烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記
烏有亭日乗
寅次郎と殿様
BS放送で放映中の寅さんシリーズを観た。映画の主題とはあまり関係ないのであるが、映画の中でとらやで飼っている「トラ」という犬をさくらの主人が叱りつける場面が出てくる。
戸口のところに粗相をしてしまった犬に対して「トラ!」と呼び捨てにしたのを耳にして、寅さんが自分が呼び捨てにされて叱られたと勘違いして、怒り出す。そして(おそらく拾われた)その犬が自分と同じ名前で呼ばれていることを知り、激怒する。あとはお約束の喧嘩のシーンとなるのだが、そのときに「犬の名前と同じだ」という寅さんに対して、おいちゃんがぽつりと「でも犬のトラはカタカナだから」という。ここで大爆笑。
ろくに稼ぎも入れない無為徒食の居候である寅さんと拾われて飼われている犬の境遇はほとんど一緒であることを観客は前提として観ているから、名前が同じであることに怒る寅さんに対して「そうは言っても同じだよ」と心の中では言っている。とらやの全員もおそらく無意識のうちにトラと呼ぶときにどこか寅さんのイメージをだぶらせていることにうしろめたさを感じているのであろう、寅さんを宥めるために躍起になって悪意のないことを強調する。
ここでは音の同一性(「寅」=「トラ」)から、イメージの同一性(「寅さんのイメージ」=「拾われ犬のイメージ」)という等式が成立しまっている(小難しくシニフィアンの同一性からシニフィエの同一性が生成されているなんてことをいうのかしら)。そもそも名づけを最初に行った人(おいちゃん?)は、イメージが同じだからこそ同じ名前をつけたんだろうけど。普通音が同じでも内容が違うことを示したい(ここでは同じ「tora」と読んでいても意味している内容は違うことを言い訳したい)ときには、その本質的な属性が違うことを列挙して説明するだろう(でも寅さんの境遇と犬の境遇は悲しいほど似てしまっているし、これを知らぬふりをして人と犬は別といっても納得はされないだろう)。どうするか緊張は一気に高まる。
音の同一性は否定しようがないのだが、おいちゃんは同じ「tora」でも一方は漢字で、もう一方はカタカナだという論理でぽつりと切り返すのである。これに観客は肩透かしをくらってしまって、大爆笑してしまう。
これはたとえば英語だったら理解できるおかしさかなとふと考えた。同じ発音の名前でスペルが違う二つの意味の異なる単語の場合というのを想像すればいいのかもしれないが、日本語の場合のような漢字とカタカナの音の感覚の妙味が出せるだろうか。そう考えると普段私たちは、耳に聞こえる音は一緒でも微妙な感情をこめてカタカナで問いかけたり、漢字で応えたりしているのではないだろうか(「ビミョー」なことですかね)。
多神教と一神教
古代地中海世界における神の多神教から一神教への変遷がテーマとなっているが、本書を読んで神の「数」ということを考えた。
存在する神の数が数学での方程式の解の数というもので類推することを許されるのであれば、一神教というのは、方程式の解の数がただ一つに限られる場合であろう。これに対して多神教というのは、解の数が複数あるものといえる。その場合に、解が特定の数でなくてもよいもの、すなわちどの解であっても正解である場合と、ある限られた複数の解のみが方程式を満たす場合とがあげられる。神が存在しないという無神論は、したがて方程式を満足する解が存在しないという場合であろう。
本書では社会の「危機と抑圧」と神の複数性の関係について触れられており、ほかの神々に対して排他的になるときに一神教が成立すると述べられていたが、それは方程式の解の成立条件がより限定的になるということであろうか。
窓
家の内面と外面を交通させる開口部で、人が出入りに利用する部分(扉)以外の部分である。多くの場合ガラスで仕切られ、外から採光することが可能であり、また開放することにより換気が可能な構造となっている。
構造上は、家のうちから外へ、外からうちへという双方向の通行が可能であるが、基本的に窓は家の中にいる人が外へと意識を向け、外の情報を集めるためのものであり、家の中の人が外から光や風を招じ入れる場合に使うものである。外が気になれば私たちは自然と窓から外を眺めるのであり、窓を開け放って光や風を呼び込むのである。そこには中から外へ出て行くものと、外から中へと入っていくものの暗黙の区別があり、非対称性が存在している。したがって家の外にいる人が、窓から中を覗き込んでいる状態を見かけると、私たちはなにか尋常ならざる事態をとっさに感じてしまうのである。
窓が基本的に外からは入りにくく、うちからは出やすくなっているのがいいとされるのはこのためであろう。おそらく太古には私たちの祖先は、洞窟の中からその壁に雨水風雪で穿たれた穴から怖ず怖ずと外敵の動向をうかがっていたのであろう。外敵から守るということを第一条件とすると壁は必然的に厚くなり、当然窓は小さくなる。近代建築の祖であるル・コルビジュエの「建築の歴史は光明を求める苦闘の歴史であり、窓に対する改造の歴史であった」という言葉は、このことをよく物語っている。
現在では建築技術の発達で壁一面をガラス張りした「窓」を造ることも可能となっているが、自分の体よりも大きな窓を前にしたときになんとなくすべてを見透かされているような居心地の悪さを感じてしまい、横にある観葉植物の後ろに身を置いて外を怖ず怖ずと眺めてしまうということを経験するのは、そうした先祖の心性が染みついているからであろう。
カイロスとしての時
今日の会合ですが、あまりにも天気がよかったので、散歩に出てしまい、結局欠席してしまいました。
百周年記念という会合で、お歴々が集まりさぞや盛大な会であったと思いますが、こんな日に建物の中にこもって話を聞くのは、もったいなく思い欠席してしまったしだいです。出席の返事をしておきながら申し訳ありません。
百周年という節目に遭遇したことに、ある運命を感じる人もいるでしょう(君もそうですか?)が、(お叱りを受けるかもしれませんが)私にはどうも単なる巡り会わせという感じしかなく、大きな会が苦手な私は天気のいいことを理由にさぼってしまいました。
流れていく時間の中で、ある瞬間をかけがえのない時(<秋>、カイロス)として捉えるか、ただ継起していく時の一つ(クロノス)として捉えるかという差はどこから生じるのでしょう。ずいぶん前になりますが、21世紀を迎えた時の全世界の熱狂は、おそらくそのカイロスの時を寿いだ世界的瞬間であったのでしょう。あの夜は私は病院でひっそりと迎え、熱狂とはほど遠い時間でした。私にとっては、あくまでも継起する時間の中の一通過点であったわけです。
私にとってのカイロスは、たとえば散歩道で見つけることができた落ち葉の色彩文様と出会えた時であったり、夕暮れ時に金星の清冽な輝きを目にすることができた時であったりするのです。
つまらない独り言になってしまったでしょうか。また今度会う機会があったらそのときがカイロスとなるように祈っております。ではまた。
左見右見 四字熟語
四字熟語になると、多くはその故事来歴があり物語性が楽しめるためと思われる。別役実のこの著書は、四字熟語に内包された物語性を独自の観点から作りあげ、新解釈をほどこしている。
たとえば「天地無用」の中の「天地」にこめられた形而上学性からくる「天地無用」と書かれた荷物の取り扱い方について。また「温故知新」と考古学の関係。
どれも別役実独自の視点が光っており、その解釈を吹き込まれた四字熟語はこの本の中で生き生きと踊っているのである。
『左見右見四字熟語』(大修館書店刊)
ライフ・イズ・ビューティフル
ベニーニの演じる父親は、息子が捕虜収容所での虐待という現実に直面しないようにするために、「これは点数を競い合って、勝利者が本物の戦車を手にするゲームなのだ」と嘘をつく。直面する現実との間に幻想のベールを立てるのである。子供は自らがこの現実を解釈することは禁じられていて、父親の言説に従ってこの現実をゲームだと思いこむ。父親は子供に幻想を与えるために、あらゆる手段を使う。子供がゲームの存在を疑いだしたとき、父親が言うことは、その疑問を頭から否定することではない。「ゲームなんかいつだってやめてうちに帰ることはできるんだ。でもみんながやっているんだ」ということを息子に信じさせることである。自分はやめようと思えばいつだってゲームを降りることができる。でも他の人はそうじゃない。他の人はみんなやっているということを信じ込ませることである。幻想の構造はいつもこういうもので、他者が信じていることを信じているという構造になっている。そうなんだ。父さんはこれが(いつだってやめられる)ゲームだってことは重々承知している。だけどみんながやっているからやめるわけにはいかないんだ。
おそらく人生はこういう構造になっている。誰もみなみんなが明日は来ると信じているからそれを信じて明日へと生きている。
家族三人は強制収容所内で、虐待されるという悲劇を描いたこの映画で回避されている悲劇がある。
それは、父親が作り出したこの幻想のベールに映し出されたゲームを子供が収容所の中で虚構だと察知してしまうという悲劇である。父親は最後まで息子に嘘をつき通す。そして銃殺され「真実」を話すことなく、息子は父親が与えてくれたと信じる戦車に乗って、収容所から解放される。これがもしそうならなかったとしたら、この映画は戦争という悲劇を笑いとばすというものにはならなかったであろう。もし嘘がばれるというストーリーになったとしたら、おそらく息子は最後のシーンで戦車に誤ってひき殺されるか、ドイツ人と間違われて銃殺されるという結末になっていたのではないのか? この映画でほっと胸をなでおろす瞬間は、最後に息子が単に別れた母親と再会できたという瞬間であるが、これは単に離ればなれになった親子が再開できたという理由からではない。父親が突き通した嘘が父親が死んだことで嘘をついた張本人の口からじかに真実が語られる機会が永遠に失われ、そのかわりにその虚構が母親へと受け継がれたために息子が現実という砂漠に「軟着陸」できるだろうということが感じ取れた瞬間だからである。
スター・ウォーズ
監督のジョージ・ルーカスが述べているように、これは現代の神話、西部劇が廃れてしまった後の現代の神話である。エピソード4で登場するルーク・スカイウォーカーは、王家の血筋を引きながら、幼いときに惑星タトゥーインに預けられて育てられた人物であった。これは、神話によくある貴種流離譚のパターンである。
今回登場するルークの父親であるアナキン・スカイウォーカーは、知らず知らずに悪の道へと進み、やがて息子に敵対することになるダース・ベイダー卿になるというのが今回の映画の流れである。今回のエピソード1,2の中では、決定的に不足している役がある。それは父親である。まずアナキンの父親は出現することはなく進行していく。彼の母親は奴隷として使われる身であり、アナキンは自分の父親を知らずに成長していく。父親役をするのが、オビ・ワン・ケノビであるが、精神分析が教えるところによれば、彼はあくまで象徴界を持ち込む「父の名」として機能している。彼の本当の父はおそらくどこか違う惑星で「享楽」している父親、フロイトのいう原父である。アナキンは成長過程で次第にオビ・ワンに対して敵意を燃やすようになる。これは彼が自分を単に一人前として認めてくれないからだけではなく、父親役をしている彼が、自分の知らないところで、自分の手の届かない享楽を手にしているからだという幻想を抱いているからである。アミダラがオビ・ワンに対して抱く信頼感に反し、自分のことは忘れられているという感情を抱くことで、その敵意はますます膨らんでしまう。ここには誰でもあの有名なエディプス・コンプレックスの構造を認めることができる。ここでの彼の悲劇は、父親役が持ち込む象徴界の機能を持ちこたえることができずに、享楽する父親へとなってしまうことである。父親が不在なのは、アナキンの場合だけではなく、賞金稼ぎのジャンゴ・バットの場合もそうである。彼と一緒に行動しているのは、自分のクローンだから実は彼と「息子」との関係は父子関係ではない。
王妃と臣下の恋愛という禁じられた関係という軸がこの物語のもう一つの主題となっている。王妃の立場は全くヒステリー的である。申し出てきた相手の男性を、自分はそういう立場ではないとして拒絶することが彼女の立場である。中世騎士物語の王妃と騎士との関係と全く相同的に、この二人の間の障害があればこそ、この恋愛はますます燃えさかることになるというだけではない。対象に至る道を妨げるような外的な障害物は、そもそも対象にまっすぐたどりつけるという幻想を生み出すためにそこにある。貴婦人は絶対に不可解な他者である。このトラウマ的な他者をラカンは、「もの」として表現している。貴婦人が触れがたい理想的存在へと高められるのは、こうしたトラウマを避けるためのナルシズム的な投影である。
街場のアメリカ論
随所にラカンの洞察が光っている。まえがきにあるように「日本人はどのようにアメリカを欲望しているのか?」という視点にたち分析が進められている。
歴史の因果関係を考察する場合にも、(ラカンにもとづく)内田の指摘のように「原因」が分からないときほど人は「原因」を求めるものだし、自分の深層にもつ「見たい現実」を投影して現実を解釈してしまうのだろう。
アメリカン・ヒローと日本のアニメの巨大ロボットの考察は特に興味を引いた。
「無垢なる子供」のイメージは民俗学的にも日本古来の伝統であるし、それが現代のアニメにの深層に伏流水のように流れていると感じた。
「子供」という概念が近代になり誕生したものであることは『子供の誕生』などの書物からつとに有名であるが、認識の対象が特に子供のような強い情動を喚起する対象である場合には、ことさらその属性が本質化しやすいということだろう。
箴言
この目隠しは遠くのものが見えるという不思議な目隠しである。
だから断崖にかかる一本橋でも笑いながら渡っていける。
よりよく生きようとすることがどういうことか分かっているとき、過大
な身振りは不要だ。
分からないことが多いから、私たちはついつい大げさな身振りをしなが
ら人生という道を歩いていく。
「人間のすべての行為は善を目指す」(ソクラテス)
目指さず、目指し、目指す、目指すとき、目指せば、目指せ・・・
火星を眺めて
2年前には、およそ6万年ぶりの大接近として話題になったが、今秋もずいぶんとはっきり肉眼で捉えることができる。
熒惑出れば則ち兵あり。入れば則ち兵散る。
と司馬遷は記し、熒惑すなわち火星が出ると戦禍が生じるという徴候-因果を宙に読んだ。日本でも禍星と呼ばれていたし、ギリシャ神話でも火星と軍神マルスが結びつけられていたので、闇に煌々と浮かぶ赫い光はただ事ならぬ雰囲気を人に与えるのだろう。白く明滅する光の中の赤い色というと紅一点から女性的なものを連想しがちだが、この赤さはどうも血の赤さを連想させるのか。まさに人を惑わせがちな惑星である。
惑わせるといえば、火星の運河や原始生命の存在など近現代になっても火星は私たちに謎をかけ続けている。まるでスフィンクスのように。
« 前ページ |