烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

メディアと倫理

2006-04-25 20:16:38 | 本:哲学

 今日はJR尼崎脱線事故からちょうど1年目の日であった。1年前の悲惨な自己報道を思い出しつつ、『メディアと倫理』(和田伸一郎著、NTT出版刊)を読んでいたら、その事故についての報道を評した文面があった。
 この事故当日中継のため救助活動の様子を報道するヘリコプターが飛び、アナウンサーが「見ればわかることをただなぞって叫びながら、しかも同じことを何度も繰り返し、「おしゃべり」を引き伸ば」すという不謹慎なことを行い、テレビではスタジオの「コメンテーターが、画面外から救出する場面についてどうでもいい専門知識を披露」する。ここから著者は、メディアの無神経な行為という<見ること>を抑圧するものがあるからこそ、視聴者は画面の映像を見ることが可能になるという一見逆説的な解釈をする。
 実は誰もお気楽な茶の間で、こんな悲惨なものを直視したくはないのだ。そして「テレビを見る者がたいしたものは見せられないと知りつつ見ているという」シニカルな態度は、「<見ること>、<思考すること>が抑圧されているのを知りながら、それを放棄しているということ」だと論じている。
 ここで表象と情報を区別するべきであることが重要であると著者は説く。いま情報のパイプと成り下がったテレビ画面は、「世界へと再び<存在し>直すために思考する場所ではなくなり、それとは別のもの、すなわち世界から逃避し気楽に世界に在ることを責め立てない非難所に成り下が」っている。


 リアルタイムな情報を受信できるようになってしまった現代人は生成する現場とは無縁なところで気楽にその情報を受けられるようになったことで、「自分を世界(他者)に曝し出すことなく、気楽なままで世界に関わるための道具」としてメディアを見ている。アーレントやハイデガーのいう世界からの退きこもり(撤退)としての思考ができなくなっている現代の状況を実に的確に論じている。
 この分析を基点に論じられる「見ることの倫理」を今まさに構築していかなければならないし、これはメディアの分野だけに限られるわけではあるまい。


 著者はあとがきで、こう述べる。



 倫理的主体とは、道徳規範、常識、世間の目等々を気にして自己を律するというところから受動的に生み出される主体ではない。それは「自己の自己に対する関係」、「自己への配慮」(ミシェル・フーコー)から自己を律しようとする積極的主体のことである。
 例えば、倒れている人を助けずに見捨てて通り過ぎようとすることは、「世間」に非難されるからしてはならないのではない。その人を見捨てることは、逆に自分が倒れているところに人がやって来てもその人が助けてくれることはない、そうした世界を自分のその振る舞いそれ自体によってつくり出してしまうことを意味するのである。その見捨てる振る舞いによって、自分がそうなっても誰も助けれくれない世界の住人に、自分からなってしまうことを意味するのである。だから見捨てるべきではない。(中略)これについてはジャン=リュック・ナンシーによって引用されていたサルトルの次の言葉を引用しておこう。「世界がわれわれの創造物であるかのように、世界に対して責任を負う」ことが問題なのだ、と。


 1年前の事故報道を昼食をとりながら眺めていた自分を思い出しながら、この本は是非広く読まれるべき本であると感じた。