善と悪

『善と悪 倫理学への招待』(大庭健著、岩波新書)を読む。題のとおり道徳的にみて「善い」、「悪い」とはどういうことを意味するのか、そしてそれに基づいた道徳原理はあるのかについて論じた倫理学入門である。道徳的言明に客観性はあるのかということが大きな問題として取り上げてあるが、客観的な実在ということを科学的言明における客観性と対比しながら説明してある。電気が実在するのと同じしかたで善悪は存在するのか。電気の場合は、雷によるライデン瓶の反応という観察事実が電気の存在を証明し、電気の理論がその観察事実を説明する。電気が実在するということが、その観察事実を説明するのに不可欠である。しかし道徳の場合は必ずしも道徳的実在を措定しなくても道徳的な観察事実は説明可能である。したがって道徳的な性質は科学における理論的な性質が実在するのと同じしかたでは実在的でないということは言える。それでは道徳的事実というのは、観察者の主観的な反応を対象へと投影したものなのか。道徳的特性は外的対象へ主観的反応を投影したものであるが、その投影方法が色彩の場合のように単純なものではないため、個人によるばらつきが生じる。そのためその結果について真偽を論じる余地がある。こうした投影論者の説は説得性があると私も思う。著者はそれに対して、道徳的判断というのは美的判断とは異なり、対象からの制約性をもつという性質の重要性を強調し、投影論に異を唱える。美的判断の場合は、判断の食い違いは「趣味の違い」でかたづけられる。

 

しかし、善し悪しの判断が、食い違うときには、そうはいかない。問題は食い違っている、という事実のレベルにはとどまらない。問は、そのレベルを超えて、いずれか一方あるいは双方の道徳的感受性が「正しく反応していないのでは?」という、規範的なレベルでの問となる。しかるに、正しく反応したということは、その反応が、まさしく対象の側からの制約に導かれて生じた、ということではないのか?

 

 道徳的判断というのは、あるものは極めて強い情動を伴っているものもあれば、法による適応のように規範的、客観的な要素の強いものまで多様であることが問題を複雑にしている。道徳に関する用語でも「誠実」「残酷」などということば(濃密な評価語)は価値判断を必然的に伴っており、それを使用した場合にある一定の行動をとる動機づけとなったり、行動をとることが期待されたりする性質のものである。こうした一連の反応パターンに著者は客観性を見いだし、道徳の実在性を見いだしている。しかし濃密な道徳的評価語は幼い頃からその使用方法をなかば強制的に教え込まれるから、そのことばとそれに付随する価値が密着してしまうので、私たちはそれを外的対象の性質としてしまうほどに実在化してしまうというのが事実ではないだろうか。美的判断については社会生活上許容範囲が広く、強制的な要素が少ないためその対象に備わる性質として実在化してしまうことがより少ないのではないだろうか。実在ということばをどう使うかという問題でもあるが、複雑な反応パターンをもつ言葉ほど逆にコンテキストに応じた複雑な使い方も可能となるわけで、意味の柔軟性、可変性も併せ持っているので、道徳的性質が実在するという表現には慎重にならざるをえない。

                                                                                                                                                     

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光ってみえるもの、あれは

 『光ってみえるもの、あれは』(川上弘美著、中公文庫)を読む。
 なんだか最近小難しい本ばかり読んでいると、左脳ばかり酷使しているようで脳のバランスが悪い感じがしていた。書店の文庫の新刊コーナーで本書を見つけ、早速購入した。川上さんの小説は、格別文章がうまいわけもでない(ごめんなさい)が、イメージの喚起力がやたらと強く読んでいると行間から絵が浮かび上がるような感じがしてくる。理学部生物学科出身のせいか動物(特には虫類や軟体動物)を用いた比喩は秀逸だと思う。右脳の活性化にはたいへんよろしい。
 本書は、16歳の江戸翠という少年が主人公である。母子家庭というか祖母がいるので、三人家族を中心として、翠の父親である大島さん、翠の彼女の平山水絵、友人の花田、母親と付き合っている佐藤さん、学校のキタガー先生が主な登場人物である。物語は翠の日常を描きながら淡々と進んでいく。花田君の女装、途中祖母の家出、大島さんの五島列島行きなどが起こる。各章の見出しになっているのは、詩歌の一節で、小説の中に上手にはめ込まれており、そのイメージでそのときどきのエピソードが不思議な鮮明さで印象づけられる。この選択もおもしろいなと思うと同時に、これが詩歌の力、ことばの力なんだなあと感心してしまう。実際の日常ではこんなふうに詩歌の一節がうまい具合に出てくるようなことは(少なくとも私の日常では)ない。だからうらやましい。
たとえば



 「女の子とつきあうの、大変じゃない?」しばらくしてから、佐藤さんが聞いた。
 え? と僕は聞き返す。
 「さまよく逃げる」佐藤さんはつぶやいた。
 さまよく? 僕はまた聞き返す。
 「少女子(おとめご)は魚の族(やから)か、とらへむとすれば、さまよく鰭ふりて逃ぐ」
 ゆっくりと、佐藤さんは言った。
 「なんですか、それ」
 「明治時代につくられた歌だよ」
 はあ。僕はあいまいに頷いた。佐藤さんと二人でいると、お互いに頷いてばかりだ。
 「女の子は、つかまえようとすると、魚みたいにするっと逃げちゃう、っていうくらいの意味だな」
 ははあ。
 「明治の頃から、女の子って、今と同じだったんだろうかねえ」


というやりとりや



海にいるのは? 僕が聞き返すと、大島さんは大きく煙を吐きだした。そう。海にいるのは、あれは人魚ではないのです。海にいるのは、あれは浪ばかり。中也だよ。翠も中也くらい読まなきゃ女にもてないぞ。
 その、女にもてるもてないで人間をはかるの、やめてくれない。僕は言い返した。大島さんはまた大きく煙を吐きだした。それから、ふん、と言って、うしろを向いた。


など、少年である翠と大人たちとの会話の中にさりげなく出てくる詩歌が実に自然でいいのである。

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リキッド・モダニティ2

 液状化する社会の中に漂う不安定な個人が増殖することで、共同体論が復活する。

 個人の安定を保障するものの供給は、またたくまに減少したが、その一方で、個人的責任(割り当てられても、実際には、果たされてはいないけれども)の規模は、戦後、前例をみないほど拡大した。個人の安定のためにもっとも欠けていたのは、他者とのつながりの弱さであった。絆のものさ、はかなさは、個人的目的を手にいれるのとひきかえに、個人がどうしても支払われなくてはならない代償だったのかもしれない。

 共同体論が前面に押し出してくるのが、「わが家」としての家であり、家族である。なぜならそこには安定した意味があるからである。そうして共同体的世界は、その外部に敵対者を配置できたときに完成する。最大公約数的存在として民族的共同体が出現する。民族性は、それが「自然の歴史」、「自然の事実」、「自然に理解された必然性」と考えうることに利点がある。著者はここで「愛国主義」と「民族主義」という対概念を提示する。前者は、人間を未完成で柔軟なものととらえる。愛国主義は連帯による統一がすべての人に向かって開かれていると(建前上は)宣言する。民族主義には選択の自由はない。「民族主義において、帰属は宿命であり、選択の対象ではない」。

 この愛国主義と民族主義の相違は、言語上の相違をこえて、政治行動の領域にまでおよぶ。クロード・レヴィ=ストロールの用語をかりれば、前者は「食人的」戦略(外国人を「食べつくして」しまうことによって、外国人は食べた人間に同化され、食べた人間に同化され、食べた人間の組織となり、外国人の特性は消える)を、後者は「異分子」を対外に「吐き出す」、「嘔吐的」戦略を連想させる。

レヴィ=ストロースは、『悲しき熱帯』の中で、他者性に対する方法として、人間は二つしかなかったと述べ、一つが「嘔吐的方法」で、もう一つが「食人的方法」であると述べている。嘔吐的方法は、他者との接触を禁止し、極端な場合は他者を投獄、追放、殺害する。食人的方法は、他者への文化強制であり、他者の「偏見」、「迷信」の撲滅である。社会学者のジンメルも人間は結合と分離という二つの方法を持つと述べていたが、問題はその結合と分離の間に位置する緩衝帯(ジンメルでいえば「橋」をかけて結合する際のその橋渡しの空間)としての公共的空間をどう構築するかなのではないだろうか。

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リキッド・モダニティ

  『リキッド・モダニティ 液状化する社会』(ジークムント・バウマン著、森田典正訳、大月書店刊)を読む。ポストモダンにおける経済の国際化、多国籍化などのともない変化する社会構造を「液状化」と形容し、新たに出現した社会の病状に対するバウマンの診断書ともいうべき著書である。旧態の社会管理体制(フーコーのいうパノプティコン体制)から個人が解放されることで、中央の少数からの多数の監視はなくなった。その代わりに多数による少数の監視社会が出現する。解放と自由の代償が不安定性、不確実性というものだというのがバウマンの主張だ。
 獲得された自由によって個人の選択肢は限りなく増大したが、「選択しない」という自由は許されていない。自由な個人は自らのアイデンティティを確立することを当然のこととされ、「個人化ゲームに参加」させられる。責任はすべて個人に帰せられていくから、「病気にかかると、そもそも健康管理指導を守らなかったからだと逆に責められる。また、失業者が就職できないのは、さしづめ、技量の習得を怠ったか、仕事を真剣に探していないか、たんに、仕事がきらいだからだと勘ぐられる」ことになる。
 こうした状況で社会の中で自らを象徴化することができない個人は、公共の空間から「引きこもる」ことになるだろう。他者が出会う空間の公共性が衰退し、私的空間は一見保証されているかに見えるが、その内容は空疎である。かつて公的なものの私的空間への侵入が懸念されたのとは異なり、個人によって支えられるべき公共性が危うくなっている。アイデンティティを形成できない個が第一に頼るのが、「民族性」である。異物として排除された個が集まり、空間的に隔離されていく。

 差異を享受し、差異から利益を生む能力はもちろん、差異と共存する能力さえ、簡単には、また自然には獲得されない。差異と共存する能力は、すべての技量同様、獲得に手間と鍛錬を要する。一方人間の多様性、分類/整理からはみでた曖昧さにむきあう能力の欠如は、永遠に、自己増殖をつづける。つよい均一性への希求から、差異解消への有効な努力がなされると、見知らぬ者との共存は不安を助長する。かれらの差異はますます脅威と感じられ、差異が生み出す不安はますます激しくなるかのように思われるのだ。

 個人の象徴化を助けていた公共空間が衰退するとき、その穴を埋めるべきものとして安直な民族性の幻想が生まれる。このとき病んだ個人は、もうすでに手にしている自分に盲目となり、「どこかにあるはずの」自分を捜し求め、自分らしき断片を見つけては、これは本当の自分ではないという空疎なゲームを続けていくのである。

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道徳の中心問題2

 道徳的事実の存在は受け容れながら、それに何ら心を動かされないアモラリストにどう反論するか。あることが正しいと判断するにもかかわらず、そのことをするように動機づけられない者がアモラリストとされる。これに対してアモラリストは道徳的判断をしているのではなく、し損なっているとされる。
 このときに例として挙げられているのが、生まれつき盲目であるが、色の用語を使用するための信頼できる方法を持っている特殊な人である。その人は色に関して通常の人と同じように会話し、生活すると想定する。このときその人はほんとうに色の概念をもち、色の用語を習得しているといえるのかと問う。内在主義者は、この場合の色の使用、例えば赤や青という色は、いわば「」つきの色として用いられているにすぎず、ほんとうに色の概念を持っているのではないと主張する。同じようにアモラリストは道徳の用語を使うにもかかわらず、ほんとうに道徳的判断をしているのではない。内在主義者は道徳的判断と動機づけとの間に確実な結びつきを前提としているために、この特殊な盲人、アモラリストはそれぞれほんとうの判断をしていないと結論する。しかしほんとうにそうなのだろうか。社会の中でまったく齟齬なく道徳的判断について語る能力があれば、アモラリストは存在することが可能なのではないだろうか。道徳的判断とその動機付けの必然性をどこまで認めるか。ある道徳的判断にはある動機付けが伴うことは必然であるのか、ある道徳的判断には必然的にある動機付けが伴うのか。似ているようで違いがある。

 この手の議論はどうも読んでいると疲れる。楽しいはずの読書にどうしてこう眉間にしわを寄せないといけないのか。

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道徳の中心問題

 『道徳の中心問題』(マイケル・スミス著、樫則章訳、ナカニシヤ出版刊)に取り掛かる。
 第2章は「表出主義者の挑戦」と題されている。表出主義者(道徳判断はそれをする人の承認や拒否といった態度を表出するとする立場)は、記述主義(道徳判断は事実を述べているとする立場)は成り立たないことを論証する形で、自説の正当性を主張する戦略を検討している。ここでは道徳的性質が、自然主義的な事態(自然科学の記述に還元される事実)を記述しているのか否。かが問題となる。表出主義者は道徳が非自然的主義的なものとすると検証不可能なものがあるので誤っていると主張する(これは道徳に限らず検証不可能であるが科学的に正しいと
受け容れられている意味のある記述があるから性急にすぎる)。問題は道徳が非自然主義的な知識であるとして、それがどのようにして獲得されるかである。非自然主義的な知識を直観的に獲得する(ある事態を見てとる)という可能性が考えられるが、道徳的知識は知覚的経験から因果的に獲得されなくても反省によって獲得されることからこの説明は危うい。まあ道徳は通常「どうして」という問いを許さず受け容れることを要求される性質のものだということを考えると、これを理路整然と説明することを要求される方が負担は大きい。その点表出主義者は悪く言えばその努力を放棄している。それはさておき非自然主義的方法がうまくいかないとすると、自然主義的方法はどうか。道徳をある自然主義的性質で「定義する」ことに問題ありと表出主義者は言うが、私たちは「定義」によらずとも対象を指示同定できるのだからその反論は当たらないと記述主義者は言う。では記述主義者はうまく道徳とは何であるか記述できるのか? 道徳の概念は自然主義的用語によって還元的なネットワーク型分析(p59)をおこなえるのでそれが可能だという主張は、置換問題(p65)のため躓いてしまうためうまくいかない。第二の選択肢として、ネットワーク分析は不可能であるが、道徳の概念は自然的特徴をもっているので、道徳判断はものごとのあり方を何らかの自然的な観点から記述しているという主張は、道徳に関する常識的な真理をとらえることができないため、これもうまくいかない。となると表出主義しかないのか? ここで著者は、道徳概念の分析が必ずしも明示的で還元的な分析をする必要はないと述べる。
 

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ハイエクと現代リベラリズム2

 『ハイエクと現代リベラリズム』(渡辺幹雄著、春秋社刊)の続きを読む。第五章はバーリンとハイエクを比較し、それぞれのいう自由がどう異なるかを説明している。ハイエクは社会の分析に自然と理性という啓蒙主義の二分法は退け、「自然physis」、「生成nomos」、「作為thesis」の三分法を用いる。ノモス、すなわち私たちの行為の結果生み出されたものであるが、ある目的の下に設計された結果ではないものを重視する。啓蒙主義はこの視点が脱落していると指摘する。こういうところはハイエクが工学的視点ではなく、生物学的視点に立っていることがうかがえる。
 革命については、ハイエクもバーリンも啓蒙主義とロマン主義の奇妙な結合の産物であると診断する。バーリンはこう診断しロマン主義と啓蒙主義を遠ざける。

人類を二つのグループ-本当の人間と、他の劣った等級の存在、劣等な人種、劣等な文化、似非人間的動物、歴史に断罪された民族や階級-に分かつことは、人間の歴史では最近のことである。それは共通の人間性-先行するすべての、宗教的、世俗的ヒューマニズムが立脚していた前提-の否定である。この新しい態度によって、人間は無数の同胞を完全に人間なのではないと見なし、良心の呵責なく、彼らを救おうとしたり、彼らに警告を発したりする必要なく、彼らを殺戮できるようになる。

バーリンが自由を積極的自由と消極的自由に分けたことは周知のことだが、ハイエクはかれの三分法による方法論から自由をあくまで一つの統一的価値、恣意的強制の欠如としてとらえ、「制度的には恣意的強制の及ばない領域の保護」とみる。そのためバーリンのように「政治的自由」の呼称は使わない。ハイエクは「~からの自由」をより狭義に解釈する。それは広義に解釈することにより権力を意味する自由に結びつき、全体主義へと結びつく回路を開く恐れがあるからである。この危険性を鋭く洞察できるのは、「ノモス」の眼をハイエクが持っているからに他ならない。自己決定の自由を無制限に拡大していくことが逆説的に社会による個人の抑圧へとつながる危険がある。この指摘は重要だと思う。抽象的な仮説的理論に基づくのではなく、個人の具体的な生、社会の歴史的経験を踏まえて進むこと、それは私たちから遊離した超越的な理性に全幅の信頼を置くことに対する危険性を弁えていることなのである。

精神は文化的進化のガイドではなくその産物である。それは洞察や理性よりもむしろ模倣に基づく。(中略)我々の理性は、我々の道徳と同程度に進化論的な選択過程の結果なのである。

(ハイエク「The Fatal Conceit: The Errors of Socialism」)

 

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贅沢な読書

 『贅沢な読書』(福田和也著、ちくま文庫)を読む。一流の作品を読みながら、「書物を前にした時の構え方」を講ずる書評である。読書行為を敬いすぎて儀式化するのでもなく、さりとてただ無制約な野放図な読書に堕することもなく書物に対することがなによりの贅沢を味わうために必要であると筆者は説く。一定の「覚悟」をもって書物に対することが、それを書いた著者の精神と対峙することに通じるという主張なのであろう。そうして初めて悦楽に値する読書の楽しみが生まれる。確かにこうした経験は得がたいものである。この楽しみを得るためには、当然のことながら読む本を選ばねばならない。いわゆるこの本で挙げているような古典であれば、選択として誤る心配がない。でも古典ばっかり読むわけにはいかないからいろいろと悩むことは多い。私の経験からすると、自分が少し背伸びする必要のある本のほうが得られる満足感は大きい。著者は芸術作品を鑑賞することを例としてあげているけれど、まあ釣りでもゴルフでも少し難しいほうがやっていて楽しいのではないかしら(どちらもしないから想像でしかないのだけれど)。

 第一章はヘミングウェイの『移動祝祭日』が取り上げられる。著者は自分が悩んでいた頃に『移動祝祭日』を読んでいたことを振り返りつつ、ヘミングウェイの人生を辿る。そのとき「しなくちゃならぬことは、ただ、一つの本当の文章を書くことだ。お前の知っている一番本当の文章を書くんだ」というヘミングウェイの言葉に戸惑いながらも『移動祝祭日』から書く勇気を与えられたという。著者の思い入れの強い作品であるだけに引用部分のヘミングウェイの文章は光っている。こう言っては失礼だが、著者がヘミングウェイを絶賛することからよりも、彼の文章が著者の文章より数段優れていることが自ずと分かってしまうことから、この章を読むと俄然ヘミングウェイを読みたくなる。そういう意味でこの書評は成功している。まあそれだけヘミングウェイの文章は力強くかつ余計なところがない。

 第四章の日本の古典文学の章では、ラテン語、ギリシア語教育を中心とした教養というものがどういうものかを説きつつ、西洋の古典と日本の古典の違いを論じている。西洋ではラテン語、ギリシア語といった実用には役立たないものをどうして徹底的に叩き込むのか。それは人間性を涵養するためであると著者は答える。

つまり、まったく無縁な他者を理解しようとすること。
自分と隔絶した他者を理解しようと徹底的に努力をすることにこそ、人間の人間としての力、つまりは利害、欲望、本能を超えた人間性の力があると彼らは考えたのです。
 この、自分とまったく違う時代、文明のなかにいる他者を理解する能力を、当時のドイツ人は「教養」とよびました。

 この部分にはまったく著者の指摘どおりだと思う。以前「近代とホロコースト」のところでも触れたが、語学教育というものは基本的にはそうした他者理解が中心であるべきだと思う。自分と自分をとりまく者たちとはまったく違う思考回路で物事を考える人がいて、その他者と対話をする努力をしていくこと、そしてそれを通して理解する力を鍛錬していくことが教養をつけることだと私も思う。それは自分と同じ境域にいる人間が一度咀嚼して吐き出したものを取り込んで身につくようなものではなかろう。
 それはさておき、そう著者が定義する教養を育てるために日本の古典は不向きであるという。その理由として(1)古文であっても読めばそれなりに理解できてしまうものであること、(2)万葉集などを見れば分かるが古典文芸が一部の専門家に独占されることなく上は貴族下は平民まで広い階層で共有されていたこと、(3)古典のジャンルとしての境界が不明瞭で「けじめがない」こと、を挙げ上で述べたような他者理解のためには向かないと論じている。だから逆に

 日本の古典を読み、味わうこと、それはこの「けじめのなさ」から広がってゆく情感に身を委ね、上下左右の立場や身分のみならず、人と生き物、山河と風水の境目も、今と昔、今日と明日の敷居をも越えて、楽しさに哀しさに、寂しく、また浮かれ、とめどなく纏綿していく経験にほかなりません。

とまあ日本の古典の素晴らしさを強調している。こういう立場からすると、それぞれの語学学習で目指されるものがまったく違うわけだから小さい頃から英語だ、いやまず国語だという議論はそもそも論点がずれているといわざるをえない。

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水の道具誌

 『水の道具誌』(山口昌伴著、岩波新書)を読む。第一章は「水を楽しむ」と題され、如露や鹿おどしなどが紹介されている。如露の水がでる部分を蓮口ということを知ったが、さらにその蓮口に施す職人技で「孔から噴く水糸が隣同士喧嘩しないように」してあることも教えられた。水琴窟の項では、その音色がいい条件に周囲の地形が重要だということが書かれている。この小さな水の意匠にそれを取り巻くランドスケープが影響するという関係も意外だったが、それを聴き分ける文化があることにも感心した。いや、もうこの文化はもしかすると瀕死状態なのではないだろうか。身の回りで耳に入ってくる音を言えば、神経に突き刺さるような電子音ばかりである。これらの電子音をはじめとする機械の音は、常に同一のものであり、記号でしかない。電子音により私たちは何事かを知らされ、次の行動へ駆り立てられるばかりである。その音自体にはゆらぎはなく聞き入るべきものでもない。私たちの祖先は水や虫、風の音に聞き入り、本来意味のないところに意味を見出し、それを楽しんできたのだ。自然の音に聞き耳をたてたり、耳をそばだてたりすることがなくなれば、自然は疎遠なものとなるだろう。同時にそれは自分の内部のゆらぎにも耳を閉ざしてしまうことになるのではないか。
 このように書くとこうした伝統ある文化を失うことに対する懐古趣味のように聞こえるかもしれないが、私は時間の向きでいえば、反対のことを恐れている。利用されなくなったものが次第に姿を消していくことはある意味仕方のないことであるが、こうした文化を失ってしまうことは、私たちが将来そうした感性豊かな伝統を創造していく力を失っていくことを意味しているのではないかということを恐れているのである。
 話がずいぶん硬くなったが、この本の道具の話はたいへん楽しく読める。墨を磨るときに使う水滴の項には実にさまざまな形のあることが紹介されており、これはコレクションにはもってこいのオブジェだなあと思った。第三章の「水の性質を活かす」で登場する浮徳利の話では、温泉に浸かって酒を楽しむために著者が奮闘努力をした挙句、浮徳利と遭遇し古人もしたであろう自分の失敗と、それに挫けずに浮徳利を発明するに至ったことを慶賀する話は実にほほえましい。酒飲みというのは、ほんとうにどんなところでもどんな時にでも飲む努力(?)を怠らない生き物なのだ。

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ハイエクと現代リベラリズム

 『ハイエクと現代リベラリズム』(渡辺幹雄著、春秋社刊)を読んでいる。『省察』と『新デカルト的省察』の両睨みの読書がなかなか捗らないので、他の本に手を出している。本書は600頁弱の大著であるが、なぜか『省察』よりも進む。
 ハイエクの思想を中心に、リベラリズムについて論じた著者の処女作『ハイエクと現代自由主義』の増補・改訂版とのことである。前著は読んでいないし、ハイエクは自分にとってはほとんど馴染みのない思想家なので、まったく読みには自信がないが第四章まで読んで実に面白いというのが第一の感想だ。
 序論では、著者のリベラリズム観が端的に述べられているが、これも正鵠を射ていると思う。

 リベラリズムは本来「反自然的」なのである。それがhuman natureの開花であろうはずがない。前期ロールズに受け継がれた啓蒙主義のリベラリズムは、その実human natureの神話に立脚した詭弁なのである。

 リベラリズムに人間の幸福を問うのはお門違いである。リベラリズムは幸福のためのガイドラインではなく、破滅を避けるための政治的知恵である。

 こう啖呵を切って始まる第一章は、ハイエクの思想の全体見取り図が述べられる。キーワードは反構成主義であり、進化論的に生成される秩序-自生的秩序である。狭い合理主義的観点からは記述不可能と捨てられてしまう世界にある超越的な秩序を見ることの重要性が強調される。そこに秩序を見ることができるかどうかが、パスカルのいう「繊細の精神」を持っているかどうかの試金石なのである。だから「構成主義者には『美的判断力』がない」と著者は断ずる。
 続いて第二章からは、ハイエクを取り巻く重要思想家を対比させながらハイエクの思想を浮き彫りにしていく。外堀を埋めながら次第に本丸に迫っていく感じで読んでいて間然するところがない。第二章はポパーの批判的合理主義を取り上げ、ハイエクとの差異を明確にする。第三章はオークショットの思想が取り上げられる。この部分はもともと詳しくないから完全に理解したとはいえないが、経済のポリス=オイコス図式とエコノミー=カタラクシー図式の二つの見方を比較して論じ、後者でなければ市場秩序の基本原理を理解することができないとするところはなるほどと思った。
 第四章では、マイケル・ポラーニの暗黙知が主題となる。前章のオークショットの知識観-知識を「技術的知識」と「伝統的知識」の二つに分ける見方にも関連するが、知識を命題として定式化することが可能な「命題知」または「明示的知識」と、実際の行為を通して初めて学ばれる「方法知」または「暗黙知」に分けるポラーニの知識観が、ハイエクの知識観(「科学的知識」と「現場の人間の知識」)との相似形であることが示される。この議論を通じて、自生的秩序内での伝統の重要性を論じた部分は非常に重要である。
 第四章の終わり近くになって、アンチ合理主義としてのデカルトとして著作からの引用が出てくる。著者はデカルトのエピゴーネンとデカルトを一線を画するものとして取り上げており(注22も参照)、偶然虚心坦懐にデカルトを読んでいた矢先のことであり大いに共鳴したのであった。

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