この「ひねり」の重点がどこにあるかによって、短編小説の色調が変わる。事件の新奇性に重きをおく短編小説は数多くあり、これが重要だと説く人も多い。確かにそうだと思うが、これはあくまで短編の必要条件の一つだろう。これらは読んで「面白い」と感じさせる短編小説である。しかし読んで「うまいなあ」と唸らせる短編小説は、事件よりも登場人物の背景が見事に凝縮され小説の中に組み込まれている。ちょうど象嵌細工のように。
今度手にした『イラクサ』(アリス・マンロー著、小竹由美子訳、新潮社刊)は、登場人物の彫琢が見事な短編集である。作者は1931年生まれのカナダ人で、表紙の解説には「短編小説の女王」だの、「世界でもっとも影響力のある100人」だのと賛辞が目白押しである。昨晩から読み始め、まだ途中であるが、重厚な読書時間を堪能させてくれる。
出版社として売りたい気持ちが十分分かるが、この短編集を売るなら、帯や表紙の賛辞はもう少し控えめにしたほうがいいと思う。こういう小説だったら、きちんと評価してくれる人はちゃんと買ってくれます。これでもかという帯の広告はかえってそういう人たちを敬遠させかねない。脱線するけど最近は本にしろ映画にしろ宣伝コピーがやたら鼻につくような、あるいは歯が浮くようなものが多くて辟易する。これはたぶん本を「読む」人と宣伝文句を「売る」人が互いに交流していないというか、別々の回路を廻っているような状態ではなかろうか。
この短編集はこっそり書棚に置かれて、じっくり読まれてというのが似つかわしいな。前半読んだところでは、私としては「恋占い」が絶品。