両義性があるのだ。
彼(女)は「かわいい」という言葉がもつ魔術的な牽引力に魅惑されながらも、同時にそれに反撥や嫌悪をも感じている。「かわいい」ものに取り囲まれている日常を送りながらも、この言葉が意味もなく万事において濫用されていることに不快感を感じている。自分を「かわいい」とは思えないにもかかわらず、人から「かわいい」と呼ばれたいと思い、また不用意に「かわいい」と呼ばれることに当惑と不快感を感じもしている。
また「かわいい」の反対語を聞く設問に対する回答から、「美しい」との相違が浮かび上がる。「かわいい」は、「美しい」と違って、
神聖さや完全さ、永遠と対立し、どこまでも表層的ではかなげに移ろいやすく、世俗的で不完全、未成熟な何物かである。だがそうした一見欠点と思われる要素を逆方向から眺めてみると、親しげでわかりやすく、容易に手に取ることのできる心理的近さが構造化されている。「美しい」はしばしば触れることの禁忌と不可能性と結びついているが、「かわいい」は人をして触れたい、庇護してあげたいという欲求を引き起こす。それは言葉を換えて言うならば、支配したいという欲求と同義であり、対象を自分よりも下の、劣等な存在と見なすことにも通じている。
さらに「きもかわ」という新語によって「かわいい」のより深層が明らかにされるところが興味深い。これはなかなか理解に苦しむ単語という感じを受けるのは、「きもい」から「かわいい」か、「きもい」けれども「かわいい」かという論理的関係で解釈しようとするからで、実は「かわいい」という言葉の中にはグロテスクなものが内在しているのだ。「かわいい」という表現することによって無意識の底に抑圧されるものがあり、それが回帰してくるときに「きもかわ」として現れるというわけだ。
『ナショナリズムの由来』の第二部の総括では、資本主義に内在する<外部>への運動と同時に、運動自体によって普遍化できない<外部>が生まれることを指摘している。このことは、シニフィアンが次々と横滑りしていく欲望の運動には終わりがないことを意味しているのだと思われる。資本主義の運動はこの欲望の運動をもっとも効果的に、もっとも幅広く可能ならしめるシステムである。
資本主義こそ、まさにその転換(注:無限判断を否定判断に読み換えてしまう転換)を担うメカニズムではないか。資本主義は、確かに、「規範的な経験可能領域の普遍化の不可能性」を表示する<外部>を発見し続けることによって駆り立てられているのだが、同時に、<外部>をその度に経験可能領域に包摂することでそうした「不可能性」を隠蔽し、普遍化が成し遂げられたかのように偽装する。資本主義は、無限判断の水準に踏みとどまることができないのである。(中略)
これらに対して、資本主義の運動に全面的に共振してしまったときに帰結する社会的な選択肢もある。それこそが、(他のさまざまな)ナショナリズム-最後・後のナショナリズム-である。
この結果として、ナショナリズムは「人種なき人種主義」(文化的な差異が、人種と同等な、本質主義的で永続的な差異として扱われる現象)をとるとされる。他者の欲望を欲望することが欲望の本性だとすれば、ナショナリズムで現れる「他者」は、一つには欲望する者の欲望を知っているはずの他者である。この他者と欲望を共有する幻想をみることで、われわれは一体感を感じることができるし、その他者の欲望が自分たちのそれ以上であると幻想することで欲望はさらなる<外部>を求める運動を続けることができる。この欲望の連鎖にかたちを与えるのが文化的な差異である。
ナショナリズムで現れるもう一つの「他者」は、自分たちの欲望をすでに享楽している許しがたい他者である。
著者のいう最後・後のナショナリズムが重要なのは、資本主義というシステムが欲望をいくらでも差異化・微分していくことの可能な、歴史上最強のシステムだからだと思われる。本書は、だからナショナリズムの「由来」から説き起こされているが、むしろ後半はナショナリズムの「行方」を示唆する不気味な予言書となっている。