死と誕生2

 『死と誕生』(森一郎著、東京大学出版会)の中でH.アーレントが学位論文として著した『アウグスティヌスにおける愛の概念』に後年加筆訂正して、改めて公刊するつもりだったことが紹介されている。結局この作業は完成せずにアーレントは亡くなるのだが、遺稿から再編集されて1996年に出版されているという(H.Arendt, Love and Saint Augustine, Edited and with an Interpretative Essay by J.V.Scott and J.C.Stark, The University of Chicago Press 1996、LSAと略)。
 『死と誕生』では、LSAの第二部「創造者-被造物」において死とは逆方向への動き、すなわち原書へと遡るアーレントの視点を重視し詳細に分析している。来るべき未来へそしてさらにその彼方にある絶対的未来での至福の生への志向が成り立つためには過去への関係-想起と記憶-が欠かせないことが述べられる。

至福の生の可能的実存についての知は、すべての経験に先立って、純粋意識に与えられており、この知が請け合うからこそ、未来において至福の生に遭遇したあかつきに、それが至福の生だということが分かるのである。アウグスティヌスにおいて、至福の生についてのこの知は、たんなる生得観念ではなく、意識の座としての記憶のうちに特別に保存されているものなのである。それゆえこの知は、過去を遡って指示する。至福が絶対的未来へと企投されるとき、その至福は一種の絶対的過去によって請け合われている。というのも、至福についての知は、われわれのうちに現前しているものの、この世のいかなる経験によっても断じて説明がつかないからである。

アウグスティヌスは、人間に先立って存在している世界と時間の始まりと、人間の始まりとを区別する。アウグスティヌスは前者の始まりをprincipiumと呼び、後者の始まりをinitiumと呼んでいる。始めに(in principio)という言葉は、宇宙の創造を指す-「始めに神は天と地を造った」(創世記一・一)。他方、始まり(initium)は、「魂」の始まりを、すなわち、たんなる生き物ではなく人間の始まりを、指す。アウグスティヌスはこう書いている。「この始まりは、それ以前には決して存在しなかった。そのような始まりがあるようにと、人間は造られた。この人間以前には、誰もいなかった」。(中略)人間とともに造られた始まりは、時間および宇宙全体が何も新しいことは起こらずただ無目的永遠回帰運動をひたすら繰りかえすことを、妨げることとなった。それゆえある意味では、人間が造られたのは、新しさnovitasのためだった。おのれの「始まり」もしくは起源を知り、意識し、想起することができるからこそ、人間は、始める者として活動し、人類の物語を演じることができるのである。

 絶対的始原とは異なる再来-反復でありながら新しい始まりとして誕生する人間は、その起源へと遡行しつつ始めることのできる存在である。これはなんと力と希望を与えてくれる哲学ではないだろうか。
 アーレントは、起源への遡行において「始まりの記憶」の重要性を説く。人間存在に統一性と全体性を与えるものが、ハイデガーのいう死への予期ではなく、記憶であることを強調する。

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ラカンはこう読め!

 『ラカンはこう読め!』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、紀伊国屋書店刊)を読む。
 ここしばらく体調不良と多忙のせいでほとんど”本らしい本”を読んでいない。久しぶりに書店に立ち寄り、ジジェクの新刊を購入した。今まで数多くのジジェクの著作は翻訳されているので、屋上屋を架す観がなきにしもあらずだが、簡潔にまとめられており、おさらいするには手ごろかと思われる。ラカンの思想を解説するにあたって、ジジェクが使う卑近な例は今までの著作の中のあちこちで使われているものである。
 ラカン理論の入門書という位置づけであるが、基本的公式を一つ一つ説明していくという入門とは異なり、さまざまな事象をラカン刀を使って腑分けをしてみせながら、「これってけっこう切れるでしょう?」と実演する形である。料理の作り方を基礎からまず説明してからではなく、実際に作りながら説明していく方が、説明される方は眠気を催すことはない。こういうやり方はプラクティカルでイギリスらしい感じがする。グランダ社が刊行している「How to read」シリーズの一冊ということだが、「How to use」という方が適切かもしれない。他の解説書もこんな感じなのだろうか。
 本書では「現実界」についてジジェクは頁を多く割いているので、後期ラカンに焦点を当てている。そしてラカンの説く<現実界>は、刺激的である。

 もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の<現実界>にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが<現実界>との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な<現実界>と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる<現実界>)に耐えられない人のために現実があるのだ。

 ラカンのいう<現実界>は、永遠に象徴化を擦り抜ける固定した超歴史的な「核心」という見かけよりも、ずっと複雑なカテゴリーだということである。それはドイツ観念論者イマヌエル・カントが「物自体」と呼んだもの、すなわちわれわれの知覚によって歪曲される前の、われわれから独立した、そこにあるがままの現実とはいっさい無関係である。

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欲望について

 『欲望について』(ウィリアム・B・アーヴァイン著、竹内和世訳、白揚社刊)を読む。
 著者は本書の末尾にある紹介ではオハイオ州デイトンにあるライト州立大学哲学科教授とあり、大学での欲望についてのセミナーがもとになり本書ができている。通読してみると心理学や進化学、宗教など周辺分野に広く目配りしながら人間の欲望について考察したものである。わかりやすく書かれてある反面、特定の領域に深く入り込むようなものはないので、その分野について特につっこんだ考察を求める人にはやや物足りない印象が残るだろう。欲望というとフロイトやラカンは避けて通れないところだが、このあたりの精神分析的な考察はあまりないのが残念だ。
 それに対して欲望の生物学的基盤があることは是認しており、人間のつくる社会によって欲望が構成されたものだとはしていない。すなわち生存のために適した欲望-報酬機構が生得的に備わっており、進化的にみてそれがうまく作動したおかげで人間は今まで生存できていることを認めている。本書ではBIS(生物学的インセンティブ・システム)と名付けられている。このこと自体はただしいと思うが、この欲望のシステムは「人類が種として栄えることを可能にしたが、多くの場合、それは私たちを個人として幸福にはしなかった」と述べられており、淘汰が個体レベルで起きる現象であることの誤解があるようだ。あくまでもBIS(というものがあるとすれば)は個体の生存と子孫の繁殖に適したシステムであるはずだ。これによって個人が必ずしも幸福になっていないというのは、人間がBISによって得られる生存環境から大きく逸脱するような環境、そしてときにはBISにより獲得できる環境自体を否定するような環境さえも欲望できるように進化したためだからだろう。そして人間の欲望は、単に環境中のモノを欲望するだけでなく、欲望を欲望するという高階の欲望システムがあることが人間を悩ませることになったのだと思う。しかしおそらくこのことは、他者が何を考えているかを素早く察知し判断する神経回路が社会的生物としての人間の生存上不可欠だったからだろう。社会によって構成される欲望はまさにこの欲望の欲望システムであり、私たち人間にとって問題なのはこの欲望である。この二種類の欲望をもう少しきちんと区別して論じるべきではないだろうかという疑問が残る。
 これは後半の欲望をいかに制御するかという問題、すなわちどう適度なところで満足すればいいのかを考える場合にも必要になる。古来さまざまな宗教は我欲を捨てることを説いているが、人間であるが故の欲望が、人間社会で生活するためのシステムである以上、それを捨てるためには当然世捨て人になるしかないだろう。この正解はないのであるが、BISとして備わっているからしかたがないというのが一つの達観というならば、それはちょっと早急な諦念だというべきだろう。

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時間と絶対と相対と

 『時間と絶対と相対と』(入不二基義著、勁草書房刊)を読む。
『哲学の誤読』でも触れられていたが、過去や未来の実在についての議論をはじめ、『時間は実在するか』で詳しく議論されていたマクタガードの時間非在論への論駁、そして「運命」についての議論が書かれている。いずれも非常に強靭な思考で議論が進められていて山登りをするような読書だった。山登りと違って登頂してしまえば終わりかというとそうではなく、もう一度議論を辿りなおさねばと痛感させられるところが違うのだが・・。
 下手な要約をここに書くより著者自信により冒頭に書かれている序章を読む方がよい。各章ごとのアブストラクトが簡潔に記載されている。これは大変有り難かった。
 時間論のところでは、「現在」というあり方には二重性があり、「まさに現在である」という比較不可能な現実性を意味すると同時に、未来や過去と同列に並べて比較可能であるような「可能的な現在」の落差を指摘している点、そして時間が経過するという変化は、他の状態や性質の変化とはまったく異なったもので、「変化の中から切り出される固定的なものに対しての、さらなる高階の変化」であることを指摘している点が重要だ。これはそもそも私たちが生きているこの状態を言語というものを用いて固定化して考えようとすることから必然的に生じる宿命ではないだろうか。
 この現に今あることの絶対性は、最終章の運命論でも重要な意味をもつ。アリストテレスとテイラーの運命論について論じ、後者の排中律に焦点を合わせた強い運命論は、形而上学的な運命論であることを示し、それは「現実性」と「現在性」と「必然性」が一つになっているものであることを示している。
 「現にいまこうであること」を感じることは論理からは導きだされないことである。デカルトが「今こうして考えていること」を哲学の起点においたのもこのことをまず引き受けざるをえないと考えたからだろう。
 読み続けなければいけない本というものがあるが、本書がその一冊であることは間違いない。
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哲学の誤読

 『哲学の誤読 入試現代文で哲学する!』(入不二基義著、ちくま新書)を読む。
 いろいろな意味で面白い本だった。
(1)まず素直に哲学論議として面白い。とりあげられているテーマとして他者の痛みの問題、過去および未来の時間の問題といった興味深いものだし、それについて考察している文章が野矢茂樹、永井均、中島義道、大森荘蔵という錚々たる論者だからだ。入試現代文なしにこれらの論者との哲学的対話としてもじゅうぶん本になるし、読めるものだ。著者も冒頭で触れているが実在論対非実在論という通奏低音が流れており、この問題を意識しながら読むと統一的に理解がしやすい。

(2)入試問題についての議論としても面白い。これまで入試現代文をとりあげ、その問題点を論う本は多く出版されていると思う。曰く問題文のとりあげ方が悪い、出題意図が不明確だ、問題文の著者自身にも解けないような問題だなどなどとして国語教育を撃つといったものだ。これは本書が哲学の「誤読」と題されているから問題の不適切さやその解答例の「誤読」を論じるのは当然である。読者は素直にその問題な部分にふれて入試問題の問題について驚いたり、怒ったり、憂えたりできよう。しかしそれと同時にこうした形式で「哲学」について読むことで、「哲学」がこんなふうに「誤読」されるのだということを知らされたことが新鮮な発見だった。もちろん私自身問題を解いてみて自分の誤読について蒙を啓かれたところもあるが、自分が思っても見なかった「誤読」で問題の解説がされているのを読むと、こういう「理解」もあるのだと驚かされた点も多かった。哲学の議論は先行者の考えを正当に理解した上で反論がなされ発展する場合もあろうが、「誤読」して反論がなされ結果として面白い展開となる場合もあろう。そんな可能性を考えてみる楽しさも味わえた。「誤読」がすべて非難されるべきものでもないのだ。
 それにしてもこんな難しい問題を入試の勉強として解いていたのかなあ。これがすらすら解ける高校生とはどんな人なんだろう。

(3)本の作り方として面白い。これは内容とは直接関係ないがこういう変わった切り口で哲学の本というのが作れるのだという発見があった。「哲学入門」の本であるが、当然このような形ではないふつうの入門書は書けるだろうが、本書のような取り上げ方のほうが数段面白くなる。他者の企画でくだけた講義調での入門というものがあるが、あれよりはより自分で深く考えることを促される(これはそれだけ試験勉強という強力な条件付けを私たちが受けてきたという皮肉な結果であるかもしれない)。そしてこれが著者の他著(『時間と絶対と相対と』)への絶妙なイントロであり誘いになっている。事実この本を読んで、私はこの著書を読もうと俄然思ったのだ。企画力の勝利というべきであろう。

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エンハンスメント

 『エンハンスメント バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』(生命環境倫理ドイツ情報センター編、松田純・小椋宗一郎訳、知泉書館刊)を読む。
 エンハンスメントというのは、診断や治療、予防、緩和について現にある可能性を改良ないしは拡張することで、特に健康の回復と維持を超えて能力や性質の改良を目指して人間の心身の仕組みに生物学的介入をすることである。病気を治すというのはもともと維持されてしかるべき健康状態にもどす作業であり、病める者の行為であり医者の援助を必要とすることがしばしばある。エンハンスメントでは一人で成し遂げられる行為ではないということ、必然的に先端医療技術を必要とすることが大きな違いであろう。したがって結果は同じでも練習や鍛錬で強靭な肉体を作ることと、遺伝子導入技術で同様な肉体を作ることは異なる行為であるといえる。目的や結果が同じであってもその過程は倫理的な評価の対象となる。これは大学に入学するという目的があり、結果として入学したという結果が同じでも実力で合格するのと裏口入学するのでは評価が正反対になることでも分かる。したがってエンハンスメント技術がスポーツなどの分野に積極的に応用されるようなことは(少なくとも公式には)受け入れられにくいだろう。この問題は本書の第VI章でとりあげられている。
 では美容整形ではどうか。外科手術を受けて美しくなるのと、(仮にあっての話だが)遺伝子操作技術で美しくなることが結果として同じで費用も負担も差がないのであれば許されるだろうか。この二つの差については本書の第V章では論じられていないが、美容外科という技術が損傷からの回復だけではなく標準以上の容姿容貌を賦与することに対する基準はどこで判断すべきなのだろう。ここでは美容外科技術がある特定の美的偏見を再生産している点も取り上げられている。この分野も通常は公的医療負担とはならないので限定的だろうが、特定の容貌を持つことで本人が精神的に非常な困難を強いられていると客観的にかつ公正に判断される場合は、エンハンスメント的な医療は許容されるのだろうか。そうした治療を施すことでその当人が単に治療前の精神的苦痛から解放されるというだけでなく、その容貌容姿のために莫大な経済的利益を得たとしたらどうだろう。そういう可能性も考慮に入れても公的負担で医療を施すことは許されるだろうか。
 本書では、さらに医療に近い領域として低身長に対する成長ホルモン治療や向精神薬によるうつ病の治療についても論じられている。身長を伸ばすことはどこまで許容されるのか。通常は平均的な身長まで伸びたところで治療は終了とされるが、さらに伸ばすことはある意味で美容的な要素が絡んでくる。多くの社会で高身長というのは(特に男性において)美的価値があるとされているからである。病気としての低身長だけにこの治療を限っていいのかという問題もでてくる。
 本書では、病気という考え方を単に生物学的機能不全状態と自然科学的にとらえるのではなく、病者が解釈を要する状態でもあることを指摘している。

 われわれ人間の有機体(肉体)のどんな状態も、一方では、われわれに前もって与えられている。同時にしかし、それはわれわれの解釈の結果であるとともに、解釈しなければならない課題でもある。われわれは或る与えられた状態を解釈し、その状態を実践的課題として受け容れる。その仕方を通してはじめて、その状態が健康状態として、あるいは病気の状態として経験される。病気という概念のなかに自然科学的、心理的、社会文化的なさまざまな構成要素が束になって入り込んでくるということ。病気概念が医師-患者関係のなかで実践的な意味をもって付与される概念であるということ。これらのことは、人間が有機的生命体としての自分自身に対して持つ関係にまさしく対応している。自然そのものからは、いかなる基準も規範も生じない。人間が、自分に前もって与えられた、心身を構成する自然を解釈し、実践的課題として受け容れる仕方を通してはじめて、自然はこうした自己解釈のなかで健康な状態あるいは病気の状態として経験される。解釈を要する自然的に与えられた状態、社会的文脈のなかで病める主体が抱く自己感情、ここから、診断や治癒、緩和と予防という形での医師の課題と任務が生じる。この課題は、個人的なエンハンスメント(増強的介入)や集団的な優生学という形での人間の自然本性を改良しようとする行為からは区別される。

 何を持って与えられた自然とするのかは当然議論の対象となるだろう。私たちはふつう自然な状態についての直感的な洞察力をもっているが、それだけでは曖昧である。偶然的事象がどの程度起こりうるのかという確率的視点が何らかの基準にはならないだろうか。それはおそらくどのようなものを私たちは「運命」として甘受するのかということにも関係しているように思う。
 小著ながら考えさせらることは非常に多く含まれている。

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アブダクション

 『アブダクション 仮説と発見の論理』(米盛祐二著、勁草書房刊)を読む。
 科学的論理的思考の方法である演繹と帰納に加えて、パースがあげたアブダクションabductionという思考法がどのようなものであるかを分かりやすく説明した著作である。この思考法は難しく考えるまでもなく普段私たちが日常生活でも行っている思考法であり、典型的なのは推理小説で探偵が使う思考法である(ホームズがワトソン相手に披露している推理)。そこには前提から結論に至る際にある飛躍があることは確かであり、この部分のために科学的思考というのを厳格に考える人から見るとうさんくさいとされる。著者はその飛躍を肯定的に捉え、「仮説的飛躍」として科学的発見にとっては不可欠のものであるとしている。
 アブダクションでは、第一段階として考えている問題の現象について考えられうる説明を推測し可能な仮説を列挙する。ここでは洞察が必要になる。そして第二段階ではその複数の仮説のなかから最も蓋然性の高いと考えられる仮設を選ぶ推論を行う。仮説を選ぶ段階では、もっともらしさ、検証可能性、単純性、経済性を基準にして選ばれるという。
 パースはこうした思考法が人間に備わった「正しく推論する能力」だとし、これが進化的に適応して獲得した産物であるとする。限られた外部情報を短時間に処理し、有効な戦略を打ち出し生存していかねばらない個体にとっても上であげられた要素は重要であっただろう。ありうるもっともらしい仮説を優先的に検証するようにしない個体は容易に捕食者の餌食になってしまうだろうし、単純性を重んじるというのも検証や考察過程に時間がかかりすぎるようだと生き延びるのもおぼつかなくなる。確かにそれは生存するための思考能力として重要であるが、そうやって進化して獲得した人間の自然に対する洞察力が、自然の真実の姿と一致するというのも不思議な気がする。生物学的な生存戦略的思考という範囲で考えれば、精度の高い推論が外部環境の真実の姿と高い確率で一致するというのは不思議ではないが、生存に明らかに無関係であると考えられる数学や物理学的現象までもそうであるというのは不思議である。果たしてそれらは人間という存在と独立した真実というものなのかという疑問が生じてもおかしくはないと思うのだが、この著作から推し量るかぎりパースはそういう疑問は抱かなかったようだ。

 パースはアブダクションが帰納法と明らかに違う、より「いっそう強力な推論」であると述べている。それは「帰納の本質はある一群の事実から同種の他の一群の事実を推論するというところにあるが、これに対し、仮説はある一つの種類の事実から別の種類の事実を推論」し、「仮説的推論は非常にしばしば直接観察できない事実を推論する」からであるという。またパースは帰納と仮説(アブダクション)の間にある「ある重要な心理学的あるいはむしろ生理学的な相違」を指摘する。「仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す」という。ちょっとわかりにくい説明だが、彼自身の比喩によれば、「オーケストラの種々の楽器から発するさまざまの音が耳を打つと、その結果、楽器の音そのものとはまったく違うある種の音楽的情態が生じる。この情態は本質的に仮説的推論と同じ性格のものであり、すべての仮説的推論はこの種の情態の形成を含んでいる」のだそうだ。既知の要素の組み合わせからでも意外な局面が出現することを発見できるということが習慣的な知を生み出す帰納とは違うということなのであろう。
 後半でも統計的三段論法と発見的三段論法の相違について述べられ、後者が数学の発見的解法と関係していることを論じているのを読むとその比喩も分かるような気がする。

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法思想史講義<上>

 『法思想史講義<上>』(笹倉秀夫著、東京大学出版会刊)を読む。
 これはただの法思想史の講義ではない。面白い講義だ。講義というのはだいたい面白くないというのが相場だがこれはいわゆる教科書にない面白さをもっている稀有な書物である。よくあるように著明な思想家の考えを時代別に列挙するような著述ではなく、著者がいうように思想を一つの流れとして扱っている。しかも読者は著者と同じ船に乗ってその川を下るような醍醐味を味わえる。「法思想」となづけてあるが、話題は時代ごとの文化史や芸術、宗教、軍事、政治など多岐に及んでおり、西洋の思想史ながら日本の思想史とも適宜比較しながら筆を進めているので、総合的な思想史の観を呈している。頁ごとにある脚注も読み応えがある(申し訳のようについている注とは全く違う)。
 上巻では古代ギリシアから説き起こされ、古代ローマ、原始キリスト教へと進む。それに続く中世の部分ではキリスト教の歴史と思想が法思想とどう関係しているかが述べられている。興味深く読んだのは、マキアヴェリ、宗教改革、魔女狩りの各章である。
 マキアヴェリの思想の解説のところは、政治と道徳の分離というところで徂徠と比較してあったり、軍事学のところでは補論として孫子が出てきたりと実に面白い。
 宗教改革や魔女裁判のところでは、単に歴史的な事実の紹介ではなくルターやカルヴァンのもつ改革思想の特性がその時代と密着して論じてあり厚みがぐっと感じられる。また親鸞の思想とも対比してあり、西洋と日本の思想的基盤の異同を考える上でも参考になる。
 これだけ広い守備範囲を一人で著述するといのは驚くべき力業である。下巻は注文済みなのだが早く読んでみたい。
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法哲学講義

 『法哲学講義』(笹倉秀夫著、東京大学出版会刊)を読む。
 法についてのお勉強として購入した本で、「はしがき」にあるように「学部学生と社会人に法の世界・法哲学への道案内をすることと、ものの見方・考え方を訓練すること」を目的としているということでうってつけである。また複数の著者を編集したものではないので、著者の一貫した視点があることもいい。
 第一章は「法と政治と道徳」から説き起こされ、法のみの閉じたシステムを表すのではなく政治や道徳と対比させながら述べている。法解釈は論理的な側面と同時にそうでない側面があり、「過去に制定された法を前提にしつつも、今日の生活にとって妥当な法の運用いかに確保するかにあること、の確認」にあり、「政治におけると同様、法それ自体が目的ではなく、他のものを目的として、それを如何に効果的に-しかし法の枠組を尊重しつつ-実現するかを重視する目的合理的思考であり、柔軟な思考であることが帰結する」と述べる。
 第2編までは総論的だが、第3編からは「国家論」、「民主主義と自由主義」、「戦争責任論」、「抵抗権」、「象徴天皇制の法哲学」など各論的な事項について踏み込んだ議論がされていて興味深く読んだ。
 戦争責任論においては、過去のあやまちを不断に想起するこの重要性を論じている。後の世代が関わる戦争責任は国民の一人としての個人的道徳的責任をどのように内面化するかが重要であることを著者は強調し、日本では天皇制という集団主義のために国民個人の責任が内面化されていないとしている。このあたりの議論は著者も丸山真男について論じた著書もあるだけに力がこもっているし、法律の教科書らしからぬところがあり面白い。この部分は第19章の「象徴天皇制の法哲学」とあわせて読み、「象徴」とは何かを考えながら読むといっそう考えさせられる。著者は日本の天皇の象徴性について戦前と戦後では全く性格が異なることを述べ、

 ・・・戦前の《神=天皇→内閣→臣民》という権限関係は、今やまったく逆転し《国民→議会→内閣→天皇》という順序になったのである。
 天皇はここまでその存在を国民に依存させた関係にあり、したがって憲法上ではその象徴性は全く超越性をもっていないし、「君主の固有権」をもった独立存在でもない。このような象徴性を、ここでは「国民に依存した象徴性」と呼ぶ。

 法的に見て天皇は、君主として国民の上位には立っていない、むしろ、「固有権」をもたず国民主権に服しているのだから、国民相互間の名誉毀損以上の保護を受ける必要はないし畏敬の対象とはなりえない。この点で、たとえば皇室典範が「陛下」などといった秦の始皇帝にまつわる敬称を規定しているのは、奇怪という他ないだろう。

 現行憲法の理念に基いて理路整然とした議論が展開されている。改憲の議論は政治の混乱でやや遠のいた印象があるが、こうした基本的なことは改憲に関わる国民が十分議論しておくべきことだろう。その点では、テキストという性格をふまえこの議論についての対論をいくつか紹介してくれるといいのだが。

 同じ著者の手による『法思想史講義』上下巻が東京大学出版会から刊行されており、こちらも読まねばならない。

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エコロジカルな心の哲学

 『エコロジカルな心の哲学』(河野哲也著、勁草書房刊)を読む。
 ギブソンのアフォーダンス理論を元にして志向性や自己の問題を考察していく論考で、たいへん面白い。それは心というものを身体の中の一つの過程としてとらえているからである。そしてその身体とはそれを取り巻く生態学的環境と切り離しては論じられない。
 著者は志向性というものが、行為としての特徴と表象としての特徴の両面をもつもので、その概念は意図の概念と不可分であることを主張する。志向性の生産説(心的行為が対象を生み出し、その対象は心とは独立に存在しない)ではなく行為説(心的行為と対象が志向性においては不可分であること)がとるべき道であると論じる。

わたしたちの思考は、心の中だけでおこなわれているのではない。思考の対象が思考から独立に存在しえないどころか、その逆に、わたしたちの思考は、すくなくとも相当におおくの場合、客観化された(物質化された)思考の対象から独立にはたらきえない。わたしたちが思考とよんでいるものは、じつは、人工物や文明の産物との制度化されたインタラクションのことなのである。

この表象なるものは、志向性の再現的(反復的)な性格を誤って言いあらわしたにすぎない。行為が成功することによって、行為者と環境のあいだに適応的な関係が成立する。わたしたちが何かを志向するときには、成功した行為をモデルとしている。表象主義者はこの事態を、心の内側にもうひとつの世界(すなわち、世界の表象)を形成したという事態にすりかえてしまう。

結論すれば、表象主義的な志向性の概念は、ある行為が習慣化(ないし社会慣習化)された事態を、自分の内面的な世界が構築されたという事態にすり替えているのである。

 このことから人が多くの場合ある対象について共通の志向性をもつということは、生物学的に規定された共通の身体的構造・機能をもつことに加えて共通した社会的習慣をもっていることが重要だということになる。こうして形成される対象の認識については、どの程度可変的であるかと問うことができるだろう。身体図式が生得的なものであり進化的な制約を負ったものであることを重視するとかなりの部分が固定的なものと解釈することもできるし、社会的習慣を重視するならば可変的な部分が大きいといえるだろう。人間は身体的制約をもちながらもさまざまなコンテキストに応じて身体図式を組み替えていく能力に非常に長けた生物であるといえる。おそらくこれは言語という無限大に可変的な意味生成システムをもったことと深く関係しているに違いない。

 つづいて著者は自己というものが「徹底的に身体的な存在であり、世界に立脚したsituated存在だということ」を強調し、「世界を超えて存在する超越的(ないし形而上学的)な存在ではないと述べる。「知覚のもつパースペクティヴ性は世界の特徴ないし様相ではなく、知覚者の特徴ないし様相で」あり、わたしたちは世界からあるパースペクティヴの部分を切り出すことしかできないのである。世界は部分の総和以上のものであるわけだ。

 最後の部分では自己についてのネーゲルの議論がとりあげられている。確定記述の束としてとらえられない自己についての問題である。すなわち「世界には数多くの人物が存在する。しかしわたしがそのうちのひとりであることはどうして可能なのだろうか」という疑問である。これは永井均のいう<私>であろう。一人称を含んだ言明が非人称的な真理条件が与えることができるからといって、そうした言明が一人称を用いずに済ませることができるということにはならないというネーゲルの主張が正しいことは著者も認めるが、だからといってネーゲルのいう「客観的自己」が現実に存在していることにはならないと反論する。

ネーゲルが客観的自己とよぶものは、「わたし」という一人称単数代名詞の言語的な機能と特徴を実体化したもの以外のものではない。それは、たしかに自然科学によって解明できるものではない。理由は単純で、自然科学は人間の言語を研究対象にしていないからである。しかし、それはいかなる説明も受けつけない神秘的な存在ではなく、特定の「人物」のなかにおさまっている「真の自己」でもない。

「わたし」という言葉は、対話の相手を前にして使用されるときに、そしてその都度その発話者を示すという機能をもったことばだから他の誰でもない「わたし」であるというわけである。確かにこの議論は正しいと思う。しかし人間という存在が言語を使うことにより形而上学的な自己というものを(それがいかに幻であったとしても)描かざるをえないという事実は変わらないことも同じくらい重要なことだと思う。この幻想を抱かざるを得ないというのは、言葉というものをもった人間の「病い」なのだろうか。

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