『善と悪 倫理学への招待』(大庭健著、岩波新書)を読む。題のとおり道徳的にみて「善い」、「悪い」とはどういうことを意味するのか、そしてそれに基づいた道徳原理はあるのかについて論じた倫理学入門である。道徳的言明に客観性はあるのかということが大きな問題として取り上げてあるが、客観的な実在ということを科学的言明における客観性と対比しながら説明してある。電気が実在するのと同じしかたで善悪は存在するのか。電気の場合は、雷によるライデン瓶の反応という観察事実が電気の存在を証明し、電気の理論がその観察事実を説明する。電気が実在するということが、その観察事実を説明するのに不可欠である。しかし道徳の場合は必ずしも道徳的実在を措定しなくても道徳的な観察事実は説明可能である。したがって道徳的な性質は科学における理論的な性質が実在するのと同じしかたでは実在的でないということは言える。それでは道徳的事実というのは、観察者の主観的な反応を対象へと投影したものなのか。道徳的特性は外的対象へ主観的反応を投影したものであるが、その投影方法が色彩の場合のように単純なものではないため、個人によるばらつきが生じる。そのためその結果について真偽を論じる余地がある。こうした投影論者の説は説得性があると私も思う。著者はそれに対して、道徳的判断というのは美的判断とは異なり、対象からの制約性をもつという性質の重要性を強調し、投影論に異を唱える。美的判断の場合は、判断の食い違いは「趣味の違い」でかたづけられる。
しかし、善し悪しの判断が、食い違うときには、そうはいかない。問題は食い違っている、という事実のレベルにはとどまらない。問は、そのレベルを超えて、いずれか一方あるいは双方の道徳的感受性が「正しく反応していないのでは?」という、規範的なレベルでの問となる。しかるに、正しく反応したということは、その反応が、まさしく対象の側からの制約に導かれて生じた、ということではないのか?
道徳的判断というのは、あるものは極めて強い情動を伴っているものもあれば、法による適応のように規範的、客観的な要素の強いものまで多様であることが問題を複雑にしている。道徳に関する用語でも「誠実」「残酷」などということば(濃密な評価語)は価値判断を必然的に伴っており、それを使用した場合にある一定の行動をとる動機づけとなったり、行動をとることが期待されたりする性質のものである。こうした一連の反応パターンに著者は客観性を見いだし、道徳の実在性を見いだしている。しかし濃密な道徳的評価語は幼い頃からその使用方法をなかば強制的に教え込まれるから、そのことばとそれに付随する価値が密着してしまうので、私たちはそれを外的対象の性質としてしまうほどに実在化してしまうというのが事実ではないだろうか。美的判断については社会生活上許容範囲が広く、強制的な要素が少ないためその対象に備わる性質として実在化してしまうことがより少ないのではないだろうか。実在ということばをどう使うかという問題でもあるが、複雑な反応パターンをもつ言葉ほど逆にコンテキストに応じた複雑な使い方も可能となるわけで、意味の柔軟性、可変性も併せ持っているので、道徳的性質が実在するという表現には慎重にならざるをえない。