烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ブログという空間

2006-04-27 20:58:25 | 独り言

『メディアと倫理』を読んでから、去年からつけ始めて細々と続けているブログで私は何をしているのだろうとふと考えた。日記風に拙い読書感想文を綴りつつ、それを「公開」することで、私はどのような形で社会に参加しているのだろうか。



 自分の身辺雑感を日記という形で記録して公開するというブログは、日記の持つプライベートな側面と、HPのもつ公共的側面を併せ持っている。この二面性がどのような可能性をもっているのかまだ十分自分でも分かっていないような気がする。


同時に気になるのが、『メディアと倫理』で論じられているような、存在論的に「ひきこもる」人々である。彼らはいったい何を欲望しているのか。著者の指摘するように安閑とした自分の空間をかき乱す事件に対して怒り、それをネットにぶつけているのか。そうすることでスキッとしたいだけなのか。ユダヤ人の存在がむかつくから殴ることによりスキッとするスキンヘッドの輩と同じ心理なのだろうか。        
 完全なひきこもりであれば、そもそも日記を公開する必要はなく、自分の部屋で好きなことをしていればいい。しかし彼らはまったく世間という回路から断絶しているわけではなく、私秘的空間に閉じこもり、匿名性というシールドに守られながらその匿名性を逆手に取り容赦ない罵詈雑言をネットの公共空間にまきちらす。それはまったく一方向的な連絡路であり、相手に言葉を吐きかける口はもっていても、聞く耳はもたない奇形な容貌である。そこにネットの双方向性から生まれる可能性は存在しない。燃え盛るネットでの不謹慎な発言を見ながら愉悦に浸っている姿は、自分で放火した火が燃え盛るのをほかの野次馬に混じって遠目で楽しんでいるものと同じだろう。
 さまざまな人々が混在するネット社会でどのような倫理を構築することができるのか、そしてこの混沌からアーレントの望むような公共空間を私たちは生み出すことができるのだろうか