『エンハンスメント バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』(生命環境倫理ドイツ情報センター編、松田純・小椋宗一郎訳、知泉書館刊)を読む。
エンハンスメントというのは、診断や治療、予防、緩和について現にある可能性を改良ないしは拡張することで、特に健康の回復と維持を超えて能力や性質の改良を目指して人間の心身の仕組みに生物学的介入をすることである。病気を治すというのはもともと維持されてしかるべき健康状態にもどす作業であり、病める者の行為であり医者の援助を必要とすることがしばしばある。エンハンスメントでは一人で成し遂げられる行為ではないということ、必然的に先端医療技術を必要とすることが大きな違いであろう。したがって結果は同じでも練習や鍛錬で強靭な肉体を作ることと、遺伝子導入技術で同様な肉体を作ることは異なる行為であるといえる。目的や結果が同じであってもその過程は倫理的な評価の対象となる。これは大学に入学するという目的があり、結果として入学したという結果が同じでも実力で合格するのと裏口入学するのでは評価が正反対になることでも分かる。したがってエンハンスメント技術がスポーツなどの分野に積極的に応用されるようなことは(少なくとも公式には)受け入れられにくいだろう。この問題は本書の第VI章でとりあげられている。
では美容整形ではどうか。外科手術を受けて美しくなるのと、(仮にあっての話だが)遺伝子操作技術で美しくなることが結果として同じで費用も負担も差がないのであれば許されるだろうか。この二つの差については本書の第V章では論じられていないが、美容外科という技術が損傷からの回復だけではなく標準以上の容姿容貌を賦与することに対する基準はどこで判断すべきなのだろう。ここでは美容外科技術がある特定の美的偏見を再生産している点も取り上げられている。この分野も通常は公的医療負担とはならないので限定的だろうが、特定の容貌を持つことで本人が精神的に非常な困難を強いられていると客観的にかつ公正に判断される場合は、エンハンスメント的な医療は許容されるのだろうか。そうした治療を施すことでその当人が単に治療前の精神的苦痛から解放されるというだけでなく、その容貌容姿のために莫大な経済的利益を得たとしたらどうだろう。そういう可能性も考慮に入れても公的負担で医療を施すことは許されるだろうか。
本書では、さらに医療に近い領域として低身長に対する成長ホルモン治療や向精神薬によるうつ病の治療についても論じられている。身長を伸ばすことはどこまで許容されるのか。通常は平均的な身長まで伸びたところで治療は終了とされるが、さらに伸ばすことはある意味で美容的な要素が絡んでくる。多くの社会で高身長というのは(特に男性において)美的価値があるとされているからである。病気としての低身長だけにこの治療を限っていいのかという問題もでてくる。
本書では、病気という考え方を単に生物学的機能不全状態と自然科学的にとらえるのではなく、病者が解釈を要する状態でもあることを指摘している。
われわれ人間の有機体(肉体)のどんな状態も、一方では、われわれに前もって与えられている。同時にしかし、それはわれわれの解釈の結果であるとともに、解釈しなければならない課題でもある。われわれは或る与えられた状態を解釈し、その状態を実践的課題として受け容れる。その仕方を通してはじめて、その状態が健康状態として、あるいは病気の状態として経験される。病気という概念のなかに自然科学的、心理的、社会文化的なさまざまな構成要素が束になって入り込んでくるということ。病気概念が医師-患者関係のなかで実践的な意味をもって付与される概念であるということ。これらのことは、人間が有機的生命体としての自分自身に対して持つ関係にまさしく対応している。自然そのものからは、いかなる基準も規範も生じない。人間が、自分に前もって与えられた、心身を構成する自然を解釈し、実践的課題として受け容れる仕方を通してはじめて、自然はこうした自己解釈のなかで健康な状態あるいは病気の状態として経験される。解釈を要する自然的に与えられた状態、社会的文脈のなかで病める主体が抱く自己感情、ここから、診断や治癒、緩和と予防という形での医師の課題と任務が生じる。この課題は、個人的なエンハンスメント(増強的介入)や集団的な優生学という形での人間の自然本性を改良しようとする行為からは区別される。
何を持って与えられた自然とするのかは当然議論の対象となるだろう。私たちはふつう自然な状態についての直感的な洞察力をもっているが、それだけでは曖昧である。偶然的事象がどの程度起こりうるのかという確率的視点が何らかの基準にはならないだろうか。それはおそらくどのようなものを私たちは「運命」として甘受するのかということにも関係しているように思う。
小著ながら考えさせらることは非常に多く含まれている。