今年一年の読書

 今年一年さまざまな本を手当たり次第読んできた。このブログを始めたのが去年の11月だったから、一年間の読書の総括となると今回が初めてとなる。来年末にまだこのブログを続けているのかどうかはわからない(だから最初で最後かもしれぬ)が、今年読んだ本で特筆しておきたいものを挙げる。私が今年読んだということだから今年の新刊書とは限らない。特筆するということは、二回以上読む価値があるということである。各書籍の分野はそれぞれ異なる。したがって順位付けするのはあまり意味のあることではないのでしない。また冊数を決める必要もないので、ベスト5やベスト10などと数も決めない。


『ヨーロッパ思想史のなかの自由』(半澤孝麿著、創文社)
『誘惑される意志』(ジョージ・エインズリー著、山形浩生訳、NTT出版)
『祖先の物語』(リチャード・ドーキンス著、垂水雄二訳、小学館)
『乱交の生物学』』(ティム・バークヘッド著、小田亮・松本晶子訳、新思索社)
『芸術(アルス)と生政治(ビオス)』(岡田温司著、平凡社)
『リベラリズムとは何か ロールズと正義の論理』(盛山和夫著、勁草書房)
『グールド魚類画帖』(リチャード・フラナガン著、渡辺佐智江訳、白水社)

 

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アクシデント 事故と文明

 『アクシデント 事故と文明』(ポール・ヴィリリオ著、小林正巳訳、青土社刊)を読む。
 この一年間もさまざまな大事故が報道された。そのたびに事故を生み出した原因究明の声が上がり、犯人捜しが始まる。責任者が決していないわけではないが、誰とも特定しがたい状況というのがあったり、確かに事故を引き起こしたのはある特定の個人であるが、その人だけに帰してしまっていいのか釈然としない状況というのがあったりする。
 ある特定の原因(cause)があって、単線的な因果系列である事件(case)が起こるという解釈では現代の事故は解明できなくなっている。caseは語源では身の上に落ちてくるものであり、事故accidentとは、まさにこちらに(ac=to)降りかかる。こうした思考は、ある運動体としてのシステムを実体とみなし、そこに起きる事故は予期し・「なかった」こと、偶然の空隙に現れたが本来はあるべきで「ない」ものと理解する。ヴィリリオは、しかし事故はわれわれが発明したものではないかと問題提議する。

事実、生産様式に対して与えられた傲慢なまでの優位性により、前工業化社会で通用していた生産様式/破壊様式(単に消費様式にとどまらない)という旧来の弁証法は隠蔽されてしまったように思われる。何らかの「実体」の生産とは、とりもなおさず典型的な「事故」の生産でもあったとすれば、故障や不調とは、生産の乱調というより、特定の不調の生産、さらには部分的にせよ全体的にせよ破壊の生産ということになろう。このように探求の方向を根底から修正することで、事故の遠近法を想像することも可能となろう。

 事故はある生産様式が創造されたときにすでにその中に胚胎している原罪なのである。本の冒頭で引用されているヴァレリーのカイエからの文句は示唆的である。「道具は意識から消えていく傾向がある。その作動は自動的になったと日常よく言われる。ここから引き出すべきは、次のような新たな方程式だ。すなわち、意識は事故があってはじめて目覚めるというものだ」。ここからヴィリリオは現代文明に潜むわたしたちの無意識=狂気を彼独特の黙示録的語り口で指摘する。
 ここには私たちが創造しながら私たちの制御を超えてしまった巨大技術(原子力技術や遺伝子工学技術)があることは間違いない。そしてその影響が瞬時にして全世界に拡散するという、速度と圏域も著者が指摘するもう一つの重要な点である。
 いつ起きるかもしれない事故に対して私たちはどう備えればいいのか。問題は備えるために防衛線を張り巡らせ敵を包囲するということができないということである。「戦争は、まず包囲術のうちにその姿を現す」というクラウゼヴィッツのようにはいかない。私たちはそれほど潜在的な事故と親密になっているのだ。ちょうど爆弾を抱えたテロリストが隣に住んでいるかもしれないように。

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民権と憲法

 『民権と憲法 シリーズ日本近代史2』(牧原憲夫著、岩波新書)を読む。
 第一巻の『幕末・維新』につづいて、明治時代になってから西欧近代民主主義を取り入れきた日本の歴史である。江戸から明治という時代の変遷を見ていくと、「国民」としての民衆が形成される過程がわかる。また政治の動きにその時の経済状況がいかに密接に関連していたのかもよくわかる。実に面白かった。
 産業の近代化を進めていく過程で、その最先端であった足尾銅山で公害が問題になったことは有名であるが、これも工場内では最先端の合理性を整えたシステムであったが、周囲の環境まで含めると、部分的な合理性しかなかった。周辺部に及ぼす不経済、非合理をいかにそのシステム内に取り込んでいくかという課題は、現代でも問われ続けている問いである。
 また、この時代には「科学的」であることを標榜することが開発や制度の免罪符になったことが書かれてある。従来の慣習の中にも立派な科学的根拠がありながら、一面的な科学への信仰によって無視されていたこと(本書では脚気とその予防対策の例が紹介されている)を知ると、これは現代でも十分ありうることだと感じた。
 その他、衛生観念が、日常生活を大きく変えていったことがコレラ騒動を例にとって紹介されている。
 教育という点では、寺子屋を中心とした読み書きそろばんから「学制」による全国共通の教育制度への変化は、多様的分散性から中央集権的なシステムへの変化であったことがよくわかる。国民全体の教育レベルを上げ、均質化していったことが日本の近代化に大きく寄与したが、この時代に、農業や自営業についていない層、すなわち実家に帰っても家業のない層が専門的教育を受け容れる層として重要だったことを知った。「明治になって、農業(開墾)や商売をしないとすれば、専門的な知識や技術を身につけて官吏や教師、技術者になるほかなかった」のであり、この時期の中高等教育は「士族のための教育授産」システムであったのだ。士族階級がうまく解体されたからこそ近代教育制度は軌道に乗ったのである。
 細かい点ながら、「制服」という制度も学生に集団としての一員としての意識を植え付けるというだけでなく、詰め襟の制服というものは、陸軍では下士官以上に許されていたので、官立学校の詰め襟というのは、将校と同列の「国家有為の人材」というプライドを持たせる意味があったのだという。自分が生徒時代に着用していた詰め襟にそんな意味が込められていたとは知らなかった。最近ブレザーなど男子生徒の制服も多様化したが、戦後もずっと詰め襟が続いていたというのは、上のような意味が込められていたことを考えると不思議なことである(敗戦とともに廃止になりそうなものだが)。また、体操や唱歌といったものが規律や国民意識を刻印するものとして利用されたことは、フーコーの指摘どおりである。「蛍」の四番の歌詞というのは、

千島のおくも おきなわも やしまのうちの まもりなり
いたらんくにに いさおしく つとめよわが兄(せ) つつがなく

というもので、「蝶々」の歌詞も戦後「ちょうちょ、ちょうちょ、菜の葉にとまれ、菜の葉に飽いたら、桜にとまれ、桜の花の、花から花へ・・・」という歌詞も、もとは下線部分が「栄ゆる御代に」であり、「皇代の繁栄する有様を、桜花の爛漫たるに擬し、聖恩に浴し太平を楽む人民を、蝶の自由に舞いつ止まりつ遊べる様に比して、童幼の心にも自ら国恩の深きを覚りて、これに報ぜんとするの志気を興起せしむる」という意図が込められていたのだという。
 また歌を「斉唱」するというのもこのときに作られた慣習だという。それまではお題目や念仏などを別にすれば歌は一人で歌うか、音頭とり以外は合いの手を入れるだけというのがほとんどだったという。歌詞もさることながら斉唱することに「国楽(ナショナル・ミュージック)」としての意義があった。
 この章を読んでいると、整列や行進する体操の時間や斉唱をさせられる音楽の時間など子供の頃の苦痛だった時間がまざまざと甦ってきてしまった。
 学歴社会が形成されていくとともに家庭では、良妻賢母としての女性が要請されていく。将来の国家の人材である子供をまっとうに(というのは国家にとって都合のいい)育てるための家が要請されるのだ。民法による妻の離婚請求権の制限とともに、「愛情」のある家庭という内からの束縛が女性を家に従属させる存在に変えていった。

 「子どもへの愛情」は「保護」の強化という形であらわれた。一般に前近代社会では子どもは「小さな大人」とみなされたといわれる。たとえば、子どもも平気で煙草を吸っていた。しかし1890年代になると、小中学校での喫煙が問題視されはじめ、1900年に未成年者喫煙禁止法が施行された。この法律は喫煙した未成年ではなく、喫煙をとめなかった親や煙草を売った業者を罰した。未成年者は「保護」の対象であり、責任は大人になるとみなされたからだ。
 しかし、煙草を吸った生徒は、実際には学校で処分された。(中略)喫煙は法律や校則、教師の指導を無視する「不良の証」となった。「保護」が同時に「不良」をつくりだし「処罰」を不可避にしたのである。
 学歴主義や一家団欒はそれまでになかった新しい可能性や理想をもたらしつつ、同時に「子どものため」を”殺し文句”にしながら人びとを内縛していった。ここにも「近代」という時代の特質がよく示されていた。

国民を殺さずに保護して生かす政治(生政治)のいい例といえる。一方で競争を煽り立てつつ、一方で保護を謳う政策が本当は何を欲望しているのかよく考えていかないと思わぬ隘路に追い込まれてしまうだろう。

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行動・生態の進化

 『シリーズ進化学6 行動・生態の進化』(長谷川眞理子、河田雅圭、辻和希、田中嘉成、佐々木顕、長谷川寿一著、岩波書店刊)を読む。
 個体の行動も進化により形成されるのかという疑問に対して、然りという答えをダーウィニズムは出しつつある。こうしたことに対して実証的な研究により地道に証拠が積み上げられつつあるということはいいことだ。
 興味深かったのは、第一章で取り上げられている一夫一妻制と一夫多妻制の違いを引き起こす遺伝子についてである。前者をとるプレーリーハタネズミ(以下プレーリー)と後者をとるサンガクハタネズミ(以下サンガク)の行動の違いは、神経内分泌ホルモンであるオキシトシンとバソプレッシンが関係している。一夫一妻のプレーリーではオキシトシンの放出により雌が交尾をした雄といっしょにいることを好むことを促進し、バソプレッシンは雄が同様に交尾した雌といっしょにいることを好むことを促進したり、子供の世話をすることを促進する。しかしサンガクでは、バソプレッシンにより雄はグルーミングが促進される。両者でホルモン自体の構造は同一なのであるが、これらの受容体の脳内分布が異なっている。したがってこの違いが行動の差を導き出しているのであろう。
 と今までならばここまでしか結論づけられなかったところであるが、面白いのはここからである。Youngらのグループが2004年にNatureに発表した研究では、乱婚制であるハタネズミの雄の腹側淡蒼球(脳の部位の名称)にウイルスベクターを使って、バソプレッシン受容体遺伝子を導入した結果を報告している。すなわち分子生物学的手法を使って、脳のバソプレッシン受容体の分布だけをプレーリー型に変えてしまったのである。するとその雄はペアの雌と身を寄せ合う時間が増加し、さらにその雄は子供の世話をするようになった。
 さらに面白いのは、この受容体の脳内分布を決定付けているのは、その遺伝子の上流にある調節領域にある。プレーリーのバソプレッシン受容体遺伝子の上流には、マイクロサテライトDNAという繰り返し配列が挿入されている。この部位は突然変異率が高いことがしられている。したがって番を形成するという「自然の愛の発露」と思える現象も、まったく偶然によって起こる遺伝子のごく限られた部位の突然変異によって誘発されることがありうるということをこの研究は示しているのである。
 その他血縁淘汰を取り上げた第二章も非常に面白い。利他行動がどうして生物にみられるのか。この問題はダーウィンさえも自分の説への致命的反証ではないかと頭を悩ませた生物の行動である。血縁淘汰はそれを説明する理論であるが、ヒトのように明らかに血縁がないにもかかわらず利他的行動をとることがある。ここに人間の崇高さを認める立場もあるが、進化論が面白いのはそうした現象もいくつかの条件によって形成されうる行動であることを示してくれることである。ここで使われる互恵性モデル(あるとき利他行動をした個体が別の機会にはそれを受ける側になりうるとするモデル)、相利性モデル(利他的行動をした個体が同時に利他行動の受益者になれるとするモデル)では、相互作用する個体どうしが「協力」あるいは「非協力」のカードをどう使うかという囚人のジレンマゲームを繰り広げることになる。
 しかしヒトのような集団では、相互作用が一回きりという場合も多々ある。こうした場合には過去に相手がとった行動を前提にはできない。この場合はその相手に付随する情報に基づいて行動を決める。すなわちその相手が「いい」個体なのか「悪い」個体なのかという情報である。個々の相互作用でその個体がどのような行動をとったかということは「集団の全体に見られて」(情報の透明性)おり、そのことは全個体が記憶として共有されているという前提がまず必要なのであるが、その前提があるとして、「いい」個体には協力し、「悪い」個体には協力しないという戦略をとることが進化的に安定した戦略とされる。これは誰が考えても当たり前のことであるが、重要なことは、その例外規則である。すなわち協力しないという行動を相手にとった場合でも、その相手が「悪い」個体であるとみなされている場合には、協力しない行動をとった当の個体は、「いい」個体であると周りから認められることである。
 ヒトの利他性を説明する一つの仮説であると考えられるが、気になるのは本書では敢えて説明されていない「いい」「悪い」の実質的内容である。これはその集団がどういうことを「いい」とみなすかどうかにかかっている。利他行動というと他者に対して利益となるような行動を思い浮かべてしまうが、上のモデルでいくと例えばある特定の個体を迫害することを「いい」ことだとその集団で認知されている場合には、その個体を迫害することが集団の構成員にとっては「いい」ことだとされ、それに従わない個体は「悪い」とされてしまうことである。したがって上のモデルは、利他行動の説明モデルというには不正確であると思う。宗教的な迫害や学級内でのいじめなど、一定の閉鎖的集団の中で、その外部からは「悪い」こととしか思えないことが広まってしまう現象をこのモデルは説明していると考えたほうがより妥当であろう。
 学校でのいじめ問題が大きく取り上げられているが、もし上のモデルがある程度正しいとすれば、学級や学校という集団を閉じた状態にしたままで、いじめをした生徒を出席停止にしたり、懲罰を加えたりしてもいじめがなくなることはないだろう。そのいじめはなくなってもまた別のいじめが発生するに違いない。
 進化的にみてヒトがある集団で迫害行動をとるような性向が備わっているとするならば、私たちはそれを認めた上で、どのようにすれば効果的に回避できるか生物学的な観点も考慮にいれて対策を講じていくのが合理的であろう。声高に規律や懲罰を厳格にして、愛国心を叩き込めばいいのだとすることは、一つの野蛮である。
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ヒトの進化

 『シリーズ進化学5 ヒトの進化』(斎藤成也、諏訪元、颯田葉子、山森哲雄、長谷川眞理子、岡ノ谷一夫著、岩波書店刊)を読む。
 昨年からシリーズで刊行されていたのは知っていたがどうだろうかと思いながらも買っていなかった本を購入した。科学的仮説としての「進化論」という地位に甘んずることなく、さらに厳然たる事実としての「進化学」と銘打ってのシリーズであるが、この巻の「ヒトの進化」となると仮説も多くなるのはいたしかたない。しかしながらたいへん面白く読める。早く読めばよかった。
 第一章の「化石からみた人類の進化」では、最近次々と発掘されたヒトの祖先の化石についてまとめてある。興味をひいたのは、コラム3の初期人類の「種」を考えるとういところで、その記述によると、

野外調査の進展に伴い、高等霊長類では、自然状態で近縁種間に雑種が形成されることが明らかにされてきた。高等霊長類においては、通常は種ごとの生殖生理に強い特色もなく、一般に生殖行動も柔軟であるため、交雑が頻繁に起こるのであろう。

とさらりと書かれてあるが、これにはいささか驚いた。その後にすぐゲラダヒヒとアヌビスヒヒは別属であり、形態特徴でも行動生態でもはっきりと区別されるにもかかわらず、自然状況下では交雑するばかりか、一見適応度の低下を伴わない子孫を残すと記載されている。

 第四章「人間の本性の進化を探る」では、自然選択の下に生き残ってきたヒトの本性は当然その影響を受けているとし、その背景も考慮にいれつつ検討していかねばならないと客観的に述べてある。現在のヒトが持っている「人間の本性」の中には進化の各段階において獲得された形質があるはずであり、

哺乳類の系統が爬虫類の系統と分かれたあとに獲得した形質(A)、霊長類の系統が哺乳類の中で分岐したあとで獲得した形質(B)、霊長類の中で類人猿が分岐したあとで獲得した性質(C)、そしてヒトの系統になってから獲得した形質(D)がある。
 たとえば、雌が妊娠、出産、授乳することに伴う諸形質は、Aの適応である。色覚をもつことなどはBの適応である。脳が大きく認知能力が高いことは、Cの適応である。おそらく言語はDの適応である。

と述べる。人間のもつ倫理や道徳といったこともこれらの系統的進化の各段階で獲得されてきた自然的性質が基盤になっているものもあるに違いなかろう。その点からも興味深いのは、第5節「殺人をめぐる進化心理学」と第6節「ヒトの協力行動」である。
 殺人は、ヒトのどの段階の歴史、どの地域にも見られる反社会的行動である。この行動は雌雄で比較すると圧倒的に雄に多く見られる行動であり、かつ若い固体に多い。このことから雌を巡って争うという雄の生殖戦略が関係していると考えられる。

男性の発達の過程において、性成熟とともに将来繁殖価が上昇し、加齢とともに繁殖価は下がる。そこで性成熟直前から成熟期にかけての男性間の競争がもっとも激しく、その後は加齢とともに競争が減少していくと考えられる。葛藤状況において、男性が他者に勝ちたい、他者よりも優位に立ちたいと感じる心理は、将来繁殖価と同様の年齢曲線を描くはずである。(中略)
 進化生物学は、殺人という行為そのものが男性の適応戦略だと主張しているのではない。そうではなくて、競争的な葛藤を強く感じ、その競争において負けたくないと感じる感情が適応なのである。葛藤状況において、そのような感情を持つ男性と持たない男性とでは、過去の進化において、持つ男性のほうが適応的であったということだ。

この後半の部分の記述が重要だ。さらに面白いのは日本において男性の年齢別殺人率の統計が掲げてあることで、これをみると確かに若い年齢(20代)は多いのであるが、年代が進むにつれてその高い年齢層においても殺人率は顕著に減少しているのである。つまり社会全体が豊かになり教育レベルがあがるという社会環境により殺人の発生は減るのである。最近若者の凶悪事件が増えてきたといい、その原因は愛国心を教えないからだという論を立てる人びとがいるが、このグラフを見る限りそれは間違いだ。殺人は減っているのであり、日本人男性の年齢別殺人率は、近年よりも1926年-1935年の集団が明らかに高いのである。この時期の年齢は今の教育基本法とはご縁がないのではなかろうか。

 第六節のヒトの協力行動のところでは、推論においてヒトは「非協力者の検出」というコンテキストがあると格段に推論能力が上がるという仮説が紹介されている。学校で解くような数学の問題でも人間どうしの利害関係が絡んでくるような場合には同じ論証でも鋭くなるということである。これは特に女性の場合そうではなかろうか。抽象的推論には弱くても夫婦関係に関係する虚実となると滅法推理が鋭くなる傾向がある。
 この節のコラムには、お互いに感じる公正さという感覚がヒトだけに見られる特徴ではなく、フサオマキザルという猿にも見られるのではないかという実験結果が紹介されており、これも興味深い。猿でも自分と他人を見比べて平等に扱われているかどうかを敏感に判断しているらしいのである。猿について真偽のほどはわからないが、ヒトは互いに利他的行動をとるというのは重要な点であると思う。ただ目先の利益ばかりに目の色をかえて争うだけではなく、互いに助け合っていく行動をとれるということはヒトという種の重要な形質ではなかろうか。最近の競争ばかりを煽り立てるような風潮は、その大切な形質を否定しているような気がする。

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善の研究

 『善の研究』(西田幾多郎著、小坂国継注釈、講談社学術文庫)を読む。
 西田幾多郎の代表的著作に、注釈がつけられ、仮名遣いも現代仮名遣いに改められており、全編460頁のヴォリュームとなっているが、かなり読みやすい。
 主体と客体を分離したものと捉えず、主客同一な統一的な意識現象を実在とする。物体というものを意識現象の不動的関係に名づけられた名目にすぎず、物体が意識を生じるという唯物論を退け、意識が物体を作るとする。
 西田は自由について、自己の内的な本性に従って必然的に働いたときに真の自由といえるとする。主意主義的な西田哲学の特徴の一つであると考えられるが、この点は倫理的な点からみると問題が多い。彼は善を自己の内面的要求、意識の統一力である人格の実現であるとする。自己の発展した真の人格は主客未分の直接経験においてのみ自覚されるという。これは宗教的な倫理と解釈されればさほど問題ないのかもしれないが、この考え方にしたがうと善の外的規準というものが曖昧であるため、恣意的に解釈されてしまう危険がある。事実西田は善行為の目的のところでは、善行為の個人性を強調するのであるが、それが収斂していく先を国家と見なしている。国家を共同性の意志の発展完成形態と見なしているのである。
 発生論的にみて、主客未分の状態が根底にあるとしても、倫理として構築していく場合は、ある外的な規準がなければ危ういのである。
 

 

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 『蝿 異色作家短編集5』(ジョルジュ・ランジュラン著、稲葉明雄訳、早川書房刊)を読む。
 表題の短編は、「蝿男の恐怖」、「ザ・フライ」と2回映画化されているのであらすじは広く知られていることと思う。前者の映画はこの作品を比較的忠実に映画化しており、私はそれを観たことがあったので、特に展開自体に面白さは感じなかったのだが、作中主人公が物質転送装置で実験をする場面が描かれているところが興味深かった。
 この作品が発表されたのは、1953年で、当時物理学の進歩によって素粒子の存在が次々と明らかになっていた時代である。さらに物資の輸送という点でみると、1950年代はジェット機輸送が出現した時代であり、いかに早く大量に物資を遠くへ輸送するかが時代の要請であった。物質をその構成粒子まで分解して転送して遠隔地で再構成するという発想が出てくるのもそうした時代背景を考えると頷けるところである。
 作中主人公がこの装置の試作品で灰皿を用いて実験を行う場面が描かれている。このとき灰皿自身はうまく転送できたが、その底に記されている文字が鏡文字になっていることが判明して困惑する。この文字というのが、「made in Japan」である。フランス土産として買った灰皿が実は日本製だったという設定であるが、当時日本は経済復興を果たし、アメリカをはじめ世界各国へ輸出を伸ばしつつあった。しかし質としてはまだまだで、この作品からもそのことがうかがわれる。(映画ではワインのラベルの文字ではなかったかと思う。)実験として使うのはまず粗悪品からというところであろうか。
 リメイクされた「ザ・フライ」ではバイオテクノロジーが発達した時代背景もあり、ヒトとハエのDNAが転送されるときに混ざってしまうという設定だった。
 発達する科学により手痛い竹箆返しを喰らう科学者という基本設定は、メアリー・シェリーの「フランケンシュタイン」の系譜に属するものであるが、映画ではリメイク版の方がマッド・サイエンティストという色合いが濃くなっているのは、科学が社会与える影響がより深刻さを増していることの現れなのだろうか。

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明治の話題

 『明治の話題』(柴田宵曲著、ちくま学芸文庫)を読む。
 先に読んだ岩波新書の『幕末・維新』が大文字の歴史とすれば、こちらは小文字の歴史で、文明開化の時代のさまざまなエピソードをスナップショットのように撮って鏤めた歴史アルバムである。これは文句なく面白い。著者が宵曲なので、子規や漱石などの話題が随所に出てくるが、取るに足りないような小物や小品を通して歴史の滋味を出しているところが実に楽しい。
 例えば「夏帽」では、これが俳句の季題として用いられるようになったのが何時ごろからははっきりしないということから始まり、鷗外の『田楽豆腐』に出てくる夏帽子のこと、漱石の『我輩は猫である』(『猫』と略)に出てくる迷亭君のパナマ帽のことを取り上げ、漱石自身もパナマ帽を買っているが、これは『猫』の執筆より先であると教えてくれる。これに続く「角帽と制服」では、明治二十年に初めて帝国大学の制服制帽が制定され、新しくできた制服を纏い小旅行をした学生が、加波山事件の残党と間違われて警察に拘留されたというエピソードを紹介している。帝国大学の学生だと弁明しても当時その服装を警官は知らず、信じてもらえなかったらしい。
 学生とくれば試験であるが、かのケーベル博士は「試験勉強は勉強の堕落」という意見の持ち主であったという。白紙の答案に対して、「哲学はさう簡単にわかるものでない、白紙の答案はよい答案である、と云つて八十点を与へ」たりしたそうだ。なんとも磊落な先生であるが、現在の管理一辺倒の教育を見たら、それこそそんな教育は堕落であるとして、下の下という点数をつけることだろう。「試験勉強は勉強の堕落」とは、いい言葉だ。同じところには数学の隈本先生という、こちらは滅法厳しい先生がいたことが紹介され、そのせいで子規は数学嫌いになったらしい。子規は英語もあまり得意ではなかったようで、大学予備門の試験を受けた時、一緒にいった受験者から難語の訳を試験中こっそり教えてもらったのはいいが、ある字の訳を「ホーカン」だと教えられ、「幇間」と書いて提出したら、実は「法官」だったというエピソードには爆笑した(これは『墨汁一滴』に書いてあるとのこと)。入試問題に「幇間」はでないだろう。
 解説の川本三郎も宵曲の文章で初めて知ったという「賄征伐」(学校の寄宿舎や下宿屋で、献立の不満などから寄宿生が団結して、炊事室の器物をこわすなどの騒ぎを起こすこと)という死語のところでは、この騒動を起こした学生に下された処分を不服とした原敬が大木司法卿にまで陳情をしたが聞き入れられず、学校を去ったというエピソードがあったことを紹介している。この騒動の四年後の明治十六年にも同様の事件が東京大学で起こり(当時の賄いはよっぽどひどかったのだろうか)、なんと146名が退学を命ぜられているというのだ。このときの放校組の中には平沼騏一郎もいた。彼らは結局復校するに至ったというが、時代は下って彼の孫の代にあたる(母方の祖父の弟が平沼騏一郎であり、彼はその養子である)平沼赳夫は郵政改革に反対し、自民党を放党されたがついに復党せずとなっていることを知っていると、このエピソードも違った味わいが出てくる。
 とにかく好きなところを拾い読みするのも好し、漱石や子規の作品や明治の年表を傍らに置きながら読むのも好し、自在に楽しめること間違いない。

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幕末・維新

 『幕末・維新 シリーズ日本近現代史1』(井上勝生著、岩波新書)を読む。
今回から刊行開始となったシリーズで全10巻の予定である。第1巻は、黒船来航から西南戦争までの歴史を概説している。新たな知見に基づいて開国や維新の動乱の時代が従来の教科書的な記述とは異なっていることを教えてくれる。孝明天皇は攘夷論を主張していたが、その内容は時代の情勢を見誤った無謀なものだと批判されていたことが書かれている。当時天皇家や天皇家から親王が入って「王孫」となった貴族たちは、「雲上」という血族グループとなっており、「万王一系の神国」という神国思想を共有していたという。そして



詳しく見れば、天皇と貴族共同の「雲上」という伝統的な神国思想にくらべて、天皇(孝明)こそが、貴族(鷹司や九条)とちがって、神武以来の「万王一系」をつぐ貴種だ、という神話は、この時代に生まれたあたらしい神国思想である。こういう幕末政争の前史の上に、明治憲法で「万世一系」という天皇主義思想が創案される


ということだ。当時幕府側はかなり客観的にかつ冷静に情勢を分析していたのだということも教えてくれる。
 また当時の百姓一揆についても非暴力的なもので、3200件ほどの一揆で竹槍で殺害が発生したのは2件のみだという。駕籠訴(越訴のひとつ)の本人は獄門となったらしいが、要求自体に道理があれば事実上認められていたらしい。
 幕末の日本は今から思うよりは成熟した社会であったようで、経済的にも発展しておりそうした基盤があったために開国後の交易もスムーズに運んだようだ。
 日本の地を踏んだ欧米人は江戸の女性を高く評価したおり、感じがよく物怖じしない女性として描写されている。このあたりの記述を読むと当時の庶民の持っていた屈託のなさというのは、現代人が失ってしまった大切なものの一つであるように感じた。

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幻景の街

 『幻景の街』(前田愛著、岩波現代文庫)を読む。
 文学作品を読む時にその登場人物と同じくらいその物語が語られる場所の固有名というのが、その作品に占めるウェートは大きい。本書では明治・大正時代から現代までの小説を取り上げ、そこに出てくる風景・都市を浮き上がらせていく。そこではあくまで固有名としての都市が主役であり、作品の登場人物たちは従である。そこが通常の文学散歩とは異なる。
 固有名としての都市は、絶えず時の流れとともに変貌し、拡張・衰退する。そこで生起するあらゆる事象は、その都市の歴史に繰り込まれていく。そしてそれらの事件が都市の顔貌を変えていく。現在進行形で都市の中に住まっている私たちは、その表情を捉えることはできないのだが、一つの時代が過ぎて、その都市を振り返る時私たちはその変貌に初めて気がつく。このときあたかもその都市が最初からさまざまな歴史的事件が起こることが予定されていたかのように感じるのはどうしてだろうか。武蔵野という土地を国木田独歩が散策してその風景を創造したこと、『三四郎』の主人公を通して漱石が本郷界隈の情景を描いたことなどこれらのエピソードはその都市の中で起きたことであるが、今やその都市自身の本質的経験となっているとはいえないだろうか。
 人間の成長過程を振り返ったときに、あるときの経験が決定的影響を与えるように、都市にもそうした経験があり、文学作品によって創造される「幻景」が決定的な影響を与えるということがある。文学のことは詳しくない私であるが、著者は都市の持つ不思議な性質に鋭い嗅覚と洞察を備えていた文学者であったことは確かだと思う。
 訪れたことのない街については、詳細がよくわからないのが残念であるが、想像を膨らませることは楽しい。こうした視点で都市を文学作品とともに読み解いていて、かつ当時と現代の地図対比つきで、写真も取り入れたビジュアルな本はないものだろうか。絶対面白いと思うのだが。
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