特定の花に美しさを認め、その美しさの普遍妥当性を広く主張する能力を判断力として論じたのが『判断力批判』だった。これを審美的な能力に限定せず、政治哲学上重要な能力として捉え論じたのがH.アーレントだった。『判断力批判』につづいて、『カント政治哲学の講義』(法政大学出版局、浜田義文監訳)を満開の桜のときに窓辺で読む。
彼女は個別的な判断を公共の認識として、多数のひとたちと共有していく上で、「自分の理性を公共的に使用する」ことが政治的自由の条件として重要であると強調している。美しさを互いに同じように認めることができるということと、異なった立場にある他者を認め合うことができるということが根柢でつながっているものだという指摘は斬新であり、私たちを力づけてくれる思想だ。
この前提条件として欠かせないのが、言論と思想の自由であるが、カントは人が自分で考えたことを公にするという自由がそもそも欠かせないことなのだということを述べている。これをアーレントも重要視している。
言論や執筆の自由は当局者によって我々から奪われるということがありうるが、しかし思考の自由は当局者によって奪われることはありえない、と言われる。しかしながら、もし我々が、自分の思想を他者に伝達し、また他者もその思想を我々に伝達するような、そうした他者との共同体の中で思考しなかったとしたとすれば、我々はどれほどよく、またどれほど正しく、思考するであろうか。したがって我々は、人間からその思想を公に伝達する自由を奪う外的権力は、同時にその者の思考する自由をも奪う、と言っても差し支えないであろう。
というカントの洞察は実に鋭い。どんなに自由が制限されても自分で考える自由は最後まで残ると考えがちであるが、彼が『判断力批判』で示した普遍的伝達可能性が閉じられた世界ではそもそも自由な思考などできないのだ。
どのような権利で自分がある考えをもち、その考えに基づいて行動するのかということをきちんと第三者に説明し、伝達すること、これがまずできなければならないし、説明者(権力者)は彼の行動が及ぶ人たちにその考えを納得してもらわなければならないのだ。独善的権力は最初からこの公共的伝達可能性に背を向けていることになるし、これを黙認することは私たちが思考する自由を結果的に狭めてしまいかねない非常に危険なことだろう。
それにしても桜の美しさを共有することと根底的に関連していることなのに、これはどうしてこうも困難なのであろう。