文学的商品学

 『文学的商品学』(斉藤美奈子著、文春文庫)を読む。
 文学作品に描かれるさまざまなモノをそれを消費する立場に普段立っている読者の視点から見つめ、小説を論じるという文学論(または商品論)である。冒頭には「商品情報を読むように小説を読んでみよう」というちょっと変わったしかし十分挑戦的な読みを読者に勧めている。ここで俎上に載せられる作品は、もはや作者のテクストではなく、読者のテクストである。小説を読むと否応なく気づくところだが、ディテールというのは特に作品のリアリティに寄与している。構成や筋書きがしっかりしていてもここで失敗すると急に読書欲が殺がれてしまう。著者も指摘するように「神は細部に宿り給う」のである。こうした細部=ディテールがよくできている部分は、それを鑑賞するに骨董を愛でるようにして楽しむフェティッシュなやり方が楽しくもあり、私的にはそれで十分でもあるのだが、ここで作者は描かれた細部で串刺しして同じ商品が登場する作品を一気に読者の前に曝しだして、論じまくる。これは解剖台の上で一つの作品を分析するという方法とは違い、衆目の眺めるところで商品販売を実演するようなちょっと大道芸人的なところがあるが、キーワードで縦横に(同時代および通時的に)串刺しするというのはまさにインターネットでのハイパーテキスト的発想である。
 並べられる商品は衣服、自動車、香水、食品、ホテル、オートバイの他、バンド、野球そして貧困まである。貧困も「商品」として扱うのは、これを描いて売りにしている小説があるからである。小説に描かれるものはすべて商品であるし、その時代の商品を描くことで小説は成り立っている。
 細部が描けていない例として、第2章では『失楽園』と『女ざかり』の服装音痴があげられている。ここで著者は、

 第一に、これらは「服装」は書いていても「ファッション」を書いていないということです。衣服というものは、いまや流行なくして語れません。(中略)
 第二に、これらは衣装の「説明」はしても「描写」はしていません。

と鋭く批判する。確かに衣装に限らず小説の中で描かれるべき視点から描かれるはずの描写がされず、作者の乏しき知識でいいかげんにすまされてしまうと格段に小説の味わいが減じてしまう。でも衣装などは読者が着たきりすずめの中年男性か流行に敏感なティーンエイジャーかによって受け取り方がかなり違うから作者の方も大変だろう。ファッション業界用語を並べて詳述すればいいというものでもないからだ。しかし著者は、力の入れどころであるべき風俗小説でそれが単なる「説明」や「報告」になってしまうところを問題視している。

 次章の「広告代理店式カタログ小説」では、PR誌などに連載されることもある性格上モノが主人公となる小説であることを述べ、「カタログ小説の三大法則」を導出している。いわく(1)一品種一人の法則、(2)商品情報優先の法則、(3)正面攻めの法則。最後の(3)は(1)、(2)から生まれる必然的結果で、「はずしの技」、「ずらしの技」がきかないというものだ。

ブランド品は、もともとブランドストーリーを売る商品でもあります。それを題材に新たに作品を書くならば、批評精神を発揮して、メーカーが希望する商品イメージなり商品ストーリーなりを異化するか破壊する物語にしなければ、本当は意味がないし、おもしろくもありません。(中略)しかし、カタログ小説はそれがなかなかできません。なぜでしょうか。商品の「すかした部分」をいっしょになって笑うためには、かなり突っ込んだ商品知識が必要だからです。(中略)
 したがって、意地悪ないい方をすれば、カタログ小説は、商品に追随した形になりがちです。べつにいえば、メーカーを後追いする広告代理店形式の物語になってしまうわけです。

 第4章でも著者の洞察は鋭く、小説に描かれた食品の深層を指摘する。(1)食べ物は(性的な)記憶の再生装置である。(2)食べ物の比喩をつきつめていくと人生論になる。(3)料理は男女間の距離を測る道具である。(4)現代文学は非日常的な料理しか相手にしない。
 まさに細部には作者の意図や無意識が思わず出てしまうところであり、そこを逆手にとって作品を鑑賞するという読み方も十分許されるのだ。

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