烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

なぐさめ

2006-04-13 23:24:04 | 本:文学

 昨日紹介したアリス・マンローの短編小説集『イラクサ』に所収の「なぐさめ」という作品では、進化論をめぐるエピソードが登場する。
 筋萎縮側索硬化症(ALS)を患い、自殺してしまう高校教師のルイスは、学校で生徒たちに進化論について教える。ところがそれを妨害しようとする生徒が現れる。彼(および彼女)らは、創造説主義者であり、ダーウィンの進化論と同等に聖書の創造説を教えよと迫る。
 彼は頑としてその理不尽な要求に屈服することなく進化論を講ずるわけであるが、アメリカでの進化論反対論者について知らないと不可思議に思われる読者もいるのではないかと思う。日本ではキリスト教の土壌はないから生物学の授業で聖書の天地創造が登場するなんてそれこそ驚天動地、想像もつかないことだろう。 日本でいえば天照大神の神話が生物学の授業に登場するようなものだ。しかしアメリカでは裁判沙汰にまでなっており、ダーウィンの進化論に対し、創造説を教えることは違憲であるという州連邦地裁の判決が出ている始末なのだ。周知のとおりブッシュ大統領は「敬虔な」キリスト教徒であり、妊娠中絶に反対し、進化論以外の解釈を学校で紹介することに吝かでない態度をとっているくらいである。
 物語は地球の生命の歴史を講じていた愛する夫が自殺という最後を遂げ、火葬された遺灰の感触の美しい描写で終わるのだが、上述のような文化的背景のある国では唯物論的な生物学教師の最後というのはまた独特な印象を残すに違いない。
 そうそう葬儀の場面では、死体の防腐処置embalmingのことも出てくる。これも日本では馴染みのない風習だが、小説の中でうまく利用されていると思う。
 愛する人と死別した悲しみが抑制の効いた筆致で描かれた佳品であると思う。