思考のトポス

 『思考のトポス 現代哲学のアポリアから』(中山元著、新曜社刊)を読む。現代哲学の海の中からキーワードを選び、それぞれに短評が書かれている。
 この中で目に留まったキーワードに「確率論的理性」があった。様々な場面で使用される用語であるが、著者の指摘するように「人間の有限性が、逆に人間の能力の可能性の基礎になるというカント的な視点が、確率の概念の根柢に存在する」。未来を見通すことができない存在である人間が、未来を敢えて語るときに確率という概念は欠かせない。
 元来理性を意味するラチオratioは、「計算する」ということであったのだから、理性の働きを未来に向けるときには起こるべき確率を計算することは必然的なことだといえる。これは現在さかんに言われているリスク管理に直結する。この節でも論じられているが、統計的確率概念はリスク管理と密接な関係がある。というかリスク管理のために生み出されたのが統計的概念であるといえる。パスカルはこれに基づいて神への信仰を説いた。
 だが統計的概念から導出される規範(ノルム)という概念は、著者も指摘しているように、「本質性の概念も正常性の概念も含まれない」。個体を母集団から抽出して最も高頻度に認められる属性がその集団の規範となる。したがってここでいわれる「正常性」には「正しさ」という概念はない。にもかかわらず私たちは統計的「正常さ」にこだわり、統計的に平均であるとされることの中に「正常さ」をついつい読み込んでしまう。進化論的な言説は、ある個体の性質(形質)が生存に有利であるからこそ広く集団中に広まると説き、広く認められる性質には生物学的根拠があると主張する。これはこれで言説としては正しいのであるが、集団中に広まっている性質には「正しさ」はないのである。ここを履き違えてしまうと、遺伝か環境かという不毛な議論がますます混迷を深めることになる。集団中に少ない性質であっても、そこに積極的な価値を認めることこそ人間が社会を形作る上でたいせつなことであろう。
 平均から外れること、すなわち偏差が大きいことに対しては、しかしながら人間は両極端に相反する評価をしてしまう。ある一方の偏差について積極的評価すなわち賞賛が与えられるときには、自動的に反対の偏差には否定的評価を下してしまう。あるものが良ければ、自動的に反対側は悪いものとされる。「勝ち組」に対する「負け組」、「改革派」に対する「守旧派」など浅薄な価値評価の例には事欠かないし、ほとんどの場合もう一方の極端は否定のラベルを貼られてしまう。二項対立的思考法というのは、人間の認識方法として抜け出せない枠組みだと思うが、その限界はおそらくその枠組み自体にあるのではなく、価値づけが批判的に論ぜられることなくなされてしまうことにある。ある一方に気に入ったところを見つけると短絡的にその反対のものを拒絶する、これはこどもの考え方であり、大人になってからこういうことをしていると、最初のうちは面白がられても、最後には愚か者とみなされる。こうした思考法の持ち主が集団のリーダーである不幸は計り知れない。一方の偏差をリスクととらえ、それを排除する際には多くの価値のあるものも同時に排除されていることがあるということに、私たちはもっと敏感で繊細な感性をもっておかねばならない。それはあるリスクを敢えて許容する、あるリスクに対して寛容であることを意味する。大人の覚悟が必要なのだ。

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カントの哲学

 『カントの哲学 シニシズムを超えて』(池田雄一著、河出書房新社刊)を読む。冒頭に書かれてあるようにシニシズムに対するオルタナティブを模索するために、カントの三批判書を読むというものである。アウシュビッツのあとの哲学の屋台骨が崩壊した状況から現代哲学は立ち上がり、そして9.11テロを迎えた今日、シニシズムを克服することは可能なのだろうか。以下はこの著書を読んでの私の勝手で断片的な感想であるから、内容の要約にはなっていなことを予めお断りしておく。
 理性を構成的に使用するところからさまざまなアンチノミーが出来することを著者はまず提示する。そこでオースティンの言語行為論を援用しつつ、「事実確認的」言説を構成的に使用していくことの限界を指摘する。オウム真理教の疑似科学的言説は、事実確認的な言説で世界を説明し尽くそうというところからくる妄想であると診断している。果たして本当にそうか。
 著者の指摘するように、事実確認的言説は、それを発言した人に対して真偽の根拠を明らかにするように要請することが許されているものである。そして共有されている認識にもとづいて真偽の判定ができうる言説である。これに対置されている行為執行的言説は、発言することにより行為をなすような言説であり、これには「因果的な根拠の説明が排除されて」おり、まさにそのことによって言説の有効性が担保されている言説である。議長が「これで閉会にします」と宣言するとき、神父が「汝らを夫婦と認めます」と宣言する時、その言説に対して、根拠を問うことは禁じられている。言うならばその発言の当事者が「根拠」である。著者は、科学的言説は事実確認的言説であり、これによる一元化の暴走がオウム真理教のような事件を起こしたと述べているが、上述の議論からすれば、事実確認的言説が不足していることがそうした狂信的な凶行を招いたと言わざるをえない。カルト集団などの言説は、教祖などのカリスマの言説を無条件に、行為執行的言説と崇め、事実確認的言説を禁じてしまうことにより成り立つものである。科学的言説は、あくまでも事実確認的言説に開かれており、その土台で反証可能性を認めている。著者の述べているように「あらゆる言説が事実確認的言説に一元化されるということは、したがって科学的な言説からの逸脱を意味する」ことにはならないのである。反証可能性と反事実的仮定との混同がここに見られる。科学的な言説が白黒をはっきりさせるものだという誤解があるようだが、一般的にいって科学的言説の多くは統計的確率的言説であり、ある条件の下でこれこれの確率である現象が認められるということを述べるものだ。この点は明確にしておく必要があろう。


 続く章では、ラカニアンであるジジェクとジュバンチッチを引用して精神分析からみた倫理について触れている。自らの欲望をあきらめないことが精神分析的にみた倫理の根本だとされるのだが、これがカントの理性と底でつながっている。理性の統制的使用によりつくりだされる「理念」こそは、純粋な想像の産物であり、経験とは無関係に導出される。「君の意志の格律がいつでも同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」という実践理性の第一法則は、いっさいの経験と関係ない。この理性の命法は、精神分析的にいうと欲動の「汝享楽せよ」という行為遂行的命令なのである。カントとサドの共通性については、つとにラカンが指摘しているが、純粋理性と欲動は表裏一体であることの指摘は現代の倫理を考える上で重要である。


 最後の章では、人間の心という概念を構成的に語るのか、理念として統制的に使用するのかということが問題とされている。心を科学的に、構成的に語るということに著者は否定的であるように見えるが、ここでも「単純化していえば、(中略)人間の初期設定は遺伝子によるものか、あるいは学習や文化や制度によるものか、ということだ」と述べられており、遺伝と環境の悪しき二分法が顔を出している。ところどころに出てくる単純化しすぎた二分法が私には大変気になった。人間の自由を論じるうえでこうした二分法はかえって視野を狭くしてしまうものではないだろうか。
 現代の倫理を構築する上で、理念は欠かせないと私も思う。経験とは無関係なところで前提とされる「命法」が、人がお互いに助け合って生きていく上では欠かせないことは確かである。それに対するシニシズムにどのように敢えて然りを言うのか、これが問題である。

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哲学者は何を考えているのか2

 『哲学者は何を考えているのか』の後半部分は、実在論と反実在論についてのインタヴューが並ぶ。その中でジョン・サールは、「外在的実在論external realism」と呼ぶ見解を擁護することに専念していると述べている。これは、私たちの知覚・思考・感覚・態度とは独立に現実世界が存在するという考えである。至極常識的な発想であるが、サールは「決して常識に訴えているのでは」なく、「私たちとは独立に存在する実在が存在するということ」を「背景的前提」とするということである。私たちはこうした前提なしには対話をすることすらおぼつかなくなるから、一般に行っている対話が意味のあるものならば、すでにその前提を受け容れているという超越論的論証である。その論証の返す刀で遠近法主義perspectivismを切り捨てる。「遠近法主義を主張する連中は、あらゆる知識は、ある特定の視点から見たものであるという自明の事実から、それゆえ、ただ存在するのは視点の取り方のみであるという結論を導くという、明白な過ちを犯していると私は思います。それは誤謬推理です」。
 確かに私たちがこの世界に住んで周りの人たちとコミュニケートしているという事実には、疑うことのできない、疑うこと自体が意味を成さない「基盤」というものがある。この外在的基盤には、さまざまな物理的生物学的諸条件が含まれるに違いないが、それらはあくまで条件である。その上に成立する意味の世界こそが問題であろう。サールが例にとりあげているように、塀と境界線とのあいだには大きな存在論的差異がある。境界線は、地面に引かれた一本の線であると同時にそれを設定する権限のある者によって宣言されてこそ初めて成立するものだからだ。遠近法主義者は、幾何学的直線の存在を云々しているのではなく、その成立を宣言する力の意味について論じているのだと私は思う。だからサールのように「明白な過ち」と簡単に切り捨てるわけにはいかないだろう。
 あるものについて論じる場合に少なくともそのものが何を指示するかがはっきりしないと論じようがない。そのものが成り立つ物理的基盤の実在性とは別に、そのものがどのような本質をもっているか(どのようにして私たちはそのものを知るか)ということは、私たちの思考と独立しているわけではなく、私たちがそのものに与える意味づけによって変わりうるはずだ。

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哲学者は何を考えているのか

 梅雨前線の活動も本格化して高温多湿の環境となり、本の読みづらい季節になった(おまけに仕事も忙しいし)。
 『哲学者は何を考えているのか』(ジュリアン・バジーニ、ジェレミー・スタンルーム編、松本俊吉訳)を書店で手に取り、目次を眺めると掲載されている「哲学者」の中にヘレナ・クローニンやリチャード・ドーキンスが目に留まった。これは編集方針が面白いかもと思い、即購入した。
 第一部は「ダーウィンの遺産」と題され、主に社会生物学、進化心理学から見た人間論について各論者に対するインタヴューの要旨が書かれている。インタヴュー記事にありがちな冗長な点もなくコンパクトで読みやすい。以下四人の論客の発言について、私なりに重要だと感じた発言の抜粋を記す。
1.ピーター・シンガー(ダーウィンと倫理)
進化論的事実からだけでは、倫理的な規範を導き出すことはできないのではないかとい批判に対するコメントとして。
「ダーウィン的に説明にできるのは、どの規範がうまくいき、どの規範が多くの[本能的]抵抗に遭うだろうかという点に、私たちの注意を促してくれるということであり、倫理的規範の策定にあたって、その点をわたしたちは心に留めておく必要があると私は考えています。けれども、私たちにとって重要な倫理的価値と、人間本性における進化した傾向性の強さとのあいだには、常にトレード・オフの関係があるのだということは認めねばなりません」。
2.ジャネット・ラドクリフ・リチャーズ(ダーウィン、自然、人間の思い上がり)
ダーウィン以降「自然性」に訴える議論は失効してしまっているという見解に関連して。
「私たちは、自然なものに干渉することは危険であるという、深く染み付いたものの考え方を身につけているようです。例えばそれは、神を演ずることに対する異議申し立てなどに現れています。けれども、そもそも私たちが干渉することができるのは、あらかじめ目的を有した、もしくはある一定の方向に進むべく意図された、何ものかに対してでしかありません。それに対してダーウィン的自然は、全体としてある一定の方向に進むべく意図されたものではなく、ただ単に生起するものにすぎないのです。ですから[現在与えられている自然のあり方が必ずしも最良のものであるという保証はないわけで]、もし自然が他の道筋を取っていたとしたら、物事はいまよりずっとよくなっていたかもしれない、と考えることもできるのです。もっとも、いまより悪くなっていた可能性も同じくらいありますが」。
3.ヘレナ・クローニン(進化心理学)
社会形成理論に対する反論として。
「ところで、ここにはひとつの皮肉な結果がともなっています。社会形成理論を『遺伝的決定論』に対する防波堤として唱えている人々は、実質的に-もしそれがうまくいけばの話ですが-度を越した『環境決定論』につながるような立場を採用しています。そうなると、子供たちは大人の操り人形となり、女性は家父長制社会の操り人形となり、人々はみな『メディア・メッセージ』や広告や言語的情報操作の操り人形となってしまうことになります。もっと言えば、いかなる人の心も、可能生としては、任意の他者によって操作されうる対象だということになってしまうでしょう」。
4.リチャード・ドーキンス(遺伝子と決定論)
「遺伝的」という用語を関することの意味について。
「それは、複雑な因果連鎖の網状構造の形成に、統計的に寄与しているだけなのです。そして自然選択が起こるためには、それで十分なのです。ダーウィニストが遺伝子について頻繁に語りたがるただひとつの理由は、ダーウィニズムのプログラムを遂行するには、生物集団における個体変異のなかで遺伝子の影響下にあるものに着目しなければならないということなのです。ですから*、私たちは決定論について語っているのではありません。私たちが語っているのは、統計的データであり、分散分析法であり、遺伝率なのです」。
*「ですから」というのはおかしな言葉で「だから」が正しいのだが、ここはそのまま掲載。

各論者の論点とも至極もっともな点であり、特に最後のドーキンスがいうように、「遺伝的」ということが「統計学的概念」だということは、社会的な合意を形成していく上でたいへん重要なことだ。義務教育で「統計学」はともかく「統計学的考え方」は絶対教えておくべきだと思うが、実際は簡単になるばかりでとうてい望めそうにない。
それにしても社会生物学的発言に対して、おかしな誤解をして反論する人々のどこに原因があるのかと尋ねられて、
「うーん、それは私にはわかりません。おそらくある種の人々にとっては、単に、人間の問題に根本的に興味を持っていない者がいるということが、想像の範囲を超えているのでしょう。それで彼らは、私たちが語る事柄はすべて人間にとって何らかの意義を有しているに違いないとか、少なくとも、そのように意図されているに違いないと、想定するのでしょう。彼らは単に、進化論それ自体に、人間とはほとんど無関係かもしれないけれども、問うに値する興味深い問題があるのだということを理解できないのです」。
と答えている箇所は、「本音」が漏れているようで苦笑してしまった。
まだ読書途中の本であるが、推薦できる本である。

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脳の活性化

 最近は「脳を活性化する」ことがブームらしい。知能テストやら計算問題とかを解いて脳を活性化することが体に、いや脳にいいことらしい。MRI技術の進歩などで、特定の作業を行ったときに脳のどの部位の代謝が活発になるのかがより詳細に分かってきた、すなわちより視覚的に理解することが可能になったことで脳に対する理解がよりポピュラーになったことがブームの一因ではないかと思う。小学生の頃にやったような問題を行うことの意義についてどの程度検証されているのか寡聞にして知らないが、physicalな譬えでいえば、普段使っていない筋肉を使うとその筋肉の衰えを予防できますよという程度のものだろう。しかし話がmentalなレベルになると、とても意味のあることだと受け取られるようだ。
 こつこつと筋力トレーニングをすることは、目にも留まらない剛速球を鮮やかに打ち返す技術の基礎となるのは間違いないが、そうしたトレーニングだけではいつまでたっても好打者は生まれないことも明らかである。知能テストレベルの問題を何問も繰り返し解いたところで、そうした問題に対する解答の習熟度は上がるだろうが、それで人生において遭遇する問題に対する解決ができるようになるわけではないことと同様である。筋力トレーニング用のバーベルを使っていれば、いずれスポーツ万能となるように宣伝しているとすると、それは詐欺というものだろう。同様にクイズのような問題で、脳が「活性化」して「若返る」とか、ひいては驚くほど仕事のスキルが上がるように謳っているとすればほとんど詐欺に近いだろう。仮にそうした望ましい結果が得られなかった場合でも、その個人の「脳の不具合」のせいにされてしまうであろうからより悪質である。
 神経細胞が活動すれば脳の局所の代謝が上がることは、筋肉を動かせばそこの代謝が上がることと同じく当然のことである。それを「活性化」と称してあたかもそれで「頭がよくなる」ように表現するのは、不当表示に値する。そうした表示が欺瞞であろうことを推察するような頭になるようにすることがより意味のある頭の使い方であろう。
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西洋哲学史2

昨日に引き続き『西洋哲学史』を読む。第13章にエウリゲナの『ペリフュセオン』が引用されている。



自然を分割すると、四つの差異によって、四つの種に分割することができると思われる。その最初の種は創造し創造されないもの、第二の種は創造され創造するもの、第三の種は創造され創造しないもの、第四の種は創造せず創造されないものである。この四つの種のうちふたつの種は、相互に対立している。つまり第三の種は第一の種と、第四の種は第二の種と対立する。けれども第四の種は、それが存在することがありえない不可能なことがらに属しているのである。


ここで第一の種は、神であり、第二のものは、神の知性のうちにあるいっさいの原型、第三の種は被造物の世界、そして第四の種は神である。ここでエウリゲナが主張するところによれば、第一の自然から発して第二の自然、さらに第三の自然へと下り(カタファティケー)その中に神のはたらきを見るのが「肯定神学theologia positiva」で、そこからさらに第四の自然へと遡る(アポファティケー)行程が「否定神学theologia negatigva」である。この下降と上昇の運動で閉じられる円環運動が神をみる思考の運動である。この後半の過程は、非合理的な過程の臭いがあり啓蒙時代以降は評判が悪い。神秘的とされたものについては、「否定神学」のレッテルが貼られるのだ。しかし当時は決して今のような「神秘的=非合理的」とされる意味合いはなかったようだ。認識の側面を考える際に認識することから漏れてしまうものがあることをこの表現は、教えてくれる点で重要だと私には思われる。時代はずっと下るがラカンの欲望の理論において決して象徴化されない欲望というものの存在というのは、この思考法に通じるところがあるように思われるのだがどうだろうか。

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西洋哲学史

 『西洋哲学史』(熊野純彦著、岩波新書)を読む。岩波新書新赤版が一千点を超えたのを機に表紙を新しくしての「新書」7点目すなわち1007番である。西洋哲学史であるから、お約束のように話はタレスから始まる。タレスは万物の始まりは水であると説いたが、西洋哲学史もおしなべて始まりはタレスである。しかし歴史は誰が書くかによってそれぞれに違う。譜面は同じでも演奏する指揮者によって奏でられる楽曲が違うように。だから哲学史と名のつく本が出るたびに、買ってしまう。
 時間という大きな流れの中で、さまざまな哲学者たちがあるときは互いに影響を及ぼしあい、またはほとんど影響を及ぼしあうこともなくそれぞれの哲学を紡ぎだす。後世の哲学史家は、その中に微かな響きあいと影を発見し私たちに示してくれる。どの相違点を強調し、どの共通点を際立たせるかが興味あるところである。
 哲学という営みは、置かれた境遇が違えば異なるともいえるし、同じだともいえる。誰が思考しても同じような結論に至るべく、すなわち真理を探究すべく営まれる哲学が実にさまざなな多様性を結果として生み出す。実に面白いことだ。
 ストア主義哲学とフーコー、プロティノスとベルクソン、アウグスティヌスとウィトゲンシュタインなど時空を超えたところに接点を見出すときに哲学史を読む醍醐味がある。
 それにしてもタレスである。始まりはいつも誰あろうタレス。万物の始原を共同体の神話によらない原理で説明したことで名を残している。万物を神々の御技で説明することと、水で説明することでどちらが当時彼らの共同体においてより有意義であったかよく分からない。しかしタレスは幾何学や天文に通じていたということだから、その技術を応用しての測地や天体運動観測は、後知恵的要素の強い御宣託に比べれば、再現性・予測性においてはるかに優れていたであろうことは想像に難くない。諸条件が異なっていても一定の再現性・予測性を保証してくれる物が原理であり、この世界にはそういう性質のものが存在するのだということを確言したことが彼の卓抜な点であろう。そういう性質のものが水であろうがそれはおそらく重要ではない。まず第一に「在るもの」と「在らしめるもの」は違うこと、そして第二に「在らしめるもの」には私たちが予見可能な一定の秩序があるのだということをタレスは私に教えてくれた。第一の点だけならば「在らしめるもの」は神だという彼のまわりにあった宗教と違いは特にない。しかし第二の点が重要で、「在らしめるもの」の原理に私たちは盲目的に従わざるを得ないのではなく、知性を使えば予測ができるのだということを彼は教えてくれた。現代でもわけのわからない占い師の御宣託がはびこっているくらいだから、やはり哲学史の最初に位置すべき哲学者であろう。
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神々の食


言い伝えによれば、「遠い昔、人間と神々は、同じ食卓につき、同じ食物を食べていたのだが、過ちと堕落がその後、両者の食卓を分け、食物も違えることになった」のである。(『食の歴史 I』)


『食の歴史 I』にこう書かれてあったが、食物を分かち合い共に食べることの中にこそ神が宿っていたのではないか。そんな思いを『神々の食』(池澤夏樹著、文春文庫)を読んで思った。三年前に出た時に買おうかと思っていたのが、そのままになっていたこの本が文庫化されたのをきっかけに今回購入した。
 かつて沖縄に在住していた池澤氏が沖縄独特の食を題材に書いたエッセーで、各章ごとにその写真(垂見健吾撮影)が掲げられている。その写真を見ながら文章を読むたびに唾液が湧き、胃袋が動くのがわかるのだが、そのエッセーの中に「共に食べる」という章があり、



今、食べるというのは食物を口に運んで、さっさと満腹することでしかない。味のほうは世間がうまいというものがうまいもの、誰もが大勢に従う。要するに他人まかせでお手軽なのだ。


と書かれてある。そう、今はどれがうまいものかを決めるのは他人の情報なのだ。誰もが自分の舌に自信がない。舌はすでに自分自身のものでなくなっている。本来もっとも個人的な感覚であるべきである味覚という感覚を自分のものとして飼いならせなくなっていることは実に悲しい。
 「これ、うまいよ」と勧めてみても、「誰がそういってるの?」と聞き返されたりする。ここにはすでに「共に食べる」という交流は失われている。勧められたものを黙って口に入れて自分の味覚を研ぎ澄まして咀嚼すること。必要なのは今まで自分が口に入れて味わったものたちの記憶であり、他人の書いたものではない(というとこの食のエッセーも実際沖縄のものを食べる時には不要ということになるが)。その時、その場所で食事をすることが、今までの自分の食の体験を変えてくれるならば、これに過ぎる快楽はないだろう。そしてその時同じ経験をする仲間が一緒にいればこれに過ぎる至福はないだろう。その時の経験はもう二度とは味わえない「最後の」餐となる。まさにこの至福の時にその食材の中に神が降誕すると言っては言いすぎだろうか。
 空腹を満たすためだけに食物を胃袋に放り込む。短時間で効率的に栄養学的に満点の食品を摂取する。前者はじゅうぶん動物的であり、後者はじゅうぶん機械的である。満腹にならなくても、栄養学的に不十分でも、あなたと一緒に食べることで私は人間になれるのだ。

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漱石と不愉快なロンドン

 『漱石と不愉快なロンドン』(出口保夫著、柏書房刊)を読む。著者のあとがきによると1982年に河出書房新社から発刊された『ロンドンの夏目漱石』を大幅に加筆修正したものとのこと。その参考文献の一つに以前読んだ『夏目金之助 ロンドンに狂せり』(末延芳晴著、青土社刊)があると書かれていたので、購入して読んだ。
 ロンドン留学中の漱石の足跡を追いつつ、在英中に彼の文学に対する態度がどのように変わっていったかを丁寧に追っている。そのときどきのロンドンの天候の記述が詳しく書かれてある。確かに天候というものは、人のその時々の感じ方に大きく影響する。まして異国に一人留学している身であれば、濃霧と曇天のロンドンは神経質な夏目金之助の感性を左右したであろう。1901年元旦から五日間ロンドンは濃霧に覆われたようで、彼の日記には「気味悪キ」現象と書かれている。彼が遭遇した始めてのロンドンでの濃霧であった。日本にいればお目出度い元旦であるところが、それを祝う風習もないロンドンで年の初めから濃霧というのであれば、気も滅入るだろう。彼の「神経病」とロンドンの日照時間の短さとの関連はうつ病のあるものは、その症状が日照時間の短さとも関係しているから重要な指摘であると思う。

 この本の中では夏目金之助が文学的な話題について語ることのできる下宿環境を求めていたことも一つのポイントとして書かれている。



・・・我下宿の妻君が生意気な事を云ふのも別段あいてにする必要はないが、同じ英国へ来た位なら今少し学問のある話せる人の家に居つて、汚ない狭いは苦にならないから、どうか朝夕交際がして見たい。かう云ふ希望があるから、へー行きましようとは答へなかつた。(『倫敦消息』)


 まあ日本を代表する留学生として派遣されてはいても所詮は留学生の身分であるし、家賃を切り詰めているのだから、この望みはやや高望みにすぎるといわれても仕方がないかもしれない。朝食の席上でシェークスピアやキーツを下宿の女将さんと語りあうというのは、日本でいえば味噌汁をすすりながら井原西鶴や近松門左衛門を語るという感覚だろうから、これが可能な下宿を探すというのはかなり難しいだろう。
 こういう状況下でドイツからロンドンに来た同じ留学生の池田菊苗の存在は大きかったようで、彼と哲学や文学、歴史、宗教のことを語り合うことで、「幽霊の様な」文学鑑賞から英文学の体系的研究に向かう契機となったことが書かれている。



・・・池田菊苗君が独乙から来て、自分の下宿へ留つた。池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であつたには驚いた。大分議論をやつて大分やられた事を今に記憶してゐる。倫敦で池田君に逢つたのは、自分には大変な利益であつた。御蔭で幽霊の様な文学をやめて、もつと組織だつたどつしりした研究をやらうと思ひ始めた。


「漱石がさうしなければゐられない心の状態に到達してゐたから、さうなつたまでで、仮令池田の刺激がなかつたとしても、漱石の内で醗酵してゐたものは、早晩かういふ形をとつて、流れ出たにちがひない」という小宮豊隆という人の評言も引かれているが、これはものごとの転機となる「きっかけ」の重要性を軽く見すぎていると思う。啐啄の機ということばがあるが、機は熟していても外在的な契機の到来がなければしぼんで萎えてしまう動機もあるのだ。文学というつかみどころのない相手に苦戦していた金之助にとって、実験化学というソリッドなものを相手にする菊苗との議論は確実に彼の研究方向を変えたものであったに違いない。

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龍宮

『龍宮』(川上弘美著、文藝春秋刊)を読む。川上弘美のこの小説に登場する人物はいずれも変わっている。異物である。ただしまったくの異物かというとそうではない。どこか自分の臍帯とつながっているのではないかと思わせる、そんな登場人物である。自分の中に棲息している小さな異物がある形をとって外界に現れ出でたる容姿が、かつて蛸であった人間であり高齢の狐であり、膝丈までしかない老婆である。変わった人種たちと完全に一体化はできないものの、不思議な交流がありどことなく親近感を覚える日々の生活がある。



「ひいばあさん、あなたはほんとうはここにはいないものでしょう」私が聞くと、イトはうなずいた。
「いないよ」
「それじゃ、どうしてここにいるの」
「あんたが呼んだんじゃないか」イトは静かに言った。
「私が、呼んだんでしたっけ」私も静かに聞き返した
そうだよ。
でも、どうして。
知らないよ。あたしは何も知らずに生きて、何も知らずに死んだだけだからね。かわいそうに。
私が言ったとたんに、イトはおんおん泣き出した。
(中略)
妙なものにかかずらっわってしまった。妙なものは、私の乳にとりつき、赤子のごとくに強く吸う。泣きながら強く吸う。私は妙なものが不憫で、どんどん吸わせる。妙なものが愛しく、どんどん吸わせる。私はイトを乳にとりつかせたまま、東に向かって歩きはじめた。


私の中にかつてありながら、今はすでに失っているもの。失ったということも忘れてしまっているものが奇妙な容姿をまとって現前化する。これが彼女の著す「私」の対話の相手である。

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