烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

心の哲学

2006-04-21 19:30:57 | 本:哲学

 『MiND 心の哲学』(ジョン・R・サール著、山本貴光・吉川浩満訳、朝日出版社刊)を読む。心と身体はどちらかに還元できるものなのか、まったく別のものなのかという古くからの哲学の問題に対するサールの解答である。サールは、心的なものと物理的なものを論じる際に、いずれか一方が他方に「還元」できるかどうかという問いの立て方の曖昧さが混乱の元凶であると論じている。この「還元」というのが曲者で、因果論的還元と存在論的還元に分けて考えなくてはならないとする。前者は、ある現象が因果的に先立つ別の現象のふるまいによってもたらされ、かつそれに限る場合に当たる。後者は、ある現象がまさに別の現象そのものにほかならない場合に当たる。そして意識は、因果論的に還元を行うことはできるが、意識という概念をもつうという点を失わずに存在論的に還元を行うことはできないとする。ニューロンのふるいまいの因果で意識を説明できても、ニューロンのふるまい即意識ではないというわけだ。意識には客観的に記述される性質以外に一人称的存在論的観点があり、因果論での説明はこれがすっぽりと抜けてしまう。
 心は物理的現象に還元できるかという問いは、存在論と因果論を区別せずに論じていることから生じるみかけ上の問題に他ならない、彼は論じる。意識一般を生物学的観点から客観的に記述することは可能だが、その時それが他ならぬ「私」の意識であるというのは、説明できないということだ。「私がほかの誰でもない私であることはどういうことなのか」という問いは厳然として残ることになる。
 私の行為を因果論的に記述することは可能であろう。この時私の行為は決定論的になる。しかし他でもないこの「私」という視点から記述される私の行為には自由がある。私という視点、まったく形式的で空虚なこの「私」という一点が私の行為を自由にする。
 私は私の視点から私の行為を私の言葉であなたに説明する。表現された言葉があなたの視点から受け取られる。私とあなたが言葉で結ばれることで、私は自由になれる。
 生物学的自然主義に立脚しているというと、唯物論的に心を説明しているのではないかという誤解を招くかもしれないが、サールの論考はそうした論とは全くことなる。最終章の平易ながら奥深いサールの洞察を読むだけでもそれは直ちに理解できる。



 人はときおり「科学的世界観」について、それがあたかも事物がどのようにして他のものとともにあるのかにかんする一つの見解であるかのように、また、あたかもあらゆる種類の世界観がある中で「科学」がその一つを提供しているかのように語る。一方でこれは正しい。しかし他方でこれは誤解を招きもする。実際になんらかの誤りを示唆している。同一の現実を、さまざまな関心を念頭におきながら眺めることができる。経済的な観点、美学的な観点、政治的な観点といった観点がある。この意味では、科学的研究は数ある観点のなかの一つにすぎない。しかしながら、この考え方をこう解釈する方法もある。つまり、それが示唆するのは、科学は固有の存在論的領域を名指すものだと考えるということだ。それはまるであたかも日常的な現実とはちがう科学的な現実が存在していると語るに等しい。これはおおいに誤っていると思う。本書で暗に示してきた見解をいま明らかにしておこうと思うが、科学は存在論的な領域を名指すものではない。科学とはむしろ系統的な探求のためのなにものかを見つけ出すための方法群を名指している。


 私たちは複数の世界に生きているわけではない。また、二つの異なった世界-心的な世界と物理的な世界、科学的な世界と日常的な世界-にまたがって生きているわけでもない。そうではなく、ただ一つの世界があるだけだ。そこには私たち全員が住む世界である。私たちには、自分たちが世界の一部としてどのように存在しているかを説明する必要があるのだ。


そう、どのように存在しているかを説明する必要があるのだ、私の言葉で。