セキュリティはなぜやぶられたのか

 昔から図書館の本を紛失や破損から守るための最もいい方法は、本の閲覧をさせないことだという冗談がある。本に対する悪意のある攻撃に対してセキュリティを最高度にすると、逆に利用者には最高に不便になるというか図書館を利用できなくなってしまう。ことほど左様にセキュリティは常にトレードオフを伴うということから『セキュリティはなぜやぶられたのか』(ブルース・シュナイアー著、井口耕二訳、日経BP社刊)は始まる。
 トレードオフのことは少しでもセキュリティの問題について考えたことのある人であれば分かることだが、著者はその道の専門家であるだけにその裏の事情にも詳しい。このセキュリティトレードオフの意思決定過程に複数の関係者が関与するため、それぞれが主観的なセキュリティ評価を行い、対策はまず自分の利益を確保する思惑を抱いているのだということを歯に衣着せず指摘する。同時多発テロの航空セキュリティを検討する際に、

航空会社は、お客さんを増やしはしたいが、コストがかさんだり運行スケジュールが混乱するようなセキュリティシステムは避けたい。できれば空港でのセキュリティを国に任せ、将来的に問題があっても責任をとらずにすませたいとも考えている。パイロットは自衛用の銃を持ちたいと言う。客室乗務員は、パイロットに銃を持たせると自分たちだけが危険にさらされるかもしれないと疑う。次の選挙が気になる議員たちは、何か、改善に向けた努力をしていると思われたい。米連邦航空局は航空会社と政府の板挟みで動けない。結局、爪みがきのやすりや毛抜きを乗客からとりあげるという結論に落ちつく。これなら費用がかからず航空会社は満足する。何かをしているというポーズにはなるから政府も満足する。旅慣れた人ならあきれてものも言えないところだが、乗客に意見を述べる機会はない。

とこれは著者の架空のシナリオだが、あってもおかしくはない。セキュリティも大事だが、それ以外の思惑が絡んでおり、そちらがセキュリティより優先されることがある。これは日本でもBSE問題で大騒ぎしたときの政府の対応を見てみれば明らかだ。こういうことを最初から述べる本であることから分かるように、本書はセキュリティ神話を完膚なきまでに打ち砕くことが主題である。完全なセキュリティなどないのだと。しかしそれでは話が終わってしまうので、セキュリティ対策とは、通常の安全対策とは異なり、偶発的な事態はもとよりシステムに障害をもたらそうと悪意を持って攻撃する事態にも対応することを考慮して設計しなければならないと指摘し、5つのステップを踏んで検討することを教えてくれる。

ステップ1:守るべき資産は何か
ステップ2:その資産はどのようなリスクにさらされているのか
ステップ3:セキュリティ対策によって、リスクはどれだけ低下するのか
ステップ4:セキュリティ対策によって、どのようなリスクがもたらされるか
ステップ5:対策にはどれほどのコストとどのようなトレードオフが付随するか

これによって最善の回答が得られるわけではないが、少なくともある対策の評価はできるというわけである。そして当然ながら提示されたセキュリティ対策というものが、「ほんとうに」防ぎたい事態のことだけを考えたものなのか(提案者の思惑をそそぎ込んだ恣意的なものではないのか)を見抜く目を持たねばならない。

本書を読んでいるとさまざまなところにな警句的になるほどと思わせることが書かれてある。

 セキュリティシステムは、根本的に他のシステムと異なっている。(中略)セキュリティシステムは何かをできないようにするから価値がある。

 セキュリティがやぶられるのは「継ぎ目」のことが多い。(中略)継ぎ目はシステム設置時に発生する。

 セキュリティによる異常検出システムには感度と特異度が関係する。これは通常の検知システムと同じであるから、発生頻度が異常に稀な事態では偽陽性、すなわち誤報が多くなる。誤報が多くなればシステムに対する信頼性が落ちるから、いざと言う時に役立たなくなる。異常に感度の高い火災報知機はわずかな煙で鳴ってしまうから、警備員は結局スイッチを切り役に立たなくなる。

 「失敗するかもしれないことと失敗するはずがないことの違いは、失敗するはずがないことが失敗すると、だいたい、何とかしたり修復できないということだ」

 実績のある方法は新しい方法よりもすぐれていることが多い。(中略)困ったことに、複雑な技術システムには実績のないものが組み込まれることが多い。

 技術的システムでは人間と機械をつなぐ「ヘルパー」、すなわちインターフェイスが必要だが、このヘルパーがセキュリティ関連のシステム特性を隠蔽し、リスクの正確な評価ができなくなるという指摘もされている。SF作家のニール・スティーヴンスンはこれを「メタファー断層」と呼んでいるという。機能の分かりやすさを優先した結果、複雑な技術やみたくない事実が隠されてしまう(p133)。

 技術が進むと標準化が進み、脆弱性が増える。同じ機能を持つ部分すべてを破壊する「クラスブレーク」が可能になるのだ。

 最後に著者が警告するのは、セキュリティというものに対して受身であってはいけないということだ。

 受身であれば、自分の代理人や他の関係者が決めたセキュリティを甘んじてうけいれなければならない。トレードオフを自分で決めたければ、他の関係者の思惑に応じ、できるかぎりの交渉をしなければならない。それしか方法はないのだ。(中略)
 自分の思惑や自分が感じるリスクに適したセキュリティにしたいと思うなら、交渉のやり方を学ばなければならない。関係者同士で利害を一致させる。関係者の利害を各自の能力と一致させる。感情という皮をむくと、セキュリティとは要するにお金だということがわかるはずだ。ただし、お金の流れはわかりにくいことも多いので、金銭的な動機を正確に把握することが大事だ。

読んでいて多少重複するところが多いと感じるところもあるが、飽きさせずに最後まで読ませる。
 

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頭を冷やすための靖国論

 『頭を冷やすための靖国論』(三土修平著、ちくま新書)を読む。ちくま新書から刊行されている靖国論シリーズ(本書のほかに『靖国問題』、『靖国史観』)の一冊を読む。靖国問題が中国や韓国が首相の靖国参拝を非難して起こった問題だという表面的な見方を取っていないのは、他二書と同じで、本書は、靖国の問題が国家神道の戦後処理が妥協的産物であったために起きたものだと位置づけている。
 著者は、靖国派と反靖国派の対立をその戦後史解釈の違いだと主張し、前者の理解を「謀略史観」、後者のそれを「せっかく史観」と名づけている。謀略史観は、戦後処理はアメリカの図った謀略であり、日本の精神的弱体化を意図したものだと主張する。それからすれば靖国への公式参拝は正常復帰の一つである。一方反対派の史観は、「戦後改革でせっかく基本的人権の尊重される民主的な国をつくったのに、それをなし崩しに否定しようとする勢力が、ここ六○年にわたって策動を続け、ものごとを悪いほうへと引っ張ってきた」というものだから「せっかく史観」と名づけられれている。両者とも「GHQは国家神道を軍国主義を支えるイデオロギーとして危険視したので、神道を国家から切り離し、靖国神社を含めすべての神社は民間の宗教法人としてしか存続を認めないことにした。そのうえで政教分離を徹底させて、国がこれらの宗教法人に対して特別の関係をもつことを禁じた。これによって、靖国神社はその公共性を否定された」という理解は共通している。靖国派は、これを不自然な押し付けだと否定的に評価し、反靖国派は、軍国主義復活抑止対策として肯定的に評価し、この「正しい」改革を死守せよとする。ここで議論が起きるのであるが、

この「『正しい』改革」論をどこまで強調してみても、「戦没者を追悼する場がなぜ民間の宗教法人という不自然な形態になっているのか?」との疑問をいだく人々に、正面から答える議論になっていないことも事実である。
 その疑問をひたすら封殺することに終始しているかに見える反靖国派の態度は、靖国を愛する素朴な人々から見れば「占領軍によって押し付けられた改革を、不自然なものまで含めて盲目的にありがたがるおかしな態度」と映ってしまう。ここへ復古主義的なイデオローグがやってきて「自虐趣味」とか「敗戦後遺症」とかいう感情的な言葉で事態を説明してみせると、素」朴な人々は「そうだ、そうだ」と納得してしまう。
 こうして、「同胞を偲ぶ真心」という程度の素朴な気持ちから出発した人々が、戦後改革そのものを呪詛するかたくなで「反動的な意見にからめとられてしまうという最悪の図式が現出される。

 戦後に靖国神社は公的な宗教施設であることを否定し、一民間の宗教施設として生き延びたが、ここでいう「宗教」を靖国派と反靖国派が「表面的」に主張していることと「潜在的」に主張していることで「奇妙なねじれ」があると著者は指摘しており、この点はなるほどと思った。表面的主張(すなわち建前論)によれば反靖国派は、靖国神社は憲法上の宗教であるという(だから政教分離を論拠とする)。これに対し靖国派は、宗教というより公的儀礼を司る施設であると主張する。しかし潜在的な主張(本音)によれば、反靖国派はあのようなものは宗教の名に値しない政治的施設だと考えている。一方の靖国派は現行憲法下では私立の宗教法人として規定されて十分メリットがある。また日本人ならだれでも信奉すべき公的宗教なのだと開き直りたい。
 1945年12月15日の神道指令いよって靖国神社は選択の余地なく私立の宗教法人にされてしまい、その公共性を否定されたが、戦没者追悼事業を公的に行ってはいけないとは書かれていない。そのため靖国派は戦没者の追悼という公的儀式をすることを非難するのは不当であるという。反靖国派は政教分離の下にこれを否定する。
 著者は、実際には戦後の神道に対する政治的裁定は、謀略史観がいうほど「一方的な押し付け」でもなく、せっかく史観がいうほど「理想的な改革」でもない妥協の産物であったとする。
 「頭を冷やす」と題されているだけにいずれの立場にも目を配って冷静に論じているところが評価できる。おかしいことは誰にもわかるが、どうしたらいいのかが誰にもいけない問題なのである。

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文明論之概略-2

『文明論之概略』を続けて読む。第四章からは「一国人民の智徳を論ず」として、徳と智が主題となる。発展した西洋と後塵を拝しているアジアそしてその中の日本との違いは何処にあり、どう対処していけばいいのかということを真摯に福沢は考える。何れの地にも徳がり、智があるにもかかわらずどうしてこのような差が生まれるのか。『読む』(中)91頁には簡単な略図があるが、要は智と徳の総量もさることながら、その布置関係が問題であるというのが福沢の主張であろう。

一国文明の有様はその国民一般の智徳を見て知るべし。前章にいう所の衆論とは、即ち国内衆人の議論にて、その時代にありて普く人民の間に分賦せる智徳の有様を顕したるものなれば、この衆論を以て人心のある所を窺うべしといえども、今またこの衆論のことに就て二箇条の弁論あり。即ちその第一条の趣意は、衆論は必ずしも人の数に由らず、智力の分量に由て強弱ありとのことなり。第二条の趣意は、人々に智力ありといえども、習慣に由りてこれを結合せざれば衆論の体裁を成さずとのことなり。

 智は偏在していては、総量として大きくても一国の文明を創りだすまでには至らない。福沢はその智の有機的結合を生み出すものとして言論の自由が重要であることを洞察しており、この慧眼はさすがである。時代の趨勢を見通した少数の卓見がいかに歴史を推進する力となるのか。これが可能になるためにはその萌芽を大樹に生長せしめる母地(マトリックス)が必要である。それを可能にするのが福沢のいう「習慣」である。自由な言論空間という習慣があるか否かは決定的に重要であり、当時の日本にはそれが欠如していると指摘している(そして残念ながら現在でも欠けているというか歪んでいる)。
 歴史はこのように局所から生成する新たな乱流が全体に影響を及ぼすようなうねりに成長していくことにより進行していくものだと思うのだが、福沢はうねりへと成長させる条件を時代の趨勢、すなわち時勢ととらえていたように思う。乱流を起こした者は、後世英雄として評されるのであるが、それに偏った見方は正しい歴史の見方ではないのである。この点でも福沢の歴史観は驚くほど醒めている。歴史を歴史に成長させるのは少数の限られた英雄だけではない。ここに囚われると特定の人物を神秘化しいらぬ幻想を抱くことになる。
 ここで福沢は面白い比喩を使って説明している。

千トンの船に五百馬力の蒸気機関を仕掛け、一時に五里を走りて十日に千二百里の海を渡るべし。これをこの蒸気船の速力とす。如何なる航海者にて如何なる工夫を運らすも、この五百馬力を増して五百五十馬力と為すべからず。千二百里の航海を早くして九日に終るの術あるべからず。航海者の職掌はただその機関の力を妨げずして、運転の作用を逞しうせしむるにあるのみ。あるいは二度の航海に、初は十五日を費やし、後には十日にて達したることあらば、こは後の航海者の巧なるにあらず、初度の航海者の拙にして蒸気の力を妨げたる証なり。人の拙には限あるべからず。この蒸気を以て、十五日も費やすべし、二十日も費やすべし、あるいはその極に至らば、全く働なきものと為すこともあるべしといえども、人の巧を以て機関の本然になき力を造るの理は万々あるべからず。

 その時点で規定されている船の馬力こそが、そのときの国の時勢なのである。そしてそれは国民全体の智力の布置関係である。この点は『精読』が丸山の読みは、航海者の巧拙の議論になっていると批判している。丸山の読みは航海士の方に力点を置いており、子安の読みは船の方に力点を置いている。ここは福沢の論旨からすれば『精読』の理解の方が正鵠を得ている。福沢は「古より英雄豪傑の世に事を成したりというは、その人の技術を以て人民の智徳を進めたるにあらず、ただその進歩に当たりてこれを妨げざりしのみ」と指摘する。
 後半は、智と徳の違いについて論じられる。福沢は儒教的道徳批判に眼目をおいているので、智と徳の違いを明確にして徳よりも智の重要性へと論を進める。
 (1)徳は内面的な価値である。ここでは徳自体の価値を貶めているわけではなく、その検証不可能性という欠点をついている。智はテストすることによりsの有無を知ることが可能だが、徳はそうではないと指摘する。この部分は科学的で面白い。
 (2)徳の影響範囲は限局的である。徳は周囲の人間関係にか影響を及ぼさないが、智は広く世界に影響を及ぼすことができる。文明の改革の必要性を訴える福沢からすれば、その伝搬に智が必要と考えたのは当然だろう。
 (3)徳には進歩性がない。人間の基本的性質に根ざした徳に普遍性と不変性があるのは当然なのだが、福沢はそれがドグマになる点に注意を喚起している。翻って智には蓄積性、進歩性があるという。しかしこれは比較するのがやや乱暴といえば乱暴なのだが。
 (4)徳には習得に限界がある。徳は学習することが可能か否かはプラトンの時代から論じられているが、(1)と関連してその検証不可能性を改めて指摘している。この点も本当に知っているかを問うことは同じように難しいことだ(これは科学哲学の歴史がそれを証明している)と思うのだが、福沢は智の客観性を強調する。
 (5)徳は飛躍性がある。回心のような瞬時の変化というものがあることを指しているが、それに対して智は漸進的である。これも峻別できるわけでもない(知的発見にも創発的、飛躍的なものがある)が、福沢は国民の誰もが努力すれば漸進的に獲得到達できる智を重視しているから、この違いを際立たせたかったであろう。

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脳と功利主義

『Nature』の4月19日号に脳の特定の部位が道徳的判断に影響を及ぼすという記事が掲載されていた。「Damage to the prefrontal cortex increases utilitarian moral  judgements」と題された論文で腹内側前頭前皮質ventromedial prefrontal cortex (VMPC)という部位が両側性に障害された6人の被験者に対して道徳的にジレンマを惹き起こす設問を問い、それに対する判断を調べている。VPMCは、情緒的反応、特に社会的情緒反応を起こすのに必要な部位とされている。これらの被験者では、特定の質問に対して極度に功利主義的な応答をする特徴が見られたという。
 二股に分かれた線路のそれぞれに人間が5人と1人いて、列車が驀進している。転轍機でどちらに列車を向けても死亡者が出ることは避けられない状況でどちら側に転轍機を向けるのかという設問では、後の質問よりは情緒的反応が軽く、死者が出ることが避けられないのであれば5人を助ける方を選ぶ。これについてはVMPC障害者でも対照群と差がない。しかし驀進する列車を止めて5人を救うために陸橋から一人の人間を突き落とすかという状況を問う非常に冗長的に受け容れがたいジレンマでは、VMPC障害者では対照群と違い、極めて功利主義的な反応を示すという。
 しかしVMPC障害により情緒的反応が抑制され、道徳的判断が非人間的になるかというとそうばかりもいえない。もらったお金を二人で分配するゲームで、Aが100ドルもらったときに、Aは自分の判断で好きなだけその一部をBに与えるが、Bがその金額に不満で拒否すると、AもBももらえる金額はゼロになる。こうしたゲームではAは99ドルをもらい、Bに1ドルを与えるのが合理的である。Bは1ドルでももらえるならばそれを拒否すべきではない。しかしVMPC障害者では高率にそうした合理的分配には怒りを示し、申し出を拒否するという。この場合は情緒的反応がVMPC障害者では優位に立つ。
 仮説的に設定されたシナリオと、自分の利益が直接関係する設定というコンテキストが変わると反応も変わるところは興味深いところである。
 あくまでも現象論であるが、脳の局所的部位が道徳的反応に重要であるという実験結果は、倫理学の自然学的基盤を考える上で示唆に富むものであるし、道徳の情緒説もこうしたあたりに根拠を求めることができるのかもしれない。またまったく感情に左右されずに冷酷な殺人を犯すサイコパスなどは、こうした回路に障害があるのかもしれない。しかしそうだとしてもそれで道徳的議論が簡単になるわけではないのだが。

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文明論之概略

 『文明論之概略』(福沢諭吉著、松沢弘陽校注、岩波文庫)(以下『概略』)を、『「文明論之概略」を読む』(丸山真男著、岩波新書)(以下『読む』)と『福沢諭吉「文明論之概略」精読』(子安宣邦著、岩波現代文庫)(以下『精読』)とを読みながら読む。
 天保年間に生まれ、幕末から維新への激変時期に生きた福沢が国の独立を守るために西洋の文明化にいかに対処すべきかを考察した真摯さがひしひしと伝わってくる。今読み返してみて改めて実感する。「国体」と「血統」と「政統」を対置比較しながら、国民を中心にすえたナショナリティを国体ととらえ、政治権力体制の連続性をいう政統と、皇統の連続性をいう血統とはきちんと区別して論じることをこの時代に明確に示した意義は大きい。この国体を保持していくためには、因習にすがり付いていたのでは道は拓けないとして「智力発生の道に於いて第一着の急須は、古習の惑溺を一掃して西洋に行われる文明の精神を取るにあり」と主張した。ここで『読む』では、福沢の思想をヨーロッパ啓蒙思想と通じる物があるとし、名目に拘泥し実を失ってしまう精神的態度一般を批判しているととらえる。

あるものを使う本来の目的がどっかに行ってしまって、そのものの具体的な働きにかかわらず、「もの自体」が尊重される。そういう思考傾向を惑溺というのです。

これに対して『精読』では、福沢の惑溺をもっと狭い意味でとらえ、あくまで国体論的言説で既存の価値観に囚われた態度として、一般論に拡張している丸山を近代主義者として批判している。

「名を争うて実を害する」というのが、まさに惑溺という思考様式の一つであるわけです。惑溺にとらわれると、どういうことになるか。前にも申しましたように、この惑溺が日本の深い病理だと彼は見ました。古習の惑溺を一掃しなければ文明に入れない。ということは、つまり、個人の独立と日本の独立とが達成されない。したがって「惑溺」のさまざまな思考様式の打破ということが、彼の根本の使命感になってくる。

という丸山が気に入らない。福沢は何も日本の総論的病理学を開陳したのではないと。確かに前後関係から厳密に解釈すると『精読』の解釈が正しいであろう。しかし福沢の置かれた激動の時代とそこから発せられた情熱的な言葉を情熱をもって読み込むと『読む』のような解釈もまたもっともだと思われるのである。『概略』の福沢は、単なるナショナリストでもなく、単なる欧化主義者でもなく、単なる功利主義者でもなく、単なる合理主義者でもない。異なる時代に異なる相貌を示してくれる書だと感じた。

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共同性の現代哲学

 『共同性の現代哲学』(中山康雄著、勁草書房刊)を読む。
 合理的行為者の志向性を起点として、言語行為とはどのうようなものかが論じられる。当然オースティンの言語行為論、それを体系化したサールの言語行為論が俎上に載せられ、宣言や命令といった行為の分析がなされる。著者は彼らの言語行為が、孤立した分の発話分析に終わっている点に問題があるとして、ある発話がなされているその場、文脈を考慮した分析が必要であると論じている。

 サールは、発語内的眼目には、世界から言語へと言語から世界への二つの適合の方向があるとした。しかし、サールのこの記述は誤解を招きやすい。実際にあるのは、認識と行為である。認識は、世界や自分の状態を捉えることであり、行為はある目的にしたがって世界を変える作業である。主張は、世界の状態がどのようであるかについての自分の信念を述べることであり、世界に照らし合わせることによりそれが真か偽かがわかる。意図は、自分の行動により世界を変えることと関わり、自らの行為遂行の確認により充足される。また、欲求は、自分の思い描いたとおりの世界が変わることの確認により充足される。最も基本にあるのは、信念・意図・欲求と行為と環境の相互的関わりであり、サールの言うような適合の方向は、そこから派生するものにほかならない。だから、私たちはそれを理論構築のために必要とはしない。総括して、サールの議論には、命題的態度間の相互作用の記述に不十分な面がある。

 著者は発話を行為として捉える。発語内行為のタイプは、聞き手が信じるようになることが目指されている命題内容によって、主張型(命題pの主張)、指令型(聞き手があることをすることを話し手が欲していることの主張)、行為拘束型(あることをすることを話し手が意図していることの主張)、表現型(話し手がある心的状態にあることの主張)に分類される。
 聞き手が話し手と同じように高次の志向システムをもつ(自己の概念を持ち、他者と自分を区別し、他者の志向的状態と自分の志向的状態を区別する)存在であり、信頼と協力可能な存在であるとき初めて発話が行為となりうる。この前提が成立して初めてサールのいうように命題が世界に関係付けられる。

 こうした関係から社会における共同行為が可能となる。これが共通行為と違うところは、後者にはある「集団Gの行為を成立させるのにその行為を成り立たせている行為者間に相互作用が存在しない」点である。著者は共同行為の規定として、

(a)「グループGが共同目的Xを実現するために共同でAする」という言明が真なのは、次の五条件が充たされている場合である:
(A)Gの構成員たちが互いに信頼しあい、互いに協力的であることが、Gで集団的に信じられている。
(B)Gは、目的Xを集団的に欲している。
(C)Gは、Gの共同行為AがXを惹き起こすと集団的に信じている。
(D)Gの構成員は、誰も特定の自分の行為がAの部分をなすと思っている。
(E)(自分も含めて)どの構成員も各自割り当てられてたAの部分となる行為を遂行することを意図しているということがGで集団的に信じられている。
(b)この時、共同行為は次のように定義できる:
グループGが共同でAをするのは、GがXを実現するために共同でAをするということを充たすような共同目的Xが存在するとき、かつ、そのときに限る。

著者は(A)で共同体の構成員の間に信頼・協力関係が必要としているが、すべての共同行為にそれがほんとうに必要かどうかは問われてよい点だと思う。また条件(B)の目的Xを「集団的に欲している」ということはどのようなことだろうか。これはその集団を構成する全員がそれぞれXが目的であると知っており、それを望んでいるということだろうか。だとすればこれは条件として厳しすぎるように思われる。集団の構成員が共同でAしていながら、目的Xを知らない、あるいは必ずしも欲していないということは可能ではないだろうか。これはある集団がなした共同行為の責任の所在を問う必要がある場合に重要な点だと思う。例えばある集団が戦争という行為(A)をする場合、その目的(X)は集団的に欲されているだろうか? 条件(C)についても「集団的に信じている」ということはどういうことなのか。共同行為を論じる場合には、その目的を構成員に信じさせる権威的主導者を考慮し、その者と構成員の間の関係を考慮に入れる必要があるだろう。それは必ずしも協力的信頼関係ではない。

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図書館の誕生

『図書館の誕生-古代オリエントからローマへ-』(L.カッソン著、新海邦治訳、刀水書房刊)を読む。副題にあるように古代オリエントからローマ時代にかけての図書館の歴史を扱った本であるが、人間が文明の誕生と同時に情報を蓄積、収蔵していたことを教えてくれる。というより過去の経験などの情報を蓄積したからこそ文明の誕生が可能になったというべきだろう。
 前三千年紀のメソポタミアの粘土板といえば世界史の授業でも出てくる最初の情報文書であるが、資料を収蔵した「図書館」といえるのは、前十二世紀末ということらしい。その設立者は、ティグラト・ピレセル一世というアッシリアの王であったという。情報の収集というのは強大な権力がないと不可能な時代である。しかし「最初の組織的な収集」が行われた図書館という意味では、その後代の王アッシュルバニパルの時代であるという。王個人の収蔵品でありながらも王室関連の人々も閲覧したようで、しかも当時から「本」の無断帯出には悩まされていたらしいことは、当時の粘土板に次のような記載(恫喝)があることからも分かる。

世界の王、アッシリアの王、アッシュルとニンリルを信仰するアッシュルバニパルの粘土板。神がみの王アッシュルよ、あなたの威信は並ぶものなし。誰であれ(粘土板を)持ち去り、我が名の位置に自分の名を記す者は、アッシュルとニンリル、怒りに燃えた過酷なこの神が、彼を打ち倒し、彼の名、彼の子孫を地上から抹殺してくれますように。

そう、情報の無断帯出は古代から重罪だったのだ。(アッシュルというのはアッシリアの至高神、ニンリルというのは創造神エンリルの配偶神)。

 時代はずっと下って古代ローマ時代に飛ぶ。皇帝たちが建立した図書館の平面図が掲載されているが、巻物の収蔵は、壁龕に木製の書架を設けてなされていた。壁一面使って本を納めていたことになる。壁以外のフロアには書架はなかったようなので、建物の大きさで収蔵量が規定されていたことになる。蔵書量が増えてしまうと、新たに建てなければならなかったという。当時の図書館は、市民に対して当時の通常の労働時間にあたる夜明けから正午ごろまで閲覧などのサービスを提供したという。ローマ時代でも蔵書の窃盗はあったようで、キケロは自分の奴隷が蔵書の多くを盗み出しており、発見次第自分のところに送還してほしいという旨の書簡をしたためている。
 二世紀までは図書館の蔵書はすべて巻物の形であったが、その後パピルスの綴じ本が一世紀ごろに登場する。本書によれば、一世紀頃はまだその普及率は1.5%程度であったが、三世紀には約17%へと上昇し、400年までには80%、500年までには90%に上昇しているという。情報の記録媒体の変革の波がこの時代にあったのだ。100年ごとにこのような普及率の上昇をしているが、最近の統計でインターネット利用率の推移を参照してみると、1996念は3.3%なのが、99年は19.1%、02年には81.4%、03年には88.1%となている。インターネットとパピルスの綴じ本とでは、単純比較はできないが、綴じ本となって情報の集積度が巻物より格段に上がり携帯にも便利となったというから、案外似たような感覚だったのかもしれない。情報媒体の革命が古代では100年ごとに進行していったことが、現代では1年ごとに進行していることになるだろうか。携帯情報端末がもっと進化すれば、折りたたんだり、丸めたりしてポケットに入れて持ち運び、ちょうどいつでもどこでも好きな音楽が聴けるように、読みたいときにどんな本でも(例えば画集のような大版のものでも)広げて読むことができるようになるのだろうか。

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ハイエクの政治思想-2

『ハイエクの政治思想』の読書を続ける。
自生的に生成進化した市場というものが、必然的に出現したものではなく、意図せざる結果として偶然出現した、しかも理性の限界ゆえのみならず人々の自然感情に反するものであったとハイエクが考えていたということは興味深い。市場は人間が意図せず作り出してしまい、抜け出せなくなったものであるが、個人の創意工夫を発揮させ社会を繁栄させる装置であったことも確かである。そしてそれが機能するためには自由が欠かせない。
 しかし市場競争に参加できるようにするためには、市場が努力の程度に応じた正当な報酬をもたらしてくれると信じられていることが重要なのだ。実際にはそうではなく、市場は努力したものに必ずしも報いるわけではないのだ。努力しても必ずしも報われるとは限らないということは、人はたいていある一定の年齢になれば自ずと悟るのだが、それでも努力は報われると信じる(あるいは信じるふりをする)。努力した人に勲章などで顕彰するシステムを社会がもっていることは、逆に言えばそういう人は実は稀有な場合であり、市場外でそうした救済を行う必要があるからだろう。そうした冷淡な一面をもっていながらも市場の自由というのは守る価値があるとハイエクは信じていた。

厳密に言えば、人間の行動だけを正義に適うあるいは反する(just or unjuust)と呼ぶことができる。もし、われわれがその用語をある事象の状態に適用するとすれば、誰かがそれを引き起こしたか、あるいはそれが生じるのを許したとわれわれが考える限りで、その用語は意味を持つ。誰も変えることのできないありのままの事実とか事象とかの状態は、快または不快(good ro bad)ではあるかもしれないが、正義に適うのでも反するのでもないのである。「正義に適う」という用語を人間の行為やそれらを支配するルール以外の事情に適用することは、カテゴリー・ミステイクである。われわれが人格を備えた創造主(a personal creator)を責めるつもりである場合においてのみ、誰かが身体的欠陥をもって生まれてきたことや病気に襲われたこと、またはある最愛の人(a loved one)を失うという目に遭ったことを、正義に反すると記述することが意味を成すのである。物質界(the physical world)をアニミスティックにあるいは神人同性同形論的に(animistically or anthropomorphically)解釈するという根深い習癖がわれわれをそのような言葉の誤用に至らせたり、われわれに関係するすべてのことに対して責任主体を追い求めさせたりするのであるが、誰かが物事を実際と異なるようにすることがありえたし、かつそうすべきであった(somebody could and should have arranged things differently)と信じることができない限り、事実上の上体を正義に適うあるいは反すると記述することには意味がないのである。

 問題は、(1)市場システムが自生的でそれを操作する超越的な主体は存在しないとしても参加する個々人がもつ情報量に格差がある場合に、責任問題は生じないのか、(2)自生的秩序を生み出す進化システムは偶然的影響により必ずしも最善のものとなるわけではないからこれを甘受するだけでは環境に隷属することになりはしないのか、ということである。

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市場の報酬

努力に対する報酬は、期待したものと違うことが多いし、また、もしそれらが生産の正しい指針であればそうであるにちがいない。市場が決定する報酬は、いわば機能の上では、人々がなしたことで関連しているのではなく、ただなして然るべきことと関連している。それらは概して、人々を成功させる誘因(incentives)であるが、関連する諸事情が思いがけなく変化したような時に、それらは、こうした報酬が生み出した期待に反することが多いという理由だけからも、活力ある秩序を生み出すことであろう。どの計画が誤りであるかを示すのは、競争の主な仕事の一つである。(中略)運の要素は、腕の要素と同様に、市場の作用とは密接不可分なのである。
(ハイエク『法と立法と自由』)
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ハイエクの政治思想

『ハイエクの政治思想』(山中優著、勁草書房刊)を読む。
ハイエクの自由論の特徴は、人間の構造的な理性の限界(人間の無知)を認めた上で論じられることである(「無知の承認に基づく自由擁護論」)。「個人的自由を擁護するのは、われわれの目的と福祉の成就を支配する非常に多数の要素に関し、われわれがいずれも無知を免れがたいことを認める点にある」。偶然性、無知が必然的に伴う自由を受け入れることは、社会の複雑性が高まれば、それだけ先が不透明になることを認める。偶然に左右される自分の運命を受容せざるを得ない厳しさも併せ持つことになる。経済的自由は価値判断の主体としての個人の自由が成立するために不可欠の基盤であること。目的独立的(具体的な目的に関係しない性質)な商業的交換を基盤とした社会関係は、暗黙的な「正義感覚」(ちょうど人間が発話の文法規則を瞬時にして判断できるような感覚)による慣習、伝統によって進化してきた。このため人々は短絡的・衝動的行動は不利益になることを経験により学ぶ。予見不可能性のもとに市場競争が自由に行われることは、この過程を促進する。正義に関するカントの基準(いかなる行為も、その行為そのものについて見て、あるいはその行為の格率に即して見て、各人の意志の自由が何人の自由とも普遍的法則に従って両立しうるような、そういう行為であるならば、その行為は正しい)は、個人の自由を可能にする。「我々のうちの誰に対して適用されるかということに対して予め注意が払われることなく制定される一般的で抽象的な法[すなわちある特定の具体的な個人や集団に対する依怙贔屓を狙ったものではない目的独立的な規範]に我々が従うとき、他者の恣意に服従しているわけではないのであるから、我々はそのとき自由の状態にいるのである」とハイエクは述べる。この自由により社会の快楽の総和が最大化されるのではなく、あくまで個人の目的達成の機会が最大化されるのである。したがって自由が即快楽をもたらすわけではない。目的達成のためには労苦を引き受けなければならないし、自らの選択の結果がたとえ悪くてもそれを甘受せねばならない。では自由が擁護されるべきであるのは、市場における自由競争を通して個人の自立、自己実現が達成されるという究極の価値があるからなのか? ここで非経験論的な理性概念による価値判断をハイエクは行っているのか? ここは論者によって意見が分かれている(クカサスvsR.クレイ)。道具的自由主義であるという解釈では、ハイエクは「個人の自律」という価値観自体に基づいて自由論を展開しているのではなく、その道徳的価値がもたらす効用を論じているのだという。著者は「義務論的に見えるハイエクの論述の背後には、実は個人の自由という道徳価値が発揮する効用あるいは機能をこそ重視しようとする意図が隠されているのであって、ハイエクの自由論は徹頭徹尾このような帰結主義的文脈の中で理解されなければならない」としながらも、義務論的要素を強調したクカサスの解釈を支持している。「あるべき人間」というものを前提にせず、「あるがままの人間」から構築していく経験論的自由論というのはその名にふさわしい自由論であると思う。しかし問題は人間の創りだす秩序には「あるがまま」というもののみならず、「あるべき」という要素によって創りだされるものもあるというのもまた事実であることだ。「あるがまま」から成立する自生的秩序で解決は可能だとしても、常に「最善」の解決が得られるわけではかならずしもないと思う。

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