カイロスとしての時

 例年よりも暖かい11月でしたが、それでも朝晩はずいぶんと冷え込んできました。街路樹の落葉も目立ち、箒が木々の落し物をせわしく集めています。
今日の会合ですが、あまりにも天気がよかったので、散歩に出てしまい、結局欠席してしまいました。
 百周年記念という会合で、お歴々が集まりさぞや盛大な会であったと思いますが、こんな日に建物の中にこもって話を聞くのは、もったいなく思い欠席してしまったしだいです。出席の返事をしておきながら申し訳ありません。

 百周年という節目に遭遇したことに、ある運命を感じる人もいるでしょう(君もそうですか?)が、(お叱りを受けるかもしれませんが)私にはどうも単なる巡り会わせという感じしかなく、大きな会が苦手な私は天気のいいことを理由にさぼってしまいました。

 流れていく時間の中で、ある瞬間をかけがえのない時(<秋>、カイロス)として捉えるか、ただ継起していく時の一つ(クロノス)として捉えるかという差はどこから生じるのでしょう。ずいぶん前になりますが、21世紀を迎えた時の全世界の熱狂は、おそらくそのカイロスの時を寿いだ世界的瞬間であったのでしょう。あの夜は私は病院でひっそりと迎え、熱狂とはほど遠い時間でした。私にとっては、あくまでも継起する時間の中の一通過点であったわけです。

 私にとってのカイロスは、たとえば散歩道で見つけることができた落ち葉の色彩文様と出会えた時であったり、夕暮れ時に金星の清冽な輝きを目にすることができた時であったりするのです。

 つまらない独り言になってしまったでしょうか。また今度会う機会があったらそのときがカイロスとなるように祈っております。ではまた。
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