最終章では常識として弁えておくべき統計的知識(平均と標準偏差)が紹介されている。○×思考の人には是非知っておいてほしいところだが、日本の新聞の統計データには標準偏差なんか付記されていることはほとんどないのが気になる。
最終章では常識として弁えておくべき統計的知識(平均と標準偏差)が紹介されている。○×思考の人には是非知っておいてほしいところだが、日本の新聞の統計データには標準偏差なんか付記されていることはほとんどないのが気になる。
『故事成語でわかる 経済学のキーワード』(梶井厚志著、中公新書)を同じ著者が5年前に出した『戦略的思考の技術』(中公新書)とともに読む。
順番からすると、後者を先に読んで、ゲーム理論による経済活動の分析で登場するさまざまな概念(インセンティブ、コミットメント、ロック・イン、シグナリング、スクリーニングと逆選択などなど)を抑えて、前者に進むというところだろうが、後者だけでも解説は丁寧にされているので、どちらでも好きなほうから読める。
後者はいわゆる中国の故事に因んだ成語を経済学の視点から分析するというものである。四字熟語に限らず漢文に登場するこれらの成語の来歴は高校時代に教えられたり、漢文学者の著書による解説で教えられるのが通例であるから、著者による分析は、まさに目から鱗が落ちるものである。漢学者の講釈はどうしても史実に忠実であろうとするあまり、斬新な解釈はなされない。例えば本書の冒頭に掲げてある「覆水盆に返らず」という成句であれば、「過ぎ去ったことに対して悔やんでも仕方がない」という字義通りの解釈がされるのが関の山であるが、本書の場合ここから、すでに投資されてしまって回収不能な埋没費用sunk costという概念を用いることにより、覆水というものがどのような費用とみなすべきかという視点から論じられる。あるいはこれに続く「蛇足」では、「余計なこと」という意味からさらに発展して、「追加的な便益」をきちんと把握することがいかに困難かということを説明する。一番早く蛇を書き上げたついでに足を追加して賞を逃してしまった男のことを嘲笑うのは簡単なことであるが、現代の経済生活でこうしたことが頻繁にあることを示されると、思わず赤面してしまう。
本書で取り上げられている「朝三暮四」、「完璧」、「敗軍の将は兵を語らず」の解釈は深く実に面白い。
二つの著書を読むと、現象を解釈する上で一貫性のある理論に則って解析することの重要性が隠れたメッセージとして読み取ることができ、この本を読んで感じる面白さはまさに雑多な現象をそれにもとづいて快刀乱麻を断つ如く一刀両断にすることの面白さなのである。
『増補ケインズとハイエク <自由>の変容』(間宮陽介著、ちくま学芸文庫)を読む。
ハイエクとケインズを対比させながら自由という問題を考えさせる一冊である。両者の違いを際だたせることではなく、「ケインズとハイエクという二人の人物に何とか折り合いをつけてみよう」というのが本書の意図とされているが、どちらかというとハイエクに重心がかかっている。
第3章までは概説的なことがかかれ、第4章からが本論という感じだが、第3章の慣習や伝統の中に生きている知識論にふれたところは、ウィトゲンシュタインにも言及されており社会の中での法・制度を考える上で興味深い点である。ハイエクはルールについてはあくまでも原則を立てるにとどめることを主張し、規則は「すべし」ではなく「すべきでないこと」を定めることが自由にとって大切であることを説く。
ルールに体現された原則は細々とした行動の細則を与えるのではなく、たんに為してはならないことを定めるだけである。まさにそのために、原則の遵守は人びとの自由を拡大するのだと力説した。原則を無視して状況依存の便宜の策を採れば、短期的な利益を得ることはあっても、長い目で見れば自由を台無しにしてしまう。ハイエクの主張は正当である。どこにも瑕疵は見あたらない。だから彼が、ケインズの広く人口に膾炙された名文句、「長期的に見ると、われわれはみな死んでしまう。嵐の最中にあって、経済学者に言えることが、ただ、嵐が遠く過ぎ去れば波はまた静まるであろう、ということだけならば、彼らの仕事は他愛なく無用である」(『貨幣改革論』)という文句に対して次のように応酬したとき、真理の天秤は彼のほうに傾いたはずだ。「自由主義者や個人主義者の政策は本来的に長期の政策でなければならない。短期の結果に目の色を変え、このことを「長期的に見ると、われわれはみな死んでしまう」という論法で正当化しようとするのが昨今の風潮であるが、そうなれば必ず、典型的な状況について定められたルールの代わりに、その時その時の御都合に合わせて作られる規則に頼るはめに陥ってしまうだろう」(「真の個人主義と偽りの個人主義」)。
利己主義と自由主義の境界線をどこに見いだすのか。著者は補論で投げかけている。極めて困難なこの問いに著者は公と私の間の中間領域を認めるかどうかに、自由主義と新自由主義の違いを求め、国家と市場の二分法からくるバランスの悪さの緩衝をとろうとする。現在のインターネットによる社会を考えてみると、このシステムは個人間の関係の希薄化の危険と同時に新たな「中間領域」を形成する潜在力を持っているだろう。ぶつ切りにされた個人がひきこもることなく、社会の紐帯を維持していくことができるかどうかは真の自由を維持していくことができるかどうかにとって大きな問題であると思う。
『ハイエクと現代リベラリズム』(渡辺幹雄著、春秋社刊)の続きを読む。第五章はバーリンとハイエクを比較し、それぞれのいう自由がどう異なるかを説明している。ハイエクは社会の分析に自然と理性という啓蒙主義の二分法は退け、「自然physis」、「生成nomos」、「作為thesis」の三分法を用いる。ノモス、すなわち私たちの行為の結果生み出されたものであるが、ある目的の下に設計された結果ではないものを重視する。啓蒙主義はこの視点が脱落していると指摘する。こういうところはハイエクが工学的視点ではなく、生物学的視点に立っていることがうかがえる。
革命については、ハイエクもバーリンも啓蒙主義とロマン主義の奇妙な結合の産物であると診断する。バーリンはこう診断しロマン主義と啓蒙主義を遠ざける。
人類を二つのグループ-本当の人間と、他の劣った等級の存在、劣等な人種、劣等な文化、似非人間的動物、歴史に断罪された民族や階級-に分かつことは、人間の歴史では最近のことである。それは共通の人間性-先行するすべての、宗教的、世俗的ヒューマニズムが立脚していた前提-の否定である。この新しい態度によって、人間は無数の同胞を完全に人間なのではないと見なし、良心の呵責なく、彼らを救おうとしたり、彼らに警告を発したりする必要なく、彼らを殺戮できるようになる。
バーリンが自由を積極的自由と消極的自由に分けたことは周知のことだが、ハイエクはかれの三分法による方法論から自由をあくまで一つの統一的価値、恣意的強制の欠如としてとらえ、「制度的には恣意的強制の及ばない領域の保護」とみる。そのためバーリンのように「政治的自由」の呼称は使わない。ハイエクは「~からの自由」をより狭義に解釈する。それは広義に解釈することにより権力を意味する自由に結びつき、全体主義へと結びつく回路を開く恐れがあるからである。この危険性を鋭く洞察できるのは、「ノモス」の眼をハイエクが持っているからに他ならない。自己決定の自由を無制限に拡大していくことが逆説的に社会による個人の抑圧へとつながる危険がある。この指摘は重要だと思う。抽象的な仮説的理論に基づくのではなく、個人の具体的な生、社会の歴史的経験を踏まえて進むこと、それは私たちから遊離した超越的な理性に全幅の信頼を置くことに対する危険性を弁えていることなのである。
精神は文化的進化のガイドではなくその産物である。それは洞察や理性よりもむしろ模倣に基づく。(中略)我々の理性は、我々の道徳と同程度に進化論的な選択過程の結果なのである。
(ハイエク「The Fatal Conceit: The Errors of Socialism」)
『ハイエクと現代リベラリズム』(渡辺幹雄著、春秋社刊)を読んでいる。『省察』と『新デカルト的省察』の両睨みの読書がなかなか捗らないので、他の本に手を出している。本書は600頁弱の大著であるが、なぜか『省察』よりも進む。
ハイエクの思想を中心に、リベラリズムについて論じた著者の処女作『ハイエクと現代自由主義』の増補・改訂版とのことである。前著は読んでいないし、ハイエクは自分にとってはほとんど馴染みのない思想家なので、まったく読みには自信がないが第四章まで読んで実に面白いというのが第一の感想だ。
序論では、著者のリベラリズム観が端的に述べられているが、これも正鵠を射ていると思う。
リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。
リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。
こう啖呵を切って始まる第一章は、ハイエクの思想の全体見取り図が述べられる。キーワードは反構成主義であり、進化論的に生成される秩序-自生的秩序である。狭い合理主義的観点からは記述不可能と捨てられてしまう世界にある超越的な秩序を見ることの重要性が強調される。そこに秩序を見ることができるかどうかが、パスカルのいう「繊細の精神」を持っているかどうかの試金石なのである。だから「構成主義者には『美的判断力』がない」と著者は断ずる。
続いて第二章からは、ハイエクを取り巻く重要思想家を対比させながらハイエクの思想を浮き彫りにしていく。外堀を埋めながら次第に本丸に迫っていく感じで読んでいて間然するところがない。第二章はポパーの批判的合理主義を取り上げ、ハイエクとの差異を明確にする。第三章はオークショットの思想が取り上げられる。この部分はもともと詳しくないから完全に理解したとはいえないが、経済のポリス=オイコス図式とエコノミー=カタラクシー図式の二つの見方を比較して論じ、後者でなければ市場秩序の基本原理を理解することができないとするところはなるほどと思った。
第四章では、マイケル・ポラーニの暗黙知が主題となる。前章のオークショットの知識観-知識を「技術的知識」と「伝統的知識」の二つに分ける見方にも関連するが、知識を命題として定式化することが可能な「命題知」または「明示的知識」と、実際の行為を通して初めて学ばれる「方法知」または「暗黙知」に分けるポラーニの知識観が、ハイエクの知識観(「科学的知識」と「現場の人間の知識」)との相似形であることが示される。この議論を通じて、自生的秩序内での伝統の重要性を論じた部分は非常に重要である。
第四章の終わり近くになって、アンチ合理主義としてのデカルトとして著作からの引用が出てくる。著者はデカルトのエピゴーネンとデカルトを一線を画するものとして取り上げており(注22も参照)、偶然虚心坦懐にデカルトを読んでいた矢先のことであり大いに共鳴したのであった。
『誘惑される意志』(ジョージ・エインズリー著、山形浩生訳、NTT出版刊)を読む。著者の肩書きは巻末の紹介によれば、精神科医とあり、臨床医として活動する一方で、この本の主題となっている異時点間交渉問題を研究しているという。前著は『ピコ経済学』でミクロ経済学よりもさらにミクロな神経心理学的主題が扱われていることから「ピコ」経済学であるそうだ。ここでは一応カテゴリーは「経済」に分類することとした。
本書では価値判断に指数割引ではなく、双曲割引が重要であるというのが一貫した主張で、この原理であらゆる現象を快刀乱麻を断つごとく一刀両断する。双曲割引というのは、現在からみて未来を価値を割り引いて価値判断する際に、双曲線で近似できるとする評価基準である。曲線は指数曲線よりも立ち上がりが急な曲線(より撓っている曲線)であるため、価値がより低くても手近にあると将来手にできる価値よりその時点では高く評価されてしまうという現象が起きてしまう。これは経験的にもよく起こることだ。
この本を読んで面白かったのは、意志という現象を、この双曲割引による複数の価値評価の闘争と協調の結果であるとしていることだ。こういう観点に立てば、単純な価値評価システムから複雑な意思決定機構へと進化する経路への見通しがすっきりする。昔から「強い意志をもて」とたびたび説教されながら、いまだに強い意志をもてない自分のことを考えると、この考え方はなるほどと腑に落ちるところがある。意志は筋肉のようにやみくもに鍛えて強くなるようなものではないのだ。
もちろん人間はさまざまな欲求を抱くからその重みづけがすべて同じ双曲線の特性であるとはいえないだろうが、この理論は意志作用がどうして脆いのかをよく説明してくれる。さらにこの本の面白いところは、そうした意志の働きにより、より強いルールが設定されることになり、これがときに「副作用」をもたらすと洞察しているところである。意志による冷徹な合理性の設定により大きな価値を手にするはずだったのが、結果的には満足度が減ってしまうこともあることをさまざまな例を取り上げながら説明している。こうしたことかすると、欲求はすばやく満たされればそれに越したことはないという合理性至上論に対して、欲求を満たすために自らある一定の(至適な)時間をかけて環境に働きかけて果実を享受することの方が結果的に適応度が上がり、長期的には望ましいということも主張可能なわけだ。現代社会は効率化を追及して、待たずに質の高いものを手にすることを可能にしているが、どこか不満足な感じ(手にした物が何かほんとうに自分が望んでいたものではないという違和感)を抱いてしまうのはそのためなのかもしれない。
ある意志をもって目的を達成しようとしているときにどのような(どれくらい強い)原則を適応してそれを阻害するものに対処しているのかを考えてみること。これは他人の行動を分析する場合にも有用だろう。
ある目的の達成を阻害するものがある場合に、実は(意識的、無意識的に)拙速な欲求実現が回避されているのではないかと考えてみること。
『エコロジストのための経済学』(小島寛之著、東洋経済新報者刊)を読む。私はエコロジストではないのだが、著者が「経済学と本格的に取り組みはじめた後の、私の勉強の成果を、既成の理論から研究途上のものまで余すところなく書いた」というあとがきを読んで購入を決めた。この著者の本を読むのは、これで四冊目である(ブログで感想を公開しているのはうち三冊)が、あとがきを読むたびに著者の熱い思いを感じることができる。本文は、論理的にさらりと書いたような印象を受けるが、短いあとがきにはその熱い思いが凝縮されており、この温度差が心地よい。
今まで読んできた本の総集編といった趣があるのだが、その中で面白かったのは、商品取引における情報の非対称性がもたらす影響を論じたところと、ゲーム理論で合理的に選択された戦略も結果からみると全体として非合理的になり、かつそれから容易に抜け出せない状況に陥ることがあることを論じたところ(いずれも第6章)だった。
情報の非対称性を分析したのはアカロフという経済学者ということだが、豊かな情報化社会ならではのこの現象は、社会問題を分析する上で大切な視点である。そして環境問題をつい自然科学問題ととらえがちな自分にとって、経済学的視点から考えるというのは非常に教えられるところが多い。
市場取引というのは、自然科学が正確に反映されるような理想的存在とは言えない。人々は市場において、「嗜好」や「気分」で購買行動をしており、普通の状態なら、これは「市場の匿名性」や「商品の無差別性」と、それを利用する裁量権によって、生産者にも利益をもたらしている。しかし、だからこそ、これが災いし、環境問題がもたらす悪性シグナルや情報の非対称性が市場取引にいたずらをすることも起きる。これは豊かな社会における市場取引の持つトレードオフだと言ってよい。
この後にゲーム理論を使って、社会が一旦選択した選択肢から容易には抜け出せない状況というのを説明している。各人が個々に判断して行動している状況では、各人が別の選択がよりよいと考えていてもそちらに移れない状況というのがあるのだ。赤信号はみんなで一斉に渡らないといけないのだ(一人で渡ってしまえば、車に轢かれる確率が高い)。このことから著者は現在の自動車社会が必ずしも最適な選択の結果生まれたという保証はないことを論じている。この結論は一概には言えないが、生物の進化もそうしたものであろう。そのつど遭遇した環境(これは個体にはどうしようもない外的制約である)に最適な個体がより多くの子孫を残して、その環境に適した形に進化していくが、それはある意味でその環境にしか適さないようになっていく、進化の袋小路に入っていく選択でもあるのだ。その結果絶滅していく生物種は限りなく多いと思われる(だから絶滅危惧種もどれくらいの割合が人間の責任なのかははっきりしない。もちろんだからといって何もしないでいいということにはならないのだが。)。
高度情報化社会になると、ある情報が非常に短時間に極めて多くの人に周知されるだけに一斉にみんながある選択肢を(各人は合理的と信じて)選ぶということがますます増えるであろう。このときその選択肢をとらない少数の人が必要以上の不便を強いられる頻度がさらに増えてしまう心配がある。こうしたことはどうしても中央で管理をしないといけないことであると思う。
あとなるほどと感じたのは、第8章にあった貨幣の機能のところで、貨幣は個人が持つ物々交換の欲望が一致する確率が低くなるという困難を解決する道具であるということを述べたあとに、それを成り立たせる社会的合意というつかみどころのないものをひとつの戦略として定式化することで説明可能であるというコチャラコータという経済学者の議論を紹介している。各人の個別的な戦略が貨幣という情報を媒介を介してあたかも社会的な合意がなりたつようになるというのは大変面白いことだと感じた。個人が損得勘定で動くとしてもそれにある方向性を持たせることに成功すれば、社会全体の構造が変わりうるということだ。
全体を通読して、これは決してエコロジストになるための本ではなく、エコロジストの怪しげな説にだまされないために役に立つ本と言えそうだ。お買い得です。
『ヤバい経済学』(スティーヴン・D・レヴィト、スティーヴン・J・タブナー著、望月衛訳、東洋経済新報社刊)を読む。忘れてしまったが、どこかの新聞の書評で取り上げられていたのを見て、題名から連想されるような「ヤバい」内容ではないということが書かれていたので、購入した。
本書の各章に統一性はないということが冒頭から書かれているように、扱う主題は答案を書きかえてまでいい点数をとらせるいんちき教師や相撲の八百長、ク・クラックス・クラン団員、麻薬の売人など多種多様であるが、一貫したものがあるとすれば、「インセンティブ」であろうか。あることを行わせるようにさせるために与えられる外的な促進的刺激、すなわち馬を走らせるための人参がインセンティブであるが、経済学というのは人間をインセンティブで動く存在とみなす。だからどのような利益が得られるかが分かるならば、集積されたデータ(試験の点数や星取表)からある一定の規則性を読み取ることでインセンティブに突き動かされているかどうかを推測することができる。いんちき教師による答案改変のところはミステリーのような面白さがあるし、巻末の後日談を読むとさらに面白い。
相撲の八百長については日本では公然の秘密なのだろうか。こういう切り口で見るのも面白い。でも日本ではたぶん議論は盛り上がらないだろうな。論じることのインセンティブがないだろうから。
ある閉鎖された集団でのみ共有されている情報(秘密)が公開されること、しかも貴重だと思われている情報が他愛もないものであるという形で公開されてしまうことほど組織の結束力を破壊するものはないということをKKKにまつわるエピソードは教えてくれる。
ニューヨークで犯罪件数が減ったことの原因が、中絶の認可であるという議論の正否はよく分からないが、社会現象の変動にはときには予想もつかない要因が絡む可能性があるということを教えてくれる。しかしこれが真相だとすると、アメリカの貧困の病根は深いと言わざるをえない。軽やかな俊才の経済学的分析を読み終えて、その分析対象となった社会問題の病巣を思うとき手放しで面白いとも言えないなと感じた。