烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

辞書の政治学

2006-04-29 23:30:17 | 本:社会
 『辞書の政治学』(安田敏朗著、平凡社刊)を読みつつある。辞書編纂作業とその底にあるナショナリズムとの関係を論じるものかと思っていたが、それほど単線的な書物ではない。もちろん西欧諸国と比肩できる国家にならんとする日本の国家的事業として辞書編纂作業を捉える立場もあるが、これは辞書編纂を企画立案した人の立場であり、実際に辞書編纂作業を行った人はそうした思いとはほとんど無縁であったことを教えてくれる。
 また辞書を作る立場と使う立場でも辞書に対してとる態度が異なり、これは文化国家の証としての辞書と読み書きのときに使う字引としての辞書の差となって現れる。まあわが国の自動車技術の水準を内外に示す自動車と日々乗り回すための自動車とはおのずと性能も価格も異なり、一般国民がふつう必要とするのは後者であるというのと似たようなものであろう。辞書というものを普通一家に最低一冊はあるもので、それがないことは恥ずべきことであると言う意識を一般に浸透させることに辞書の政治力学が作用していることを本書は示しいてる。複眼的な論考になっていて、読んでいて飽きさせない。
 その中に辞書の項目を配列する際に、イロハ順や意義分類が混在した状態から五十音順に切り替えられたことが紹介されている。大槻文彦編纂の『言海』のエピソードであるが、福沢諭吉はその配列を見て、難色を示したという。この五十音順という配列は、西欧であればアルファベット順ということであり、著者はピーター・バークの『知識の社会史』の考察を引用し、「位階秩序的で有機的構造をもった世界という世界観から、個人主義的で平等主義的な世界観への転換」とある意味通じるところもあるだろうと示唆している。互いに関係しない項目が隣接して網羅的に配列されているという体裁が辞書の辞書らしさを生み出すということである。それにしてもバークが、十七世紀に百科事典の編成がアルファベット順になっていくことが一般に受容されたのは、「ある敗北感からだったように思われる。すなわち、新しい知識があまりにも急速に体型のなかに入ってきて消化も整理もできないような時代において、知的なエントロピーの力に対して人びとが抱いた敗北感であった」と論じている引用には興味をひかれた。インターネットの時代になり、テキストからハイパーテキストになり、五十音順に単線的に羅列されるだけでなく、ある項目からさらに別の項目のテキストへと移動する立体的なこのテキストは、まさに情報を消化も整理もできない時代にぴったりなテキストであろう。