メディアは存在しない

 『メディアは存在しない』(斎藤環著、NTT出版刊)を読む。
 『InterCommunication』誌に連載された記事をまとめたラカン派精神分析者からみたメディア論である。表題は明らかにラカンの「女性は存在しない」からつけたとわかるから、そういう意味で「メディアは存在しない」のである。社会学でのメディアについての存在的言説に対して、精神分析からの存在論的言説というかたちになっているので、どうも議論がかみわわない印象である。これは著者も本書で述べているように、「理論社会学と精神分析における最大の対立点」が「言語」に対する視点の違いによるものである。

 シニフィアンの圧倒的優位性を維持することで、精神分析は「階層性」や「情報」といった概念によって撹乱されることを免れている。なぜか。もし仮に言語を、隠喩ではなくコードの体系として理解するなら、こうした撹乱を免れることはできない。なぜならば、もしも伝達に際して意味が一義的に決定づけられるコード体系がコミュニケーションを媒介するのなら、そこには必然的に「メタレヴェル」が派生することになり、コミュニケーションはその記述を免れることができなくなるからだ。

 たしかに言語を隠喩としてみるならば、そこには絶対的な基準点というものは存在しないし、中心には欠損しかない。言語の獲得は他者を自らのうちに招じ入れることによって自らのうちに穴をうがつことであり、そこから語る自らの欲望は無意識のうちに他者の欲望となるであろう。
 コミュニケーションの優位を説くルーマンに対して、ラカン派である著者はそれを二者関係であることを批判する。否定の契機である他者がそこには欠如しているからである。おそらくこれはルーマンのいうコミュニケーションが想像的なもので、ラカンのいう象徴的なものではないということなのであろう。

 精神分析がその理論上言語をすべてに優先させるのはしかたがないとしてもそれはあくまで仮説でしかない。「精神分析を受け入れるなら、行為の動機づけとして「欲求」や「本能」を想定してはならない」というのはそこから出てくるドグマであるが、これはドグマであるがゆえに自らの限界を示してはいないか。治療における言説として有効性があるとしても(これも今やかなり疑わしいかもしれない)、社会理論としての有効性がどこまであるのか疑問に感じてしまう。言語機能というものが自然的基盤をもつことが解明されつつある現在、「言語」として特性と「言語を使う人間」の特性とは区別して論じなければならないのではないだろうか。
     

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脳研究の最前線

 『脳研究の最前線』(理化学研究所脳科学総合研究センター編、講談社ブルーバックス)を読む。理化学研究所の脳科学総合研究センターが創立十周年を迎えるにあたって現在の研究の最前線をそれぞれの分野の第一人者たちが解説した本で上下二巻の構成である。
 前書きを書いている大御所の伊藤正男先生によると脳研究は大きく四つの柱があり、(1)感覚の入力から運動の出力までの経路の研究、(2)脳という器官の進化の研究、(3)脳神経回路網のモデル作製研究、(4)脳疾患研究であるという。本書は全部で12章あり、それぞれこのいずれかの分野の成果と展望を説明している。
 1400-1500gの中に約140億この神経細胞が複雑なネットワークをつくっているスーパーシステムであるから当然研究途上であり、「それを明らかにするのが難しいのは、多くの脳部位においてそれぞれの部位を構成している細胞の数があまり多く、それらの間の結合も複雑で、解析できるような規則性を見出すことが難しいから」である(第一章)。それでも感覚処理、運動処理の各システムの相互作用の解明が進められている。ここで脳の中である刺激を受け取ったところが出力の信号を出しそれを下位の部位に伝達するという信号伝達の「比喩」はまずいのではいかと疑義がもたれていることに注意したい。

問題の一つは「誰かが」という読み出しの主体を仮定してしまうところにあります。
 脳の中に小人がいて、その小人が脳の活動を見ている、あるいは読み出しているということとあまり相違がありません。だから、この考え方そのものに問題があります。

ではどういう仮説が妥当かというと明確な答えは現在ないところが隔靴掻痒の感がなきにしもあらずなのだが。
 続く第二、三、四章をみると脳は生存のために進化してきた精緻な「計算システム」であり、この計算は情動に色付けされているといえそうだ。欲望とは情動という色をもった計算なのだ。第十一章でも説明されているように対象を愛するという行為においても脳は”計算”しているようで、そこには合理的根拠がある。思うに脳が作り出したわれわれの社会は当初の予想を超えてあまりにも複雑化してしまったために脳はうまく計算できない場面に遭遇することが多々あるようになってしまったのではないだろうか。寿命が延びてしまったことにより癌や痴呆といった進化システムが想定していないような不具合に遭遇するようになったのと同様に、さまざまな社会病理は脳の想定を超えた(計算外の)問題なのかもしれない。それが精神疾患として反映しているのだろうか。第九章を読むとうつ病も統合失調症もなんらかの遺伝的基盤をもった脳の計算システムの病であるといえる。これらの疾病は分子レベルで解明されるだろうが、その表現形はそのときどきの社会や歴史を反映したものになるのもこのシステムが計算対象の”環境”に依存しているからだろう。精神分析のような作業仮説は精神疾患の解明という点からすると今やすっかり下火であるが、社会病理の説明という点ではある程度の効力をまだ持ち続けるだろう。

 脳の計算システムをシミュレートするとなると、これはとても困難な課題だろう(第十章)。生物システムを可能な限り模倣するモデルを構築しようとするアプローチは、当然のことながら「目標とする有機体の特性がよく知られていない場合に困難に直面する。脳科学の分野では多くの状況で実際にこの問題が起こっている」。これに対して現実の神経回路を模倣することではなく、「対象をある操作可能なレベルで抽象化したモデルのみを取り扱う」アプローチがあり、「対象である生物システムの種々の条件を仮定しながら可能性のあるモデルを列挙し、比較検討することによって一般化された原理やメカニズムに迫ろう」とする試みもある。工学的な細かいところはよくわからないが、全体を通してみるとデカルト的なモデルに代わるパラダイムが求められていることは間違いないようだ。

 

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人類学的思考の歴史

 『人類学的思考の歴史』(竹沢尚一郎著、世界思想社刊)を読む。
 文化人類学の草創期から約一世紀半の歴史を通覧し、人類学的思考とは何かを検討した書物である。ある専門的学問分野の歴史というと物理学や化学や医学生物学、哲学などなど数多くあるが、それらと比べて文化人類学という分野は比較的若い。しかし対象とする「文化」と「人類」というものが非常に幅広いためその全体像がはなはだつかみにくい。私のような専門外の素人にとっては、個別の著作を読んで、人類学的解釈に基づいて異文化を覗き見るといったことになりがちで、その体系的思考はよくわからない。本書では進化人類学を出発点に、大きな足跡を残した文化人類学者を取り上げつつこの学問がどのような方向に枝を伸ばしていったのかを教えてくれる。
 いわゆる学会の重鎮といわれる人物像を紹介しつつ、その人類学観を説明し総括しながら次へ進むという形式をとっており、比較的読みやすい形になっている。各章の総括があるのは大変ありがたく、一通り読み終えた後でその部分だけを拾い読みすると復習ができる点は私のようなものにとっては貴重である。たとえば第5章の「構造主義とその超克」では最後にこうまとめてある。



 一方、社会的実践よりその規則、行為より関係性を重視するレヴィ=ストロースの形式主義的な方法が、多くの批判を招いているのも事実である。ブルデューが批判するように、レヴィ=ストロースの考察は規則にかかわるあまり、人びとが規則を(意識的・無意識的に)踏まえながら、どのように実践を組み立てているかに注意が向かうことはない。また、第3章で見たマルク・オジェが強調したような、意味の産出が不可避的にもつ権力との相関関係を議論することもない。レヴィ=ストロースにとって意味とは、原理論的にのみ語られるものだからである。さらにレヴィ=ストロースの研究は、社会や神話を無時間的な状態に置き、その基本要素のあいだにいかなる構造が存在するかを考えることに重点が置かれる一方で、その構造が時間のなかでどのように変化するかが考察されることもない。それに加えて、かれの研究は基本的に比較研究であり、多様なデータを若干の基本図式に還元するにはきわめて有効な方法だが、それをひとつの社会の対象とする民族誌にどう適用するかは不明なままである。
 以上のような課題を抱えているのが事実だとはいえ、レヴィ=ストロースの方法が人類学的知の精緻化に大きく貢献してきたこと、今後も貢献しうるであろうことに、私はいささかの疑問ももっていない。方法であるかぎりそれを金科玉条として信奉するのは間違いであり、それを修正しつつ使うなら、それは人類学の主要な財産のひとつであったし、今後もありつづけるであろう。


こうしておいて次の象徴人類学へと進んでいくので、読んでいるほうも単に構造人類学の成果を開陳されるだけなく、その問題点を示してくれるのでよりわかりやすい。それというのも自然科学の歴史と違い人類学の歴史は枝分かれが多いのだ。もちろん自然科学系の歴史もさまざまな枝はあり、クーンの指摘するようなパラダイムの転換という断絶はあろう。しかし通覧して一本の太い幹があり、現時点での成果から振り返っての理解が可能なので見通しがつけやすいのだ。これに対して文化人類学というのはどうも枝分かれが多いようで、しかも現在の人類学がもっとも進んでいるのかというとさにあらず、本書を読むとさらに問題が複雑化しているようである。そのことがさらに全体像を理解をしにくくしているように思う。だから本書のような著作は貴重である。本書の最後は「人類学の再構築」と題されていることからもまだまだ課題が多い(それだけに取り組みがいのある?)分野なのだろう。その部分から引用する。



人類学は異質な文化をもつ社会でのフィールドワークを中心的な方法とする科学であり、それが得意とするのは「過去」ではなく、「現在」の記述である。そして今日の世界が、先に見たような「文化」の名によるさまざまな問題を生じさせているとすれば、それらの問題を現場で詳細に記述し、その解決のために人びとや諸々の機関や団体がどのような取り組みをしてきたか、それらの取り組みはどれだけ有効であり、限界を有しているかを記述し分析することこそ、人類学が今後おこなうべき重要な課題のひとつであろう。

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ねにもつタイプ

 『ねにもつタイプ』(岸本佐知子著、筑摩書房刊)を読む。
 筑摩書房のPR誌『ちくま』に連載されている同名のショートエッセイをまとめたもので、本の帯には講談社エッセイ賞受賞とある。『ちくま』は毎月購読しているので、現在も著者のエッセイを楽しみにしている。しかし連載開始当初は読み飛ばしていた(ごめんなさい)。表題からなんとなく敬遠してしまっていたのだ。これは実に痛い失敗だったことはまもなくわかった。今では同誌購読の楽しみの一つである。
 人はいろいろなことを考える。一日のうちに実に膨大なことが脳の中に浮んでは消えていく。消えていくがままにしているのは、それらの多くは自分勝手にバカらしいと決めつけてしまい、そんなことを伝えようとするまでもないとするからである。まじめに物事を考えている途中に断片的にその思考の本線に入り込んでくる雑音のようなものである。このエッセイのいくつかはそうした思考の本線中に突然闖入してくる異物をピンセットで取り上げしげしげと観察したり、その雑音を楽しんだりするものがある。これが実に面白い。
 日常考えることの内容をとりあえず必要なことと必要でないことに二分する。両者がともに混在している時は後者は省みられることもないのだが、これだけを取り出し考えていくと考え方によってはこんな面白いエッセイができるのだということである。そしてそうしたくだらなさそうに見えて活き活きと面白いものたちは、幼少時にはさらに輝いていたということをこのエッセイ集は教えてくれる。こう考えると、私たちは生きて歳をとるごとにだんだん色褪せたことしか考えられなくなってきているのではないかと不安になる。若い時より高度なことを考えていると思っているのは実は錯覚で、思考の本線に雑音がまったく混じってこないのは老化の由々しき兆候ではないのか。この呪いから解放されるためには、詩や童話や著者のエッセイが必要なのだ、きっと。
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善悪は実在するか

 『善悪は実在するか』(河野哲也著、講談社選書メチエ)を読む。
 同じ著者による『<心>はからだの外にある』に続いてアフォーダンス理論に基づく倫理学批判である本書を読む。この本ではプラトン的な価値と道徳観によらず、人間の個別性を重視しかつ客観主義的な倫理学の構築を試みている。
 第一章ではアフォーダンス理論のおさらいで、環境中に価値や意味は実在しており私たちはそれを直接知覚するのだということを確認する。知覚するものが何であるかを把握するにあたり、現象学とは異なり、「意味すなわち因果的効力をもった世界こそが志向性を可能にする」と述べる。対象の性質はそれ自身に内在しているものではなく、あくまでもそれと関係する主体との関係で決定されるが、重要なのはこれが「主観的」なものではなくあくまでも客観性をもっているという点である。
 これに続く第二章では事実と価値の問題が取り上げられ、存在から当為は導出できないとして事実と規範を峻別する反自然主義を批判する。この議論ではカンギレムの健康に対する考え方を援用し、自然の中に規範性が存在すること、そしてそれは社会の規範性とは異なることを指摘する。健康と病気と善悪は別個のものでありながらしばしば社会では結び付けられてしまうことが多いので、この議論は興味深い。アフォーダンス理論に基づく著者は当然社会の規範性より自然の規範性を優位におく。

社会の規範性は、生命の規範性に比べればあきらかに曖昧であり、生命的規範からの派生物、あるいは、その未熟な模倣物でしかない。なぜなら、生物の場合には、作りだすべき正常状態がどのようなものであるかが前もって分かっているのに対して、社会の場合は正常状態とは何かが、自明ではないからである。ある生物個体が健康であるかどうかは明確である。病理的状態は環境適応の柔軟性を奪い、個体の維持を危うくする。この明確さに対して、「健康な社会」という概念のいかがわしさを対置してみればよいだろう。

生命の「規範性」と社会の「規範性」は著者も指摘しているように明らかに異質なものなので、何かより適切な用語で区別をより明確にしたほうがよさそうに思える。この議論でも生物個体の規範性は一個体によって解釈される主観的なものではなくあくまで客観的なものである。

社会的規範は、その規範を内在化していない社会のある部分(ある人びと)にその適用を求める要請として存在している。したがって、社会的規範が、ある種の強制性、あるいは外的な指令性をもたなくなったとしたら、それは規範でなくなってしまうのである。人びとがある要請を従前に内在化したらならば、社会的規範とはならない。それは「自然」(すなわち、習慣)となるのだ。したがって、社会的規範は、あたかも社会的規範の模倣を目指しつつ、それに至らないでいるものであり、自己を内在化していない人たちに自己を強いる力の表れなのである。

ここでクリプキの「ヴィトゲンシュタインのパラドックス」による規則に従うことの問題が取り上げられ、社会的規範のプラトン主義的側面を指摘しその意味を明らかにしている。唐突な印象をもったが非常に興味深い指摘だ。
 第三章では道徳的価値の実在性の問題が取り上げられる。これはおなじみの問題だが、著者は道徳判断を主観的なものとすることの危険性を指摘する。

主観主義の問題は、もし善悪が主観的に決定されるとするならば、私たちは善悪の判断に誤ることがなくなってしまう点である。相互主観主義によれば、ある社会のノモスにしたがって判断された善悪には誤りがないことになる(そして、ある人がその社会のノモスに反した道徳判断をした場合には、その個人はつねに判断を誤っていることになる)。一方、個人主観主義者はそもそも判断を誤る可能性がない。(中略)
 真理とは主観的なものだと考える観念論の最大の問題は、人間が誤る可能性がなくなってしまう点にある。

 さらに著者は行為の倫理的判断においてその行為によって誰がどう影響を受けるのか、その効果を考慮しなければならないことを強調し、従来の倫理学が「特定の誰かの行為が特定の誰かに影響を与える」という点を考慮していないことを批判する。そこが疎かになった道徳を著者は「法化した道徳」であるとする。
 道徳の規範性(指令性)がどこからくるのかについては、著者が述べる共感を基礎におく道徳から説明するのは難しいように思われるが、第四章で著者は規範性が互酬性から来ると説明する。そしてこの規範性は国家に媒介されて「法」として表現されると「誰から誰へ」という具体性がなくなり権力的な面が強まると指摘する。
 最終章では著者のいう「法化した道徳」の問題点を指摘し、ケアの倫理、修復的司法の観点を取り入れることの必要性を説く。生物としての人間に基礎をおきつつ、感還元論に陥ることなく倫理の問題を論じているたいへん刺激的な本であった。
 最後にマルキ・ド・サドの哲学にも触れているが、サドのいう「冷淡でつむじ曲がりの人間」の存在(悪魔的悪)をどうすればいいのかは一連の議論におけるアキレス腱であるように思う。この点を指摘していることからもサドの洞察の深さがより際立つ。

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<心>はからだの外にある

 『<心>はからだの外にある』(河野哲也著、NHKブックス)を読む。
 心理主義(社会から個人の内面へと人々の関心が移行する傾向、社会現象を社会や環境からではなく個々人の性格や内面から理解しようとする傾向、および「共感」や相手の「きもち」、あるいは「自己実現」を最重視する傾向)を批判し、人が置かれた環境との相互作用、他者との相互作用から考えることが重要であることを主張する著書である。この批判のためにまず援用されるのがギブソンのアフォーダンス理論である(第一章)。ここでは「エコロジカルな自己」を説明する。環境からの物理的な刺激(感覚データ)を自己が処理して外界の表象を作り出すというデカルト的世界ではなく、環境と相互作用しつつ世界を受容する身体-自己という像を説明する。自己は環境と相互作用する身体なしには存在しないのだということが強調される。
 ここから著者は従来の心理テストが性格を不変な自己の属性であるかのように規定することを批判する。「私の性格の同一性とは、せいぜい種類の同一性、あるいは「家族的類似」でしかない」とする。この心理テストへの批判というのは確かにそうだと思う。性格テストなどを受けたことがあるが、質問の項目についてはそのときの場合によって異なるなということが多々ある。そうしたことを全く無視して選択肢を選ばせるよなテストでどんなことがわかるのか疑問に思っていたので、著者の批判は十分納得がいく。心理テストはテストする者がどういうことを評価したいのかということを考える必要があるのだ。著者の指摘するように、問題は「パーソナリティの概念は人生のある特定の場所や局面で有用とされている特性だけを測定し、その他の場所や局面で発揮される特性を捨象している、という事実が等閑視され」ていることだ。
 第三章では外から接近できない内面性というものが批判の俎上にのせられる。
(1)私秘性、(2)閉鎖(世界)性、(3)「意味されるもの」性を批判し、個別性や個人の意識が周囲の環境や他人との距離を置いて接するようになることから生まれるものであることを強調し、「内面性は抽象的に成立するものではなく、他人の視線から物理的に遮蔽された空間を必要とする」と述べる。
 第四章では個性の問題が取り上げられる。個性には「独自性としての個性」と「人格としての個性」という二つの意味があり、これらが混同されがちであることに注意を促す。個性を育てることは、特定の共同体や人間関係に束縛されない尊厳ある個人を育てることにこそあると著者は主張し、その営みが愛であると述べる。巷でいわれている個性を育てるということが実際はその社会にとって有用な基準が忍び込まされており、それに合わない個人は否定的な評価しかうけないことを批判する。このへんは議論の対象が急に拡がっており、限られたスペースではやや議論が足りない印象を受ける。改めて別の議論をしたほうがいいようだ。
 第五章ではまたギブソンの身体論にもどり私たちの身体図式というものがいかに環境に埋め込まれて形づくられているかを幻影肢を例にとり説明する。後半ではその身体にもとづく所有論へと発展するが、ここもスペースが限られており議論不足の感じがする。いずれも非常に発展性があり、斬新な視点であるだけにもっと頁をさいて論じて欲しい部分である。叢書という形式からこれも仕方がないか。
 全体をとおして非常に興味深い論点を数多く含んでいる著書だと感じた。読んでみるとわかるが、「心」が”うち”にあるのか”そと”にあるのかという従来の図式に則った二分法では意味がないということに議論の核心があるから、本書の表題のつけかたはちょっとまずいなと思う。同じ著者による叢書(『善悪は実在するか』)も最近出版されており是非読んでみたい。
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ギリシア文学散歩

 『ギリシア文学散歩』(斉藤忍随著、岩波原題文庫)を読む。
 日常生活の雑事に忙殺されて読書時間が少なくなると、本を読むという自分なりの日常のリズムも乱れてきてしまう。これはおそらく散歩の習慣などと同じことで歩調のリズムが乱れるといろいろなところに不調を感じてしまう。そのようなときに本書のような日常とはかけ離れた題名の本を手にとってみたりする。本書はアポローンという神を一本の軸として古代ギリシア文学・歴史の著作を通覧していく。アポローンといえばギリシア神話の代表選手であるが、このペルソナは序で紹介されているように多様である。音楽・芸術の守護神という連想を抱かせる若き美青年(当世風にいえばイケメンというのだろうか)像であるが、この神の名の由来については諸説あるらしい。

 アポローン(Apollon)の場合もそうで、様々な禍いや悪を「洗い浄める者」(apolouon)、「解放する者」(apolyon)というのがプラトーンの説だが、第一どこまで彼が真面目に論じているのかもあやしく、「滅ぼす」(apollymi)に起源を探るギリシアの俗説とともに、信頼するに足りないのである。
 最近、学者の間で重要視されているのは、アポローンの古形を"Apulunas"に求める解釈である。これはヒッタイト語で記された碑文の中に出て来る神の名で、その神は円錐形の無造作な形であらわされ、家々いの戸口を守護する役に当たっていた。学者はさらにバビロニア語の「門」を意味する"abullu"にその起源を探りあてて、この解釈を完成しようとするが、そうなればアポローンの語源的意味は「門の神」ということになる。

こう著者は述べ、解釈を一義的に決定することの困難さを述べつつこの散策の一歩をホメーロスから始めていく。
 優雅な散歩のようであるが、ギリシア古典に不案内な私にとってはこの散歩も大変である。アポローンの姿がなかなかつかめないのだが、この神に限らずギリシアの人々は自分たち人間の姿が同一でありながら様々な場面でまるで反対の判断をしたり、不合理な選択をしたりする不可解さを神に投影したように思われる。歴史の場面でも神々が登場するのは、この自らの不可解さを彼らなりに表現したものなのだろう。現代ではそれを偶然性や無意識などで説明するのであろうか。
 古代ギリシア文学においても人間は当然登場するし、これはまた向う三軒両隣の私たちと同じような人間であり、今でも変わらないメンタリティをもっている。だからしばし文学散歩というように雑事を忘れることも難しいのである。たとえば戦争を記録したトゥーキューディデースは「戦争は暴力を説く教師である」(ho polemos biaios didaskalos)と断言したということが紹介されていたりする。

それは戦争というものに対して加えた疑いようのない評価的言葉である。戦争は国家を、結局は人を暴力的にする。そういう直接の例として彼はケルキューラにおける内乱をあげている。アテーナイ側にたって勢力を張っていた民主派と貴族派の間に争いが起きた時、ただ個人的憎悪のためや、債権者であるという理由で、反民主派のレッテルをはられ、惨殺される者が多かった(第三巻八一節)。(中略)
 『歴史』は、このように、戦争によって心の狂った人間の暴力行為を次々と見せつけて、読者の心を暗くするが、さらにやりきれないのは、「人間性が同じである限りは」、こうした行動が「未来にも起こり続けるであろう」という、トゥーキューディデースの無残な言葉である(第三巻八二節)。「人間性」(ピュシス・アントローポーンphysis anthropon)と言えば聞こえはいいが、彼が注視していたのは、言うまでもなく人間の愚かさである。平生は人間の中にまどろんでいるが、戦争に誘われて爆発する狂気である。

こうしたくだりを読むとトゥーキューディデースの洞察の深さへの感嘆よりも人間の変わらない業に暗澹としてしまう。いずれにせよ人間は戦争により狂気を増幅させてしまうものである。一見合理的に見える原理主義的言動でもその行為に戦争が入ってしまうと暴走していくことは明らかであろう。ある国の政治家は自国の憲法よりも国連憲章の方が重要であるとするようなコスモポリタンのようであるが、たとえ武力行使をすることになっても慌てて担ぎ出した錦の御旗の方を優先させるような原理主義の末路に待っているものは悲惨な運命でしかないだろう。どうも散歩の足取りが重くなってしまった。

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「走れメロス」にこだわる

 岩波の「図書」10月号に掲載されていた安野光雅氏の随筆『「走れメロス」にこだわる』を読む。氏は以前にもこの題材でエッセイを書いたそうだが、

文学作品としての価値をとやかくいうのではない。現行の中学校検定国語教科書の総てに掲載され、日本中の生徒が嫌でも教えられる仕掛けになっているために、「友情」のロジックを問題にしたいのである。

と冒頭で問題提議をする。
 この掌編は私も中学校時代に教科書で読んだので、もうそうとう長い期間教えられてきたわけだ。総ての国語教科書に掲載されているとすると、義務教育であるからほとんど総ての日本の中学生の人口に掲載年数を乗じた数の人間はこの掌編を読み、かつ中学校で「友情」なるものの大切さを教えられてきたことになる。影響は甚大である。
 したがって筋を改めていうまでもないだろうが、要約すると
1.「邪知暴虐」とされる王がいて、それにメロスは激怒する
2.その王を排除すべく単身城に乗り込む
3.死刑となるが、妹の挙式のために三日の執行猶予をもらう
4.その間友人のセリヌンティウスを人質としてメロスは城を出る
5.挙式を終えてメロスは走って城へ帰り、ぎりぎり間に合う
6.信義というものを知り、王は悔い改めてハッピーエンド
というものである。
 安野氏は、王が暴虐であるとあまりにも単純に信じ込み、排除するため単身城に乗り込むことの素朴蒙昧さをまず指摘する。現代社会では明らかにこれはテロであると。
 そしてメロスの勝手で人質にされてしまったセリヌンティウスの立場をもっと考慮すべきであるとし、こんな身勝手な友情の不合理さを非難する。確かにこんな友人が身近にいたら安心して夜も眠れないだろう。

「友情」という言葉にはふしぎな呪術性があり、「それでよかった」と強引にかたづけられているが、親友ならなおのこと、命に関わる「人質」を一方的に押しつけるべきではあるまい。(中略) この友情を美談として教えられるような人(教師)は、セリヌンティウスの立場を甘んじて受け入れられる人に限るであろう。

ご説ごもっともで、今改めてこの話の梗概を知るととうてい承服しがたいものがある。それにしても今回私が意外に感じたのは、メロスが友人の承諾なしに人質としたのだったということを知らされたことだった。私はいつの間にか、あの「悪い」王が彼の友人を人質としたのだと思い違いをしていたのだった。まったく人の記憶というものは、あてにならないものである。ある人が「悪い」とされると、その人がなんでもかんでも理不尽なことをしたのだと思い込んでしまっているのである。理不尽な約束をしたのはメロスのほうだったのだ。教科書の物語ですらこうなのだから、実生活での記憶も当然そのときの快不快の経験により歪曲されるだろう。ひどいやつだと思い込んでいる人は本当は勝手に自分が思い違いをしているのかもしれない。証言にもとづく歴史的事実もかなり証言者のバイアスがかかっていることを後世の人間は頭に入れて評価する必要があるだろう。歴史事実の認定において実証性はやはり不可欠なのだ。
 それにしてもこうしたどう考えても理不尽な友情が美談として長年教科書で教えられてきたということの方が問題かもしれない。一見対等な友人関係に見えるが、この人質要求を(その不合理性に意義を唱えることもできず)拒めないセリヌンティウスは明らかにメロスとは対等ではない。王を仮に敵国として、メロスが自国、セリヌンティウスがその国民とするならば、これはもう検定教科書としていいたいことは明らかだろう。「美しい友情」のためなら理不尽な要求でも引き受け、命を差し出すのが善なのだ。このとき王がなぜ悪なのかを議論してはいけない。メロスが悪だと決めたから悪なのだ。当時無批判に読み流してしまった自分のことを考えると、こんなふうにして「教育」ってできるのだなあと恐ろしくなってしまった。平和教育の大切さなどと言っているが、平和一辺倒であればそれは戦時下の教育と本質は同じなのだ。本当に重要なのは別の角度から考えてみることの大切さを教えることなのだと思う。

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<個>からはじめる生命論

 『<個>からはじめる生命論』(加藤秀一著、NHKブックス)を読む。
 生命一般についての功利的議論から成り立つ生命倫理に対する批判をおこない、「誰かがいる」という視点から生命倫理を考えていこうとする著書である。前半では「ロングフル・ライフ(wrongful life)訴訟」という聞きなれない問題について論じている。これは重篤な先天的障害をもって生まれた人が、自分に与えられた生そのものを損害であると主張して中絶という選択肢をとらなかった医師に賠償請求する訴訟である。著者はもちろん生そのものが損害であるという主張は退ける。しかしここで生命一般のかけがえなさという論点から反対するという立場に立つことを拒否する。生命一般から論じていくと、生命の質や価値の問題が派生し、さらに「生きるに値する」あるいは「値しない」生命という考え方が生まれてくることを著者は批判する。著者は倫理という問題をもっと具体的な呼びかけ、それに応答する「我」と「汝」の関係を基礎において考え抜こうとする。

もしこの世界が生命で充ち満ちていて、しかしあなたや私のような人称で呼びかけられる存在者たちがいなかったなら、私たちはいったい<誰>のために考えればよいのだろう。倫理にとって重要なのは「生命」でも「いのち」でもない。そうではなくて、私たちが互いに呼びかけあうとき、あるいは呼びかけようとするときに、その呼びかけが差し向けられるべき点としての<誰か>であり、そのような<誰かが生きている>という事実こそが、守るに値する唯一のものなのだ。

 たとえば脳死の問題については、その脳死者が生きてきて積み重なった人間関係を重視することになる。翻って胎児ではどうか? 胎児はまだそうした時間の積み重ねはないから将来に期待される潜在性を除外すれば自由に処分が可能ではないのか? 潜在性と関係性のなかで積み重ねられた時間性の二者択一の問題ではないと著者はことわりつつ、胎児は「まだ<誰か>であるともないともいえない<両義的存在者>であるというアンチノミーを肯定したうえで、関係者(妊婦・胎児・精子を提供した男性など)の利害をできるかぎり妥当なやり方で調整するというプラグマティックな態度をとるべきである」と述べる。その上で出生前診断などによる選別が許容されるのかどうかについては、「プライベートな選択がしばしば広い意味での差別を内包していることを冷徹に認識したうえで、それをうまく飼い慣らすための制度設計をすること」が重要であると説く。
 こうしたことからある条件の下では中絶も許されるのではないかと考えられるのだが、後半では生まれることで苦痛を経験せざるを得ないような胎児については、生まれることすなわち存在することと苦痛を経験することが一体になっている場合は、危害が加えられることとは全く別問題であるとして障害児を産むことが悪いという主張に反論する。障害をもたなかった胎児に障害を負わせることは、環境を破壊することによって将来の人に危害を及ぼすことと同じなので、他者危害の原則から許されない。しかし障害児を産むことは、環境破壊が進んだ世界で子どもを産むことと同様であるから、障害児を産むことを否定することは、環境の悪化したような境遇の人は子どもを産むべきでないということになると著者は論じ、それは優生学的であり許されないと主張している。しかしこのアナロジーはどうもしっくりこない。そもそも障害児を産むことを断念する(すなわち中絶する)という状況は、その胎児が生まれても苦痛しか味わえず短命であることが確実だから選択するという状況なのだから、環境問題の比喩でいえば地球滅亡が確実で資源も底を尽いているという状況(つまり子どもが生まれてもすぐに地球もろとも滅ぶという状況)で子どもを産むべきではないということに比較される。これがいいかどうかはさておき、その状況を無視して障害児を産むことを一般を否定するというのは少々議論が飛躍している。著者は功利主義的生命論に反対であるようだが、そもそも個別的な関係論を超えて功利主義的な形で一般論をたてないと解決が難しいからこうした議論がなされているのだから、条件付きで先天的に重篤な障害をかかえた胎児の中絶は許されるのではないだろうか。
 最終部ではアガンベンとアーレントを引用して政治に利用される生命論の危険について警鐘を鳴らしている。価値付けによる選別が問題視されているが、極端な場合を除いて多少の障害があっても新生児の生命は救われており、医療技術の進歩によりその範囲も広がってきている。生命の一律な価値序列付け問題だという議論はもっともであるが、それに対しては障害者であってもその後の人生で多様な価値を発揮できるよう社会や政治をを変えていくことがむしろ重要だろう。それより日本では経済的な理由による中絶が堂々と認められているようなことがより深刻な問題である。生命倫理の学者は先駆的医療において生じる小難しい問題をあれこれ論じるにもかかわらず、こうした現状を変えようという動きを起こさないのはどうしてだろうか。

本書で出てくる「ロングフル・ライフ」というのは適当な訳語がないのだろうが、一般に日本ではロングというとlongが連想され、wrongは出てこないし、LとRの発音は区別できないので非常にわかりにくくなる。適当な訳を当てるべきだろう。

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「自由」は定義できるか

 『「自由」は定義できるか』(仲正昌樹著、basilico社刊)を読む。 
 自由とは何かという問題について、国家や宗教、経済活動に関する自由といったマクロ的な問題から切り込んでいき、精神の自由の問題へと考察をすすめていく試論である。力点は当然後半にあり、前半は自由の思想的系譜をたどり個人の自由を論じるための導入部といえる。前半部を通して個人の権力を抑圧する国家に対してどう個人の自由を確保するかという問題からどのような領域においてどの程度まで個人の自由を認めるかということが現在の問題となっていることが説明される。著者によればサヨクの人は問題の焦点が変化しているにもかかわらず、相変わらず国家を抑圧する装置と解釈している硬直した人々である。それはともかく自由を論じるにあたって、効率という視点から自由の問題を論じる立場と倫理的な視点から自由の問題を論じる立場を区別しておかなければ、おたがいに話が通じなくなり混乱してしまうことに著者は注意を喚起している。論者によっては効率という点から自由の重要性を論じつつも、こっそりと倫理的な観点を導入していたりするから余計に話はややこしくなるわけである。
 物質的な利害を中心に効率を重視して動いていく近代社会では、自由の空間はもっぱら私的な「家」の中である。「公」の空間では効率を最大限にするようなルールを設定する一方で、私的な空間では他社危害の原則が遵守される範囲において個々人の決定に任せていく。問題は社会が複雑化すると共に自己決定に任せていい範囲の境界が不鮮明になってきたことである。「他人に迷惑をかけさえしなければ」個人の自由が認められるというその前提が、流動的になった。喫煙の問題やインターネットの問題など例をあげればきりがない。人が主体的に自由に振舞おうとすればするほど、その都度高度な判断をしなければならなくなり、かえって不自由を感じるという矛盾した事態になっている。以前は完全に私的な領域だった家庭内の問題についても公の視線によって侵食され、個人の裁量範囲が狭くなりつつある。さらに見えないところでさまざまな規制があり、個人の選択の余地が知らず知らず狭められている場合もある。ひどく窮屈のようだが、面倒な判断をせずにルールに従っていさえすれば文句はいわれないから、かえって楽(自由)だともいえる。それでいいのだという人に高邁な自由論を押し付ける自由は許されるのか。

人間というものはおしなべて、常に何らかの形で社会的な抑圧を内面化しており、ある意味、マインド・コントロールされながら生きている。そうした”内面化された抑圧”のせいで「自由な行動」が妨げられている。しかしそうした”抑圧”からの全面的な解放を求めると、「積極的自由」論の罠にはまっていき、”究極の自由”を追い求め、それを他人にも強制することになりかねない。”究極の自由”を目指しての「心の問題」の介入は、何かのきっかけで、”究極の不自由”に転化してしまう恐れをはらんでいるのである。

内面化された社会的な抑圧を取り除くことで本当の自由が得られるというのは幻想ではないのかと敢えて問うことはできる。むしろ抑圧があるから私たちは自由の女神を見ることができるのではないか。社会を抜きにしての真空の自由と云うものはおそらくない。

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