烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ノリ・メ・タンゲレ

2006-04-23 13:51:41 | 本:芸術

 『私に触れるな ノリ・メ・タンゲレ』(ジャン=リュック・ナンシー著、荻野厚志訳、未來社刊)を読む。ゴルゴダの丘で磔刑に処せられたキリストの復活を描いた絵を題材にして、そのときキリストが復活を目撃したマグダラのマリアに言った「私に触れるな(ノリ・メ・タンゲレNoli me tangere)」という言葉についての哲学的考察である。
 ナンシーは復活という奇蹟をあくまでも内在的に考察する。復活は死の意味づけを向けなおすことである。



キリスト教思想がこれほどまでに復活を強調するのは、それはまずもってキリストという人格の、それゆえまた彼の死の、徹頭徹尾人間的な現実性を強調するからである。死の現実性は否定されていない。「復活」という語は、自らを「起ち上がらせる」行為、あるいは自らを「立て直す」行為を意味している(ギリシア語の「アナスタシス」にしたがって)。


起ちあがらせることによる方向=意味(サンス)の変化は、しかしながら決して特定の方向を与えるものでもなく、完成とは無関係であることをナンシーは強調する。復活は死んだものに起こる再生や輪廻、回復、転生ではない。また死の中に自らを維持するというヘーゲル的な揚棄でもない。なぜなら方向=意味の立て直しは他者に由来するものだからである。他者が死せるものを復活させるのではなく、他者が死せるものに代わって復活する。


 マリアは、復活したキリストの声を聞き、かつ園丁の姿をしたキリストを見ている。視覚は彼の現前を捉えているにもかかわらず、園丁の姿としてしか捉えることはできない。そして声も園丁の語りとして彼女は聞く。キリストからの呼びかけで園丁が誰か分かった瞬間、触覚による無媒介的な確認は拒否される。復活したキリストが自らに触れることを禁止したのはなぜか。復活したものは死んだものだり、分離されたものである。この触れることの不可能なものを禁止されること、すなわち触れることを永久に延期させられることによって私たちは真理がどういうものかを教えられるし、信ずるということがどういうことかを知る。
 禁止されているかぎり私たちはその禁止されているものを信じ、そこへの到達可能性の希望を抱くのだ。



キリスト教的愛の不可能性は、「復活」の不可能性と同じ秩序に属しているのかもしれない。両者に共通する真理は、この不可能性そのものに起因しているだろう。しかしそれは、なんらかの奇蹟、心理学的だったり生物学的だったりする奇蹟が、不可能なものの必然性を思弁的ないし神秘的方策へと変換することでもなく、まさに不可能なものの場所に自らを保たなければならないという意味である。不可能な場所に自らをたもつ[se tenir]ということ、それは人間がその限界-暴力と死の境界線の上に自らをたもつ、その場所に留まる[se tenir]ことである。この境界線の上で、人間は倒れ落ちるかその身を曝け出すかするのであり、どうやっても必然的に自らを失うのである。だからこそ、この場所は、眩暈あるいはスキャンダルの場所でしかありえず、許されざるものの、同時に不可能なものの場所でしかありえない。


 ヘーゲルの「否定的なものへの滞留」を連想するが、ナンシーは復活したイエスではなく、明らかにそこに立ち会ったマリアに重点を置いている。共にいる他者という存在の意味を考える上でこの違いは大切なことのように感じる。