『死と誕生』(森一郎著、東京大学出版会)の中でH.アーレントが学位論文として著した『アウグスティヌスにおける愛の概念』に後年加筆訂正して、改めて公刊するつもりだったことが紹介されている。結局この作業は完成せずにアーレントは亡くなるのだが、遺稿から再編集されて1996年に出版されているという(H.Arendt, Love and Saint Augustine, Edited and with an Interpretative Essay by J.V.Scott and J.C.Stark, The University of Chicago Press 1996、LSAと略)。
『死と誕生』では、LSAの第二部「創造者-被造物」において死とは逆方向への動き、すなわち原書へと遡るアーレントの視点を重視し詳細に分析している。来るべき未来へそしてさらにその彼方にある絶対的未来での至福の生への志向が成り立つためには過去への関係-想起と記憶-が欠かせないことが述べられる。
至福の生の可能的実存についての知は、すべての経験に先立って、純粋意識に与えられており、この知が請け合うからこそ、未来において至福の生に遭遇したあかつきに、それが至福の生だということが分かるのである。アウグスティヌスにおいて、至福の生についてのこの知は、たんなる生得観念ではなく、意識の座としての記憶のうちに特別に保存されているものなのである。それゆえこの知は、過去を遡って指示する。至福が絶対的未来へと企投されるとき、その至福は一種の絶対的過去によって請け合われている。というのも、至福についての知は、われわれのうちに現前しているものの、この世のいかなる経験によっても断じて説明がつかないからである。
アウグスティヌスは、人間に先立って存在している世界と時間の始まりと、人間の始まりとを区別する。アウグスティヌスは前者の始まりをprincipiumと呼び、後者の始まりをinitiumと呼んでいる。始めに(in principio)という言葉は、宇宙の創造を指す-「始めに神は天と地を造った」(創世記一・一)。他方、始まり(initium)は、「魂」の始まりを、すなわち、たんなる生き物ではなく人間の始まりを、指す。アウグスティヌスはこう書いている。「この始まりは、それ以前には決して存在しなかった。そのような始まりがあるようにと、人間は造られた。この人間以前には、誰もいなかった」。(中略)人間とともに造られた始まりは、時間および宇宙全体が何も新しいことは起こらずただ無目的永遠回帰運動をひたすら繰りかえすことを、妨げることとなった。それゆえある意味では、人間が造られたのは、新しさnovitasのためだった。おのれの「始まり」もしくは起源を知り、意識し、想起することができるからこそ、人間は、始める者として活動し、人類の物語を演じることができるのである。
絶対的始原とは異なる再来-反復でありながら新しい始まりとして誕生する人間は、その起源へと遡行しつつ始めることのできる存在である。これはなんと力と希望を与えてくれる哲学ではないだろうか。
アーレントは、起源への遡行において「始まりの記憶」の重要性を説く。人間存在に統一性と全体性を与えるものが、ハイデガーのいう死への予期ではなく、記憶であることを強調する。