裁縫用品

「一方通行路」から

犯罪者を殺害することは、倫理的でありうる。だが、それを正当化することは、決して倫理的ではありえない。

すべての人間を養うのが神であり、すべての人間を栄養不良にするのが国家というものである。 

 『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)

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眼鏡店

「一方通行路」から

まなざしは、人間の残滓である。

  『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』(ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎編訳、久保哲司訳、ちくま学芸文庫)

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文章読本さん江

 『文章読本さん江』(斉藤美奈子著、ちくま文庫)を読む。
 いわゆる文章読本なるものは私も過去にいろいろと読んだ。この本で御三家(谷崎潤一郎、三島由紀夫、清水幾太郎)、新御三家(本田勝一、丸谷才一、井上ひさし)と称される面々である。文章読本が一般の文章のメタ解析であるならば、本書はそのメタメタ解析である。それによって何が暴かれるか。印刷された「プロの」文章を頂点にいただき、それを崇めるようにさせるヒエラルキーであり、それを支配する言説を生み出してきた男性中心の「サムライの帝国」である。
 本書で教えられたのは、一般向けに次々と著される文章読本が明治時代以降の日本語の国語教育の流れと密接な関係があったということである。数多ある文章読本の嚆矢にあげられることの多い谷崎本は、実用文と芸術文の区別を退け、思うことを率直に書くことを説いており、後続の類書から集中砲火を受けるのであるが、なぜそうした言説が出てきたかはそれまでの教育方法を読むとなるほどと理解できるのである。やはりさまざまな言説はそれがなされた歴史的コンテキストぬきでは語れないのだ。
 著者はこれらの読本の意識下に潜む貴族主義を指弾していく。一見芸術主義から遠いように見える本多の読本にもそれは見られるのだ(しかし本書は高校時代読んだが、修飾語や句読点の使い方など教えられることの多かった読本だった)。一言でいえば文章読本はパターナリズム的言説の最たるものなのだ。くだけていえば知的エリートたちのおせっかい本なのだ。
 最後に著者は「さまざまなる衣装」と題した章で、文章と服飾の共通点を述べ、「衣装も文章も、放っておけばかならず大衆化し、簡略化し、カジュアル化する」、「民主化に貢献するようなスタイルの変革は必ず「外部」と「下部」からやってくる」と指摘する。「文は人なり」のアンチテーゼであるが、服飾は着る人のセンスを反映するのは間違いない。
 ブログ開設者が十人に一人となったことが今日の朝刊で報道されていた。重複して開設している人もいるだろうが、今や誰もが「劇場型」の文章を書ける時代となった。ここに一定の枠をはめようとすることは不可能だろう。定型文を指導する文章読本は一定の需要がこれからもあるだろう。芸術的な文章を採集し、称揚して悦に入るという文章読本は「文章読本」というジャンルでは過去の遺物となるのだろうか。
 それにしても文章読本で引用される文章はいずれも「読みやすい」文章ばかりである。読みやすさを説いているのだから当たり前といえば当たり前だろうが、読んですらすらわかるような文章から作られた本なら読む価値はない。並みの言葉で言えないから表現は難解にものなる。それは決して悪文ではない。
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手袋

 動物に嫌悪を覚えるときに心を占めている感覚は、接触すると、こちらのことを見抜かれるのではないか、という不安である。自分のなかには何か、嫌悪を催させる動物と決して無縁でないもの、したがって動物に見抜かれるかもしれないものが生きているのではないか、という漠とした意識、それが人間の奥深くで恐れおののくのだ。-すべての嫌悪は、もとをたどれば、触れることに対する嫌悪である。この感情を抑えたときですら、実はたんに脈絡のない過剰な身振りをすることで、この感情を無視したというにすぎない。つまり嫌悪を催させるものが、この身振りに激しく絡みつき、それを平らげるであろう一方で、きわめてデリケートな表皮的接触の領域は、タブーでありつづける。そのようにしてのみ、道徳の矛盾した要求は満たされうる。つまり人間は、嫌悪感を克服することと、それをこの上なく洗練陶冶することを、同時に求められているのだ。生き物の呼びかけに対し、人間は嫌悪をもって答えるのだが、その生き物との獣的な血縁関係を否定することは、人間には許されていない。人間は自分を、その関係の支配者としなければならないのである。
                『ベンヤミン・コレクション3 記憶への旅』
                ヴァルター・ベンヤミン著、浅井健二郎訳、ちくま学芸文庫

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ナイフ投げ師

 『ナイフ投げ師』(スティーヴン・ミルハウザー著、柴田元幸訳、白水社刊)を読む。 
 1943年生まれのアメリカの作家でありながら、作風は幻想的である。巻末の解説によるとここに収められた作品は1990年代に発表された作品だというのが、ちょっと意外な感じである。
 この短編集の表題にもなっている『ナイフ投げ師』や、『パラダイス・パーク』には、見世物という大衆娯楽でありながら芸術的至高を目指す奇矯な人物が描かれている。ナイフ投げ師のヘンシュは、「彼なりのあり方で、一人の芸術家ではなかっただろうか? したがって、彼のやり口に眉をひそめ、下卑た見世物師として彼を蔑みながらも、その大胆さには私たちも感嘆させられた」という人物である。彼はナイフをアシスタントの体をわずかに傷つけるように投げる。そして「彼女の首筋に細い赤いしたたりを、肩へ流れ落ちていくしたたりを見」ることになる。皮膚の白さと血の赤さの対照が生み出す官能、続いてそのアシスタントが身につける黒いドレスの下にあるであろう「ほかの包帯、ほかの傷を彼女の腰や脇腹や乳房の端に私たちは想像」する。その”しるし”をつけてほしいと観客たちは求める。

 ナイフ投げ師は、『パラダイス・パーク』にもほんの少し登場している。1924年5月に炎上崩落するまでにその閉鎖された空間で繰り広げられた数々の幻想的なアミューズメントが語られている。

あまりの恐ろしさに客がヒステリーに陥ってすすり泣いたという<恐怖の館>、卑猥なポーズの裸体を映し出すびっくりハウス・ミラーなどをめぐる禍々しい報告。回転する円盤に縛りつけられたスパンコール衣装の女性の手首にナイフ投げ師がナイフを突き刺し、剣呑み男が喉から血まみれの剣を引き出す、煙に包まれたサイドショー。あまりにも過激なせいで卒倒する客や発狂する客まで出た乗り物の話、恐怖と恍惚の叫び声にあふれた<エロスの館>の話を我々は耳にする。心乱されるエロチックな展示品の並ぶ<快楽館>では、特製の装帯(ハーネス)をつけた女性客たちが、落とし戸を通って、大広間に据えられた長さ二十メートル近い透明なガラスの円柱のなかを落ちていく。

 其外、美しい建築物を以て充たされた大市街や、猛獣毒蛇毒草の園や、噴泉や滝の流れや様々の水の遊戯を羅列した、しぶきと水煙の世界なども己に設計は出来ている。いつとはなく、それらの一つ一つの世界を夜毎の夢の様に見尽くして、旅人は最後に渦巻くオーロラと、むせ返る香気と、万花鏡の花園と、華麗な鳥類と、嬉戯する人間との夢幻の世界に這入るのだ。

 前半の引用は『パラダイス・パーク』からだが、後半の引用は江戸川乱歩の『パノラマ島綺譚』からである。私がハウザーの一連の短篇を読んで、まっさきに連想したのが江戸川乱歩だった。単に幻想的というにとどまらず、芸術的な至高美を目指しながらも、内在する狂気のために目ざす楽園から逸れていってしまう二流の人々が描かれていると言う点で両者には共通するところがあるし、巨大な人工的構築物(広い意味で都市という構造)の中で夢を紡ぐというところにも相通じるものがある。訳者の指摘するとおり、この魅力は「吸血鬼に噛まれることに似ていて、いったんその魔法に感染してしまったら、健康を取り戻すことは不可能に近い」ものだ。しかしこの魅力にとりつかれたらもはや健康でなくてもいいというより”健全な”欲望を抑えることができなくなる。

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都市の詩学

 『都市の詩学』(田中純著、東京大学出版会刊)を読む。
 私たちの先人たちが住まい、そして今私たちが住まっている都市という生き物の無意識への階段を降りていくような試論集成である。本書の人名索引を見ると、ベンヤミンそして中井久夫、ギンズブルグが随所に引用されていることがわかる。これらの著作が重要であることが一目瞭然である。事実本書の跋に曰く、「ベンヤミンの都市論は、わたしにとって、つねにそこに立ち返りながら旅を続けるための母港のような場所で」あり、「海図もない航海を終始導いてくれたのが、中井久夫氏のテクストだった」と。そして第1章で登場する建築家アルド・ロッシの都市分析は、「類型を求めて自分の生を逆行しながら狩りをする狩人の知、カルロ・ギンスブルグの言う「徴候的な知」であり、いわゆる「セレンディピティ」による知であろう」と述べている。
 都市を解読するために私たちは徴候を敏感に嗅ぎ取る狩人であることが要求されている。そしてここでテクストとしての都市を解読するために地霊(ゲニウス・ロキ)が召還されるのだ(第3章)。土地(という無意識)は言語として構造化されており、ここで使われる言葉は修辞学的なトポスと不可分である。



場所は、空間的なものであるにとどまらず、意味を産出し分節化する修辞学的な性格をもつ。ゲニウス・ロキとは、歴史的な経過によってさまざまな記憶が包蔵された、重層的な意味を産出する場にほかならない。


・・・響きにおいて感覚的なものを残す土地の名は、おのずと無意識の詩学に従う。無意識は修辞学を駆使する。そして無意識がなかでも愛好するのは人名や地名といた固有名の操作なのだ。


ここでフロイトのヘルツェコヴィナへの道中での有名なエピソードが引用されている。なるほどと思わず頷く。


そしてゲニウス・ロキが関わる「パトス的な記憶」(中村友二郎)が「徴候的な知」であると述べ、中井久夫が「観念は匂いに似ている」という洞察を引く。「都市に陶酔する遊歩者とは、そんな獣的官能を備えた巧みな発見者である」ならば、ベンヤミンが指摘しているようにパサージュを歩く遊歩者は、蜜の匂いに陶然となりつつ花の奥へと吸い込まれていく昆虫のように、都市の無意識の深奥へと誘惑され下降していく者たちに違いない。だから「遊歩者にとってはどんな街路も急な下り坂なのだ」。
 彼らが歩くパサージュが一つの「ヴンダーカンマー」(=クンストカンマー;驚異の部屋)と見なしていたということが第12章で書かれていた。これはつい先日ヴンダーカンマーの本を見たばかりであったので、たいへん興味をそそられた。



 陶酔状態で町を彷徨う遊歩者は、珍品奇物のような「驚異」としての街路風景や街路名との遭遇に驚き、その「驚異」に酔う術を知っていた。ベンヤミンがアジェの都市写真やシュルレアリスムに見ていたものも、「痙攣的」な美としての驚異だった。そのとき都市とは、驚きの対象を透明な記号に変換することで既知のものしか発見することのできない「驚異的占有」にいたる知ではない、別の知、別の経験の場でなければならなかった。


類稀なる嗅覚を備えた著者による都市の胎内への旅行記はとても刺激的である。


少し気になったのは、こうした都市というものが、現在人間の行動特性を先読みして設計したような建造物によって変貌しつつあるのではないかという点である。第14章では都市とアフォーダンスの関連が述べられているが、そうした人間のアフォーダンス特性を利用して、まったくごく自然な形である場所での滞留時間を短くしたり、人の流れをある場所へ誘導したりすることが可能である。そこでは陶酔して迷うことすら設計された想定範囲の行動となるはずだ。そうして設計された都市にはいったいどのような無意識が宿ることができるのだろうか。

それと以前読んだ『ベンヤミンの迷宮都市』(近森高明著)はもう一度読み返してみなければと感じた。

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恥辱

 『恥辱』(J・M・クッツェー著、鴻巣友季子訳、早川書房刊)を読む。
 以前『マイケル・K』、『夷狄を待ちながら』が面白かったし、本書で二度目のブッカー賞を受賞したということもあり読んでみた。前二作とは異なり、フィクションの要素は影を潜め、リアリスティックな展開となっている。かつては現代文学の教授だったが、大学の合理化のため古典・現代文学部が閉鎖となりコミュニケーション学部の准教授に格下げとなった52歳の教授デヴィット・ラウリーが主人公である。離婚を2回している彼は性欲の処理に町で娼婦を相手にしていたが、聴講生に手を出し大学を追われる羽目になる。前半の三面記事にありそうな話は淡々と進み、続いて彼は娘ルーシーのもとに身を寄せる。そこで不本意な生活を黒人たちと送るうちに、ある日強盗傷害の被害にあう。同時に娘はレイプされる。
 当時の南アフリカ社会の暗部が描かれると同時に、その災難を力強く受けいれながらその土地で行き続ける娘との葛藤が描かれている。彼はそこで女性の獣医ベヴ・ショウの下で犬の屠殺に従事する。乾いたアフリカの空の下での性と死の日常がただ淡々と悪びれることなく描かれている。どこか割り切れてもいないし、悟りきれてもいない主人公は犬の屠殺という自分の仕事を続けていく。
 この小説は好き嫌いが分かれるだろう。私はどちらかというと前二作のような小説のほうが好きだ。ただ解決しなければならないが、どうしようもない社会の矛盾や人間の性(さが)をさらりと描いてみせながら重い読後感を確かに残す手法は小説としてさすがだといえよう。
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秘密の動物誌

 『秘密の動物誌』(ジョアン・フォンクベルタ、ペレ・フォルミゲーラ著、荒俣宏監修、管啓次郎訳、ちくま学芸文庫)を読む。以前筑摩書房から同名の題で刊行されていた本の文庫版である。謎の動物学者ペーター・アーマイゼンハウフェン博士が世界各地で写真に収め分析した珍獣の記録を紹介するという形の幻想動物誌である。
 有翼の蛙や像、多足の蛇、尾部が蛇となっている齧歯類、脚をもつ魚など驚嘆すべき動物たちの写真が掲載されている。その中には根室海峡で北海道の漁師たちに発見されたコック・バシロサウルスという恐竜の末裔のような生物もある。博士の友人である大阪大学の鹿鳴助教授は、この海洋生物を密かに保存していたという。なんとも楽しい幻想博物誌であるが、自然科学の体裁をとり写真で掲載されている(なんとX線写真まであるものもある)点が、いかにも現代らしい手のこんだ方法である。現在ならばさらにコンピュータグラフィックスを高度に駆使して、さらに”リアル”な珍獣を説得力のある形で提示できるに違いない。この珍妙な記述と写真を眺めながら、各時代によって、どのレベルの証拠(らしい)物件があると、その存在を他人に信用させることができるのかを考えてみるのも面白いだろう。現代人であれば、インターネットに写真つきで掲載されていればすぐに信用してしまうかもしれない。最近はメディアリテラシーなどといって安易に信用しないようにする教育がなされているようだが、基本的に相手を信じたいのが人間なのである。
 小さい頃未知の密林や絶海の孤島にはどれほど奇妙で恐ろしい生物が棲息しているかを紹介した本を読み、いたく感動した覚えがあるが、古代、中世ヨーロッパの珍獣譚から現代の怪獣にいたるまで未知の生物の存在に胸躍る興味を覚えるのは共通した心性のようだ。しかしこうした性向は(なぜかわからないが)一般的に男性のほうが強いようだ。これらの生物は、人間世界と縁のないところで密かに生活しているところが想像力を刺激する。これがあるとき人間の知るところとなり、捕獲されてしまうことは胸躍ることであると同時に秘密の世界の版図がまたひとつ狭くなったことを私たちに告げる。未確認生物の本体を知りたいと渇望しつつ、どこかで捕まらずに棲息していてほしいというアンビバレントな欲望があるかぎり、奇獣珍獣は生まれ続けるのかもしれない。
 偶然気づいたが、本書の中に登場するスカティナ・スカティナという謎の宇宙人のような生物は、この直前に読んだ『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』の巻末にある、ザルツブルク大聖堂博物館に収蔵されている奇妙な生物(おそらくエイの乾燥標本か)の写真とまったく同じであった。
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愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎

 『愉悦の蒐集 ヴンダーカンマーの謎』(小宮正安著、集英社新書ヴィジュアル版)を読む。
 博物館の成立に先立ち、十六世紀にヨーロッパに出現した個人の蒐集物展示場たる「驚異の部屋Wnnder Kammer」を紹介した本で、カラー写真が豊富に掲載されており、見るだけでも楽しめる趣向になっている。本書によるとその起源は十五世紀のイタリアでその後珍品収蔵庫の流行がアルプス以北に及んだとのことだ。博物学の世紀が「集めよ、そして分類せよ」というのが標語であったとすれば、この時期は「ひたすら集めよ」という時期だったといえよう。蒐集家の眼鏡にかなったものが集められているから、現在からみればそれらは雑多であり、見境のなさだけが目立つかもしれない。しかし幼小児期になにかモノを集めた経験がある人ならば、この楽しさは必ずわかるだろう。
 それにしても人間はどうしてこんな蒐集癖があるのだろう。おそらく見て驚くこと自体が脳の報酬系を刺激するという仕組みがいつのまにかできあがったからに違いない。そうでなければ、明らかに使用価値のないものを溜め込むということが説明できない。そしてさらに重要なのが、どんなに小さくても自分の世界を紡ぎだすという心性がそこにはある。蒐集したものに囲まれることの快感という、これまた独特の快楽がさらなる蒐集へと人を駆り立てる。あらゆるモノを蒐集することで、世界を俯瞰しようとする欲望と、蒐集したモノの宇宙の中に安住したいという欲望がこうしたヴンダーカンマーには感じられる。
 蒐集される対象が、自然科学や分類学が発達するにつれて生物、工芸品、美術品と切り分けられ、お互いの境界を超えることが否定的にとらえられるようになってからヴンダーカンマーは衰退していく。しかし蒐集する欲望は絶えることなく続いている。現在インターネットの世界でありとあらゆる対象がデジタルデータとしてさまざまな個人によって収蔵され、互いに閲覧できるようになっているが、これも現代の形をかえたヴンダーカンマーだといえよう。
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欲望について

 『欲望について』(ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳、白揚社刊)を読む。
 著者は本書の末尾にある紹介ではオハイオ州デイトンにあるライト州立大学哲学科教授とあり、大学での欲望についてのセミナーがもとになり本書ができている。通読してみると心理学や進化学、宗教など周辺分野に広く目配りしながら人間の欲望について考察したものである。わかりやすく書かれてある反面、特定の領域に深く入り込むようなものはないので、その分野について特につっこんだ考察を求める人にはやや物足りない印象が残るだろう。欲望というとフロイトやラカンは避けて通れないところだが、このあたりの精神分析的な考察はあまりないのが残念だ。
 それに対して欲望の生物学的基盤があることは是認しており、人間のつくる社会によって欲望が構成されたものだとはしていない。すなわち生存のために適した欲望-報酬機構が生得的に備わっており、進化的にみてそれがうまく作動したおかげで人間は今まで生存できていることを認めている。本書ではBIS(生物学的インセンティブ・システム)と名付けられている。このこと自体はただしいと思うが、この欲望のシステムは「人類が種として栄えることを可能にしたが、多くの場合、それは私たちを個人として幸福にはしなかった」と述べられており、淘汰が個体レベルで起きる現象であることの誤解があるようだ。あくまでもBIS(というものがあるとすれば)は個体の生存と子孫の繁殖に適したシステムであるはずだ。これによって個人が必ずしも幸福になっていないというのは、人間がBISによって得られる生存環境から大きく逸脱するような環境、そしてときにはBISにより獲得できる環境自体を否定するような環境さえも欲望できるように進化したためだからだろう。そして人間の欲望は、単に環境中のモノを欲望するだけでなく、欲望を欲望するという高階の欲望システムがあることが人間を悩ませることになったのだと思う。しかしおそらくこのことは、他者が何を考えているかを素早く察知し判断する神経回路が社会的生物としての人間の生存上不可欠だったからだろう。社会によって構成される欲望はまさにこの欲望の欲望システムであり、私たち人間にとって問題なのはこの欲望である。この二種類の欲望をもう少しきちんと区別して論じるべきではないだろうかという疑問が残る。
 これは後半の欲望をいかに制御するかという問題、すなわちどう適度なところで満足すればいいのかを考える場合にも必要になる。古来さまざまな宗教は我欲を捨てることを説いているが、人間であるが故の欲望が、人間社会で生活するためのシステムである以上、それを捨てるためには当然世捨て人になるしかないだろう。この正解はないのであるが、BISとして備わっているからしかたがないというのが一つの達観というならば、それはちょっと早急な諦念だというべきだろう。

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