裁縫用品

「一方通行路」から

犯罪者を殺害することは、倫理的でありうる。だが、それを正当化することは、決して倫理的ではありえない。

すべての人間を養うのが神であり、すべての人間を栄養不良にするのが国家というものである。 

 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)

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眼鏡店

「一方通行路」から

まなざしは、人間の残滓である。

  『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)

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手袋

 動物に嫌悪を覚えるときに心を占めている感覚は、接触すると、こちらのことを見抜かれるのではないか、という不安である。自分のなかには何か、嫌悪を催させる動物と決して無縁でないもの、したがって動物に見抜かれるかもしれないものが生きているのではないか、という漠とした意識、それが人間の奥深くで恐れおののくのだ。-すべての嫌悪は、もとをたどれば、触れることに対する嫌悪である。この感情を抑えたときですら、実はたんに脈絡のない過剰な身振りをすることで、この感情を無視したというにすぎない。つまり嫌悪を催させるものが、この身振りに激しく絡みつき、それを平らげるであろう一方で、きわめてデリケートな表皮的接触の領域は、タブーでありつづける。そのようにしてのみ、道徳の矛盾した要求は満たされうる。つまり人間は、嫌悪感を克服することと、それをこの上なく洗練陶冶することを、同時に求められているのだ。生き物の呼びかけに対し、人間は嫌悪をもって答えるのだが、その生き物との獣的な血縁関係を否定することは、人間には許されていない。人間は自分を、その関係の支配者としなければならないのである。
                『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』
                ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫

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市場の報酬

努力に対する報酬は、期待したものと違うことが多いし、また、もしそれらが生産の正しい指針であればそうであるにちがいない。市場が決定する報酬は、いわば機能の上では、人々がなしたことで関連しているのではなく、ただなして然るべきことと関連している。それらは概して、人々を成功させる誘因(incentives)であるが、関連する諸事情が思いがけなく変化したような時に、それらは、こうした報酬が生み出した期待に反することが多いという理由だけからも、活力ある秩序を生み出すことであろう。どの計画が誤りであるかを示すのは、競争の主な仕事の一つである。(中略)運の要素は、腕の要素と同様に、市場の作用とは密接不可分なのである。
(ハイエク『法と立法と自由』)
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迷宮と故郷

迷宮は逡巡する者の故郷である。目的地に着くことを恐れる人のたどる道は、容易に迷宮を描くであろう。
(ベンヤミン)
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誤りやすさに対する無自覚

 人類の良識という観点ではじつに不幸なことだが、人間が間違いをおかしやすい事実は一般論としてはつねに認識されているが、具体的な問題を扱う際には、はるかに軽視されている。誰でも自分が間違える可能性があることは十分知っているのだが、自分が間違える場合に備えておく必要があるとは、ほとんど誰も考えないし、どのような意見も間違いである可能性があるとは認めても、自分が確実だと感じている意見がその一例かもしれないとは、ほとんど誰も考えないのである。

J.S.ミル『自由論』

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国体はなお身体の如く

これを人身に譬えば、国体はなお身体の如く、皇統はなお眼の如し。眼の光を見ればその身体の死せざると徴すべしといえども、一身の健康を保たんとするには、眼のみに注意して全体の生力を顧みざるの理なし。全体の生力の衰弱する所あれば、その眼もまた自ずから光を失わざるを得ず。あるいは甚だしきに至ては、全体は既に死して生力の痕跡なきも、ただ眼の開くあるをみて、これを生体と誤認るの恐れなきにあらず。
                                  福沢諭吉『文明論之概略』
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謎の解決

 謎の解決において重要なのは、探し求められているのが解決だということを知っているだけでなく、どの点においてどのような仕方でそれが解決であるかをも知っていなければならないということである。たとえば人間がスフィンクスの謎の解決であることを知るという場合でも、それがなぜ解決であるかを理解していなければ、その解決を知ったところでなんの意味もないであろう。してみれば、まさに目の前に解決があるのに、さらにはずっと以前から目の前に解決があったのに、人はそれが解決であることに気づかなかったのかもしれない。ヴィトゲンシュタインにとって、まさにそれこそが、彼が哲学的問題の解決とみなすものにおいて生じている事態である


J.ブーヴレス(『言うことと、なにも言わないこと』)

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スフィンクスの謎

 スフィンクスの<謎>をかけられた人は誰であれ、答えをいわば眼前にしている。だが、ナゾナゾの答えが、眼前にありながら、なおかつその当事者がそれを認識していないようなものであり得るならば、我々はいかにしてあるものについて、それは答えではないと言えるのか。ある意味で我々は自分たちが求めているものが何か分からないならば、どうして我々は「これはそれじゃない」と言えるのか。

C.ダイアモンド「謎なぞとアンセルムスの謎」(現代思想1998年1月号p281-303)

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物の存在

「物の単なる概念においては、物の存在のいかなる性格にも出会えない。なぜなら、物の概念がたという完全で一つのものを、それのすべての内的規定によって思考する上で、少しも欠けるところがないとしても、物の存在はこれらすべての[概念]規定と何の関係もなく、関係してくるのはただ、そのような物がわれわれに与えられ、概念より物の知覚がいずれにしても先にありうるのではないかという問いだけである。なぜなら、概念が近くに先行するということは、物の単なる可能性を意味するにすぎないからだ。しかし概念を素材に提供する知覚こそ、現実の唯一の性格なのである。
                           『純粋理性批判』(イマニュエル・カント)    

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