「一方通行路」から
犯罪者を殺害することは、倫理的でありうる。だが、それを正当化することは、決して倫理的ではありえない。
すべての人間を養うのが神であり、すべての人間を栄養不良にするのが国家というものである。
『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)
「一方通行路」から
犯罪者を殺害することは、倫理的でありうる。だが、それを正当化することは、決して倫理的ではありえない。
すべての人間を養うのが神であり、すべての人間を栄養不良にするのが国家というものである。
『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)
「一方通行路」から
まなざしは、人間の残滓である。
『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)
動物に嫌悪を覚えるときに心を占めている感覚は、接触すると、こちらのことを見抜かれるのではないか、という不安である。自分のなかには何か、嫌悪を催させる動物と決して無縁でないもの、したがって動物に見抜かれるかもしれないものが生きているのではないか、という漠とした意識、それが人間の奥深くで恐れおののくのだ。-すべての嫌悪は、もとをたどれば、触れることに対する嫌悪である。この感情を抑えたときですら、実はたんに脈絡のない過剰な身振りをすることで、この感情を無視したというにすぎない。つまり嫌悪を催させるものが、この身振りに激しく絡みつき、それを平らげるであろう一方で、きわめてデリケートな表皮的接触の領域は、タブーでありつづける。そのようにしてのみ、道徳の矛盾した要求は満たされうる。つまり人間は、嫌悪感を克服することと、それをこの上なく洗練陶冶することを、同時に求められているのだ。生き物の呼びかけに対し、人間は嫌悪をもって答えるのだが、その生き物との獣的な血縁関係を否定することは、人間には許されていない。人間は自分を、その関係の支配者としなければならないのである。
『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』
ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫
『ナイフ投げ師』(スティーヴン・ミルハウザー著、柴田元幸訳、白水社刊)を読む。
1943年生まれのアメリカの作家でありながら、作風は幻想的である。巻末の解説によるとここに収められた作品は1990年代に発表された作品だというのが、ちょっと意外な感じである。
この短編集の表題にもなっている『ナイフ投げ師』や、『パラダイス・パーク』には、見世物という大衆娯楽でありながら芸術的至高を目指す奇矯な人物が描かれている。ナイフ投げ師のヘンシュは、「彼なりのあり方で、一人の芸術家ではなかっただろうか? したがって、彼のやり口に眉をひそめ、下卑た見世物師として彼を蔑みながらも、その大胆さには私たちも感嘆させられた」という人物である。彼はナイフをアシスタントの体をわずかに傷つけるように投げる。そして「彼女の首筋に細い赤いしたたりを、肩へ流れ落ちていくしたたりを見」ることになる。皮膚の白さと血の赤さの対照が生み出す官能、続いてそのアシスタントが身につける黒いドレスの下にあるであろう「ほかの包帯、ほかの傷を彼女の腰や脇腹や乳房の端に私たちは想像」する。その”しるし”をつけてほしいと観客たちは求める。
ナイフ投げ師は、『パラダイス・パーク』にもほんの少し登場している。1924年5月に炎上崩落するまでにその閉鎖された空間で繰り広げられた数々の幻想的なアミューズメントが語られている。
あまりの恐ろしさに客がヒステリーに陥ってすすり泣いたという<恐怖の館>、卑猥なポーズの裸体を映し出すびっくりハウス・ミラーなどをめぐる禍々しい報告。回転する円盤に縛りつけられたスパンコール衣装の女性の手首にナイフ投げ師がナイフを突き刺し、剣呑み男が喉から血まみれの剣を引き出す、煙に包まれたサイドショー。あまりにも過激なせいで卒倒する客や発狂する客まで出た乗り物の話、恐怖と恍惚の叫び声にあふれた<エロスの館>の話を我々は耳にする。心乱されるエロチックな展示品の並ぶ<快楽館>では、特製の装帯(ハーネス)をつけた女性客たちが、落とし戸を通って、大広間に据えられた長さ二十メートル近い透明なガラスの円柱のなかを落ちていく。
其外、美しい建築物を以て充たされた大市街や、猛獣毒蛇毒草の園や、噴泉や滝の流れや様々の水の遊戯を羅列した、しぶきと水煙の世界なども己に設計は出来ている。いつとはなく、それらの一つ一つの世界を夜毎の夢の様に見尽くして、旅人は最後に渦巻くオーロラと、むせ返る香気と、万花鏡の花園と、華麗な鳥類と、嬉戯する人間との夢幻の世界に這入るのだ。
前半の引用は『パラダイス・パーク』からだが、後半の引用は江戸川乱歩の『パノラマ島綺譚』からである。私がハウザーの一連の短篇を読んで、まっさきに連想したのが江戸川乱歩だった。単に幻想的というにとどまらず、芸術的な至高美を目指しながらも、内在する狂気のために目ざす楽園から逸れていってしまう二流の人々が描かれていると言う点で両者には共通するところがあるし、巨大な人工的構築物(広い意味で都市という構造)の中で夢を紡ぐというところにも相通じるものがある。訳者の指摘するとおり、この魅力は「吸血鬼に噛まれることに似ていて、いったんその魔法に感染してしまったら、健康を取り戻すことは不可能に近い」ものだ。しかしこの魅力にとりつかれたらもはや健康でなくてもいいというより”健全な”欲望を抑えることができなくなる。
『都市の詩学』(田中純著、東京大学出版会刊)を読む。
私たちの先人たちが住まい、そして今私たちが住まっている都市という生き物の無意識への階段を降りていくような試論集成である。本書の人名索引を見ると、ベンヤミンそして中井久夫、ギンズブルグが随所に引用されていることがわかる。これらの著作が重要であることが一目瞭然である。事実本書の跋に曰く、「ベンヤミンの都市論は、わたしにとって、つねにそこに立ち返りながら旅を続けるための母港のような場所で」あり、「海図もない航海を終始導いてくれたのが、中井久夫氏のテクストだった」と。そして第1章で登場する建築家アルド・ロッシの都市分析は、「類型を求めて自分の生を逆行しながら狩りをする狩人の知、カルロ・ギンスブルグの言う「徴候的な知」であり、いわゆる「セレンディピティ」による知であろう」と述べている。
都市を解読するために私たちは徴候を敏感に嗅ぎ取る狩人であることが要求されている。そしてここでテクストとしての都市を解読するために地霊(ゲニウス・ロキ)が召還されるのだ(第3章)。土地(という無意識)は言語として構造化されており、ここで使われる言葉は修辞学的なトポスと不可分である。
場所は、空間的なものであるにとどまらず、意味を産出し分節化する修辞学的な性格をもつ。ゲニウス・ロキとは、歴史的な経過によってさまざまな記憶が包蔵された、重層的な意味を産出する場にほかならない。
・・・響きにおいて感覚的なものを残す土地の名は、おのずと無意識の詩学に従う。無意識は修辞学を駆使する。そして無意識がなかでも愛好するのは人名や地名といた固有名の操作なのだ。
ここでフロイトのヘルツェコヴィナへの道中での有名なエピソードが引用されている。なるほどと思わず頷く。
そしてゲニウス・ロキが関わる「パトス的な記憶」(中村友二郎)が「徴候的な知」であると述べ、中井久夫が「観念は匂いに似ている」という洞察を引く。「都市に陶酔する遊歩者とは、そんな獣的官能を備えた巧みな発見者である」ならば、ベンヤミンが指摘しているようにパサージュを歩く遊歩者は、蜜の匂いに陶然となりつつ花の奥へと吸い込まれていく昆虫のように、都市の無意識の深奥へと誘惑され下降していく者たちに違いない。だから「遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ」。
彼らが歩くパサージュが一つの「ヴンダーカンマー」(=クンストカンマー;驚異の部屋)と見なしていたということが第12章で書かれていた。これはつい先日ヴンダーカンマーの本を見たばかりであったので、たいへん興味をそそられた。
陶酔状態で町を彷徨う遊歩者は、珍品奇物のような「驚異」としての街路風景や街路名との遭遇に驚き、その「驚異」に酔う術を知っていた。ベンヤミンがアジェの都市写真やシュルレアリスムに見ていたものも、「痙攣的」な美としての驚異だった。そのとき都市とは、驚きの対象を透明な記号に変換することで既知のものしか発見することのできない「驚異的占有」にいたる知ではない、別の知、別の経験の場でなければならなかった。
類稀なる嗅覚を備えた著者による都市の胎内への旅行記はとても刺激的である。
少し気になったのは、こうした都市というものが、現在人間の行動特性を先読みして設計したような建造物によって変貌しつつあるのではないかという点である。第14章では都市とアフォーダンスの関連が述べられているが、そうした人間のアフォーダンス特性を利用して、まったくごく自然な形である場所での滞留時間を短くしたり、人の流れをある場所へ誘導したりすることが可能である。そこでは陶酔して迷うことすら設計された想定範囲の行動となるはずだ。そうして設計された都市にはいったいどのような無意識が宿ることができるのだろうか。
それと以前読んだ『ベンヤミンの迷宮都市』(近森高明著)はもう一度読み返してみなければと感じた。
『欲望について』(ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳、白揚社刊)を読む。
著者は本書の末尾にある紹介ではオハイオ州デイトンにあるライト州立大学哲学科教授とあり、大学での欲望についてのセミナーがもとになり本書ができている。通読してみると心理学や進化学、宗教など周辺分野に広く目配りしながら人間の欲望について考察したものである。わかりやすく書かれてある反面、特定の領域に深く入り込むようなものはないので、その分野について特につっこんだ考察を求める人にはやや物足りない印象が残るだろう。欲望というとフロイトやラカンは避けて通れないところだが、このあたりの精神分析的な考察はあまりないのが残念だ。
それに対して欲望の生物学的基盤があることは是認しており、人間のつくる社会によって欲望が構成されたものだとはしていない。すなわち生存のために適した欲望-報酬機構が生得的に備わっており、進化的にみてそれがうまく作動したおかげで人間は今まで生存できていることを認めている。本書ではBIS(生物学的インセンティブ・システム)と名付けられている。このこと自体はただしいと思うが、この欲望のシステムは「人類が種として栄えることを可能にしたが、多くの場合、それは私たちを個人として幸福にはしなかった」と述べられており、淘汰が個体レベルで起きる現象であることの誤解があるようだ。あくまでもBIS(というものがあるとすれば)は個体の生存と子孫の繁殖に適したシステムであるはずだ。これによって個人が必ずしも幸福になっていないというのは、人間がBISによって得られる生存環境から大きく逸脱するような環境、そしてときにはBISにより獲得できる環境自体を否定するような環境さえも欲望できるように進化したためだからだろう。そして人間の欲望は、単に環境中のモノを欲望するだけでなく、欲望を欲望するという高階の欲望システムがあることが人間を悩ませることになったのだと思う。しかしおそらくこのことは、他者が何を考えているかを素早く察知し判断する神経回路が社会的生物としての人間の生存上不可欠だったからだろう。社会によって構成される欲望はまさにこの欲望の欲望システムであり、私たち人間にとって問題なのはこの欲望である。この二種類の欲望をもう少しきちんと区別して論じるべきではないだろうかという疑問が残る。
これは後半の欲望をいかに制御するかという問題、すなわちどう適度なところで満足すればいいのかを考える場合にも必要になる。古来さまざまな宗教は我欲を捨てることを説いているが、人間であるが故の欲望が、人間社会で生活するためのシステムである以上、それを捨てるためには当然世捨て人になるしかないだろう。この正解はないのであるが、BISとして備わっているからしかたがないというのが一つの達観というならば、それはちょっと早急な諦念だというべきだろう。