烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

エンハンスメント

2007-11-29 19:30:35 | 本:哲学

 『エンハンスメント バイオテクノロジーによる人間改造と倫理』(生命環境倫理ドイツ情報センター編、松田純・小椋宗一郎訳、知泉書館刊)を読む。
 エンハンスメントというのは、診断や治療、予防、緩和について現にある可能性を改良ないしは拡張することで、特に健康の回復と維持を超えて能力や性質の改良を目指して人間の心身の仕組みに生物学的介入をすることである。病気を治すというのはもともと維持されてしかるべき健康状態にもどす作業であり、病める者の行為であり医者の援助を必要とすることがしばしばある。エンハンスメントでは一人で成し遂げられる行為ではないということ、必然的に先端医療技術を必要とすることが大きな違いであろう。したがって結果は同じでも練習や鍛錬で強靭な肉体を作ることと、遺伝子導入技術で同様な肉体を作ることは異なる行為であるといえる。目的や結果が同じであってもその過程は倫理的な評価の対象となる。これは大学に入学するという目的があり、結果として入学したという結果が同じでも実力で合格するのと裏口入学するのでは評価が正反対になることでも分かる。したがってエンハンスメント技術がスポーツなどの分野に積極的に応用されるようなことは(少なくとも公式には)受け入れられにくいだろう。この問題は本書の第VI章でとりあげられている。
 では美容整形ではどうか。外科手術を受けて美しくなるのと、(仮にあっての話だが)遺伝子操作技術で美しくなることが結果として同じで費用も負担も差がないのであれば許されるだろうか。この二つの差については本書の第V章では論じられていないが、美容外科という技術が損傷からの回復だけではなく標準以上の容姿容貌を賦与することに対する基準はどこで判断すべきなのだろう。ここでは美容外科技術がある特定の美的偏見を再生産している点も取り上げられている。この分野も通常は公的医療負担とはならないので限定的だろうが、特定の容貌を持つことで本人が精神的に非常な困難を強いられていると客観的にかつ公正に判断される場合は、エンハンスメント的な医療は許容されるのだろうか。そうした治療を施すことでその当人が単に治療前の精神的苦痛から解放されるというだけでなく、その容貌容姿のために莫大な経済的利益を得たとしたらどうだろう。そういう可能性も考慮に入れても公的負担で医療を施すことは許されるだろうか。
 本書では、さらに医療に近い領域として低身長に対する成長ホルモン治療や向精神薬によるうつ病の治療についても論じられている。身長を伸ばすことはどこまで許容されるのか。通常は平均的な身長まで伸びたところで治療は終了とされるが、さらに伸ばすことはある意味で美容的な要素が絡んでくる。多くの社会で高身長というのは(特に男性において)美的価値があるとされているからである。病気としての低身長だけにこの治療を限っていいのかという問題もでてくる。
 本書では、病気という考え方を単に生物学的機能不全状態と自然科学的にとらえるのではなく、病者が解釈を要する状態でもあることを指摘している。

 われわれ人間の有機体(肉体)のどんな状態も、一方では、われわれに前もって与えられている。同時にしかし、それはわれわれの解釈の結果であるとともに、解釈しなければならない課題でもある。われわれは或る与えられた状態を解釈し、その状態を実践的課題として受け容れる。その仕方を通してはじめて、その状態が健康状態として、あるいは病気の状態として経験される。病気という概念のなかに自然科学的、心理的、社会文化的なさまざまな構成要素が束になって入り込んでくるということ。病気概念が医師-患者関係のなかで実践的な意味をもって付与される概念であるということ。これらのことは、人間が有機的生命体としての自分自身に対して持つ関係にまさしく対応している。自然そのものからは、いかなる基準も規範も生じない。人間が、自分に前もって与えられた、心身を構成する自然を解釈し、実践的課題として受け容れる仕方を通してはじめて、自然はこうした自己解釈のなかで健康な状態あるいは病気の状態として経験される。解釈を要する自然的に与えられた状態、社会的文脈のなかで病める主体が抱く自己感情、ここから、診断や治癒、緩和と予防という形での医師の課題と任務が生じる。この課題は、個人的なエンハンスメント(増強的介入)や集団的な優生学という形での人間の自然本性を改良しようとする行為からは区別される。

 何を持って与えられた自然とするのかは当然議論の対象となるだろう。私たちはふつう自然な状態についての直感的な洞察力をもっているが、それだけでは曖昧である。偶然的事象がどの程度起こりうるのかという確率的視点が何らかの基準にはならないだろうか。それはおそらくどのようなものを私たちは「運命」として甘受するのかということにも関係しているように思う。
 小著ながら考えさせらることは非常に多く含まれている。


アブダクション

2007-11-28 19:01:14 | 本:哲学

 『アブダクション 仮説と発見の論理』(米盛祐二著、勁草書房刊)を読む。
 科学的論理的思考の方法である演繹と帰納に加えて、パースがあげたアブダクションabductionという思考法がどのようなものであるかを分かりやすく説明した著作である。この思考法は難しく考えるまでもなく普段私たちが日常生活でも行っている思考法であり、典型的なのは推理小説で探偵が使う思考法である(ホームズがワトソン相手に披露している推理)。そこには前提から結論に至る際にある飛躍があることは確かであり、この部分のために科学的思考というのを厳格に考える人から見るとうさんくさいとされる。著者はその飛躍を肯定的に捉え、「仮説的飛躍」として科学的発見にとっては不可欠のものであるとしている。
 アブダクションでは、第一段階として考えている問題の現象について考えられうる説明を推測し可能な仮説を列挙する。ここでは洞察が必要になる。そして第二段階ではその複数の仮説のなかから最も蓋然性の高いと考えられる仮設を選ぶ推論を行う。仮説を選ぶ段階では、もっともらしさ、検証可能性、単純性、経済性を基準にして選ばれるという。
 パースはこうした思考法が人間に備わった「正しく推論する能力」だとし、これが進化的に適応して獲得した産物であるとする。限られた外部情報を短時間に処理し、有効な戦略を打ち出し生存していかねばらない個体にとっても上であげられた要素は重要であっただろう。ありうるもっともらしい仮説を優先的に検証するようにしない個体は容易に捕食者の餌食になってしまうだろうし、単純性を重んじるというのも検証や考察過程に時間がかかりすぎるようだと生き延びるのもおぼつかなくなる。確かにそれは生存するための思考能力として重要であるが、そうやって進化して獲得した人間の自然に対する洞察力が、自然の真実の姿と一致するというのも不思議な気がする。生物学的な生存戦略的思考という範囲で考えれば、精度の高い推論が外部環境の真実の姿と高い確率で一致するというのは不思議ではないが、生存に明らかに無関係であると考えられる数学や物理学的現象までもそうであるというのは不思議である。果たしてそれらは人間という存在と独立した真実というものなのかという疑問が生じてもおかしくはないと思うのだが、この著作から推し量るかぎりパースはそういう疑問は抱かなかったようだ。

 パースはアブダクションが帰納法と明らかに違う、より「いっそう強力な推論」であると述べている。それは「帰納の本質はある一群の事実から同種の他の一群の事実を推論するというところにあるが、これに対し、仮説はある一つの種類の事実から別の種類の事実を推論」し、「仮説的推論は非常にしばしば直接観察できない事実を推論する」からであるという。またパースは帰納と仮説(アブダクション)の間にある「ある重要な心理学的あるいはむしろ生理学的な相違」を指摘する。「仮説は思想の感覚的要素を生み出す、そして帰納は思想の習慣的要素を生み出す」という。ちょっとわかりにくい説明だが、彼自身の比喩によれば、「オーケストラの種々の楽器から発するさまざまの音が耳を打つと、その結果、楽器の音そのものとはまったく違うある種の音楽的情態が生じる。この情態は本質的に仮説的推論と同じ性格のものであり、すべての仮説的推論はこの種の情態の形成を含んでいる」のだそうだ。既知の要素の組み合わせからでも意外な局面が出現することを発見できるということが習慣的な知を生み出す帰納とは違うということなのであろう。
 後半でも統計的三段論法と発見的三段論法の相違について述べられ、後者が数学の発見的解法と関係していることを論じているのを読むとその比喩も分かるような気がする。


贖罪

2007-11-24 16:58:55 | 本:文学

 『贖罪』(イアン・マキューアン著、小山太一訳、新潮社刊)を読む。 
 この著者の作品は以前同社のクレスト・ブックスシリーズに収められている『アムステルダム』を読んだことがある。この作品はブッカー賞を受賞したとあったが読んでみてそれほどいい作品でもないなと感じていた。だからそのままになっていた。しかし何となく気になる作家であり、一作だけ読んでみただけで敬遠してしまうのもと思い、この本を手に取った。
 読んでみてまず感じたのは、かなり入念に作りこまれた作品だということだ。丹精をこめたというよりは、注意深く設計されたという印象であった。この作品はブッカー賞受賞を逃しているのだが、もしかするとそういう読後感が影響したのかもしれない。しかし読み応えは十分にあり、小説を読むことを堪能させてくれる。
 舞台は1935年のイギリスで第二次世界大戦前のきな臭さが漂いながらもまだ牧歌的な時間が流れている田舎から話は始まる。休暇で帰省してくる兄たちを迎える13歳の少女ブライオニー・タリスは自作の劇を書きその上演を計画している。その劇は演じられることなく、ブライオニーが一生をかけて償うことにある事件がその夜起こる。第一部はその事件が起こるまでの一日をそれぞれの登場人物の立場から描いていく。この部分は多少時間がかかるが人物関係を把握するために急いではいけない部分だ。第二部からは場面ががらりとかわり、ドイツ軍から追われ敗走する英軍の中にいるロビー・ターナーが描かれる。このあたりも徐・破・急の呼吸をうまく考えて構成されていると感じられる。
 思春期の少女が口にしてしまった罪深い証言の贖いというのが表のテーマでありこの筋を追っていくだけでも小説として十分楽しめるのだが、その奥には作家が小説という言説を紡ぎだすことで果たして「贖罪」をすることが可能なのかというより根本的な問いの伏流が流れている。マキューアンはこの小説の中の人物(ブライオニー)に贖罪の語りを書かせることによって、その可能性を問うている。メタ小説といえるこの作品の問い、作家は自分がそこに命を吹き込む小説と言う言説(作り事)を支配できるのかということについては物語の最後に問われ、そして答えられている。

 物事の結果すべてを決める絶対的権力を握った存在、つまり神でもある小説家は、いかにして贖罪を達成できるのだろうか? 小説家が訴えかけ、あるいは和解し、あるいは許してもらうことのできるような、より高き人間、より高き存在はない。小説家にとって、自己の外部には何もないのである。なぜなら、小説家とは、想像力のなかでみずからの限界と条件とを設定した人間なのだから。神が贖罪することがありえないのと同様、小説家にも贖罪はありえない-たとえ無神論者の小説家であっても。それは常に不可能な仕事だが、そのことが要でもあるのだ。試みることがすべてなのだ。

この自分に対する宣言ともいえるような結論は、実は冒頭にでてくるブライオニーの思考とつながっていたのだということを読者は知らされる。実に入念に設計された構造になっているのだ。

 ブライオニーは片手を上げて指を動かし、以前にも何度か考えたことだが、この物体、他のものをつかむための道具、腕の端にくっついた肉づきのいい蜘蛛のようなしろものは、いったいどうやって自分のものになったのだろう、どうやって思い通りに動かせるようになったのだろう、といぶかしんだ。それとも、これはこれで独自の小さな生命があるのか? ブライオニーは指を曲げ、また伸ばしてみた。謎なのは、これが動く直前の一瞬、動作と静止を分かつ切断の一瞬、自分の意思が実行に移される瞬間だった。その刹那をとらえられれば、自分というものの秘密、自分を真に動かしている部分を見きわめることができるかもしれないのだ。ブライオニーは人さし指を顔に近づけてじっと眺め、それを動かそうと念じた。指が動かなかったのは、自分が完全に真剣でないからであり、そしてまた、指を動かそうと念じること、動かす態勢になることが本当に指を動かすことと同じでないからでもあった。ついに指を曲げたときには、動きは指そのものから始まるようで、自分の精神のどの部分とも関わりがないように思えた。どの瞬間に指は動きを意識し、どの瞬間に自分は指を動かすことを意識するのだろう? 自己をつかまえる方法はなかった。動かす自分、動かされる指、というふたつしか意識はできなかった。そのあいだには縫い目も継ぎ目もないようだが、それでも、なめらかに連続した一枚のこの生地のうしろに本当の自分があって-それが魂というものだろうか?-ふりをするのをやめる決断を下し、最終的な命令を発していることはブライオニーにも分かっていた。


大好きな本

2007-11-20 22:41:53 | 本:文学
 『大好きな本』(川上弘美著、朝日新聞社刊)を読む。
 新聞の書評や文庫の解説として書かれたものを収載した川上弘美の書評集である。書評集というのはなかなか自分にぴったりとくるものを探すのが難しい。一つは書評する人が誰かということがまず第一の問題。当然ほかの本でもそうだが、著者の好き嫌いが手に取るかどうかの重要な要素になる。次にどのような本が紹介されているかという問題が次にある。評される本があまり自分の読書とは縁がなかったり読んだことのない本ばかりだと著者が気にってもやはり敬遠してしまう。逆に読んだ本ばかりだと(こういうことはまずないがあったとすると)読む気が起こらない。自分と読書範囲が適度なところで共通していながらまだ自分が知らない本への欲望をかきたててくれる、そういう書評集がいいということになる。当然評者も自分も読書をしつつあるから、タイミングよくその書評集に出会うかどうかという問題もある。
 この本の場合、適度に自分が読んで面白いと感じた本の書評が収載されており、かつまだ読んだことのない本の興味をじゅうぶんかきたててくれる書評も収載されているという実に私にとってはいい出会いといえる本だった。須賀敦子の『遠い朝の本たち』や長田弘の『本という不思議』、オリヴァー・サックスの『色のない島へ』、ジュンパ・ラヒリの『停電の夜に』、多田智満子の『動物の宇宙誌』、ジム・クレイスの『死んでいる』、村上春樹の『海辺のカフカ』、小川洋子の『博士の愛した数式』、山田詠美の『風味絶佳』、岸本佐知子の『ねにもつタイプ』、内田百の『百鬼園随筆』、丸谷才一の『男もの女もの』など自分が今まで読んでよかったと思う本の書評を読むのは、そのときの読書体験が思い出され楽しいし、評者がどう読んだかをしるのも楽しい。そしてまだ読んでいないおおくの本が並んでいるのを見るのも楽しい。

法思想史講義<上>

2007-11-17 23:44:19 | 本:哲学
 『法思想史講義<上>』(笹倉秀夫著、東京大学出版会刊)を読む。
 これはただの法思想史の講義ではない。面白い講義だ。講義というのはだいたい面白くないというのが相場だがこれはいわゆる教科書にない面白さをもっている稀有な書物である。よくあるように著明な思想家の考えを時代別に列挙するような著述ではなく、著者がいうように思想を一つの流れとして扱っている。しかも読者は著者と同じ船に乗ってその川を下るような醍醐味を味わえる。「法思想」となづけてあるが、話題は時代ごとの文化史や芸術、宗教、軍事、政治など多岐に及んでおり、西洋の思想史ながら日本の思想史とも適宜比較しながら筆を進めているので、総合的な思想史の観を呈している。頁ごとにある脚注も読み応えがある(申し訳のようについている注とは全く違う)。
 上巻では古代ギリシアから説き起こされ、古代ローマ、原始キリスト教へと進む。それに続く中世の部分ではキリスト教の歴史と思想が法思想とどう関係しているかが述べられている。興味深く読んだのは、マキアヴェリ、宗教改革、魔女狩りの各章である。
 マキアヴェリの思想の解説のところは、政治と道徳の分離というところで徂徠と比較してあったり、軍事学のところでは補論として孫子が出てきたりと実に面白い。
 宗教改革や魔女裁判のところでは、単に歴史的な事実の紹介ではなくルターやカルヴァンのもつ改革思想の特性がその時代と密着して論じてあり厚みがぐっと感じられる。また親鸞の思想とも対比してあり、西洋と日本の思想的基盤の異同を考える上でも参考になる。
 これだけ広い守備範囲を一人で著述するといのは驚くべき力業である。下巻は注文済みなのだが早く読んでみたい。

数学で考える

2007-11-15 19:08:49 | 本:自然科学

 『数学で考える』(小島寛之著、青土社刊)を読む。
 著者がいくつかの雑誌に掲載された文章をまとめて収録した本で、本の帯にあるように年金やヘッジファンド、村上春樹の小説などが題材になっている。
 「偽装現実の知覚テクノロジー」というエッセイでは、実数の連続性という数学で利用される数の性質が導出される中間値の定理の基礎づけがいかに重要かが語られ、経済学で使われる(らしい)ワルラスの一般均衡定理の論証に利用される不動点定理もその中間値の定理が必要であることを述べ、実数の連続性という性質をきちんと基礎づけることがいかに重要かを説明している。考えてみると数の連続性のイメージというのは証明されているという感覚よりも漠然とそう信じているという感覚に近い。厳密につきつめると普段の信憑に自信がもてなくなるということはよくあり、数学においてはだからこそ基礎づけがだいじというわけだ。

 「知っていることを知っている」のトポロジーでは、為替相場における投機戦略について相手の思考を読むということをどう数学的に定式化するかということがあつかわれている。お互いに共有している知識を集合を利用すると「知っていることを知っている」という高階の知識をより簡潔に表すことができるという点が非常に面白かった。

 村上春樹の小説が数学的だという著者のエッセイは「暗闇の幾何学」として書かれているが、作品の著述の一部を取り出して数学的なにおいがすると述べているにとどまり印象批評の域をでていないという感じである。数学的だから世界的に読まれているのだという「論証」はちょっと唐突な感じがしますね。


探偵ガリレオ

2007-11-13 09:58:38 | 本:文学

 『探偵ガリレオ』(東野圭吾著、文春文庫)を読む。
 テレビドラマとして放映されている原作の短編集を読んでみた。謎解きのポイントに物理や化学の知識を応用するというスパイスを利かせたミステリーでなかなか面白い。ミステリーファンではないので詳しくはないが、利用されるトリックにさまざまな技術や化学物質などが応用される例は少なくはないと思う。こうした知識はあまり高度で専門的すぎると謎解きをされてもまるでわからず意外性にかけることになるし、あまり初歩的だとしらけてしまうので、そのあたりの勘所がむつかしいだろう。そのあたりは作者はなかなかうまく応用してうまくストーリーを作っていると感じた。
 ホームズ役を演じる主人公が物理学科の准教授という設定で、難事件を解く際に突然あたりかまわず複雑な計算式を書きだし快刀乱麻を断つ如く解決するという毎回お約束の演出には、苦笑させられるが、このあたりは特殊な科学的知識をもつ人の特殊性を際立たせようとする意図が感じられる。
 使われている小道具はレーザーや衝撃波など現代風のものであるところが新鮮味があるのだろう。こうしたものは一般の多くの人が名前くらいは聞いたことがあるが、実際にはどう使われているかよくは知らないというものであるのが、大事なところでもあるだろう。ある程度は普及していないと小説のなかで使っても認知されないだろうからである。逆に大衆小説にさまざまな科学的知見が使われるようになるのにその発見や発明がなされてからどれくらいの時間経過が必要であったかを調べてみるのも面白いかもしれない。
 一般にはこのような技術や知識自体は中立でそれを使う人の価値観によって役にも立てば、害にもなるという解釈がされている。だから通常こうしたドラマにはマッドサイエンティストの登場が要請される(テレビドラマの「壊死る」での犯人など)。たしかこの小説の題名にもなっているガリレオも「神なき知育は知恵ある悪魔を生む」といっていたし、アインシュタインも「知識は方法や道具に対しては鋭い鑑識眼をもっているが、目的や価値については盲目である」と述べていた。まあしかしこれらの言葉は科学者の立場からの発言だから知識自体は価値とは関係なく、それとは独立に探求されて然るべきだという価値観の表明とも受け取れるわけである。
 こうしたドラマや小説がこの時代でどのように評価され受容されるのかはその時代の科学に対する印象を表現しているともいえよう。


法哲学講義

2007-11-11 20:43:42 | 本:哲学

 『法哲学講義』(笹倉秀夫著、東京大学出版会刊)を読む。
 法についてのお勉強として購入した本で、「はしがき」にあるように「学部学生と社会人に法の世界・法哲学への道案内をすることと、ものの見方・考え方を訓練すること」を目的としているということでうってつけである。また複数の著者を編集したものではないので、著者の一貫した視点があることもいい。
 第一章は「法と政治と道徳」から説き起こされ、法のみの閉じたシステムを表すのではなく政治や道徳と対比させながら述べている。法解釈は論理的な側面と同時にそうでない側面があり、「過去に制定された法を前提にしつつも、今日の生活にとって妥当な法の運用いかに確保するかにあること、の確認」にあり、「政治におけると同様、法それ自体が目的ではなく、他のものを目的として、それを如何に効果的に-しかし法の枠組を尊重しつつ-実現するかを重視する目的合理的思考であり、柔軟な思考であることが帰結する」と述べる。
 第2編までは総論的だが、第3編からは「国家論」、「民主主義と自由主義」、「戦争責任論」、「抵抗権」、「象徴天皇制の法哲学」など各論的な事項について踏み込んだ議論がされていて興味深く読んだ。
 戦争責任論においては、過去のあやまちを不断に想起するこの重要性を論じている。後の世代が関わる戦争責任は国民の一人としての個人的道徳的責任をどのように内面化するかが重要であることを著者は強調し、日本では天皇制という集団主義のために国民個人の責任が内面化されていないとしている。このあたりの議論は著者も丸山真男について論じた著書もあるだけに力がこもっているし、法律の教科書らしからぬところがあり面白い。この部分は第19章の「象徴天皇制の法哲学」とあわせて読み、「象徴」とは何かを考えながら読むといっそう考えさせられる。著者は日本の天皇の象徴性について戦前と戦後では全く性格が異なることを述べ、

 ・・・戦前の《神=天皇→内閣→臣民》という権限関係は、今やまったく逆転し《国民→議会→内閣→天皇》という順序になったのである。
 天皇はここまでその存在を国民に依存させた関係にあり、したがって憲法上ではその象徴性は全く超越性をもっていないし、「君主の固有権」をもった独立存在でもない。このような象徴性を、ここでは「国民に依存した象徴性」と呼ぶ。

 法的に見て天皇は、君主として国民の上位には立っていない、むしろ、「固有権」をもたず国民主権に服しているのだから、国民相互間の名誉毀損以上の保護を受ける必要はないし畏敬の対象とはなりえない。この点で、たとえば皇室典範が「陛下」などといった秦の始皇帝にまつわる敬称を規定しているのは、奇怪という他ないだろう。

 現行憲法の理念に基いて理路整然とした議論が展開されている。改憲の議論は政治の混乱でやや遠のいた印象があるが、こうした基本的なことは改憲に関わる国民が十分議論しておくべきことだろう。その点では、テキストという性格をふまえこの議論についての対論をいくつか紹介してくれるといいのだが。

 同じ著者の手による『法思想史講義』上下巻が東京大学出版会から刊行されており、こちらも読まねばならない。


ほとんど記憶のない女

2007-11-10 17:50:27 | 本:文学

 『ほとんど記憶のない女』(リディア・デイヴィス著、岸本佐知子訳、白水社刊)を読む。これはどういう短編集といって紹介していいのだろうか。巻末の著者紹介にはフランス文学の名訳者の短編集とあるが、実に五十一編の短篇が収載されている。190頁の本なので数行の掌編もある。掌編より断章というべきものもある。断章というより詩というべきものもある。詩というより・・・。それほど形式というものを超越した短編集である。その中から気になった一節を。

 失敗から学べるものならそうしたいが、世の中には二度めがないことが多すぎる。じっさい、いちばん大切なことは二度ないことだから、二度めにうまくやることは不可能だ。何か失敗をして、どうすればよかったのかを学習する、そして次こそうまくやろうと心構えをしていると、次の出来事は前のとはまるでちがっていて、また判断をまちがえる、そして今回のことについては心構えができるが、同じことが繰りかえされることは二度となく、けっきょく何の心構えもできないまま、また次の出来事が起こる。
                            (「二度目のチャンス」から)

 ミシェル・ビュトールいわく、旅することは書くことである、なぜなら旅することは読むことだからである。それを発展させるとこうなる-書くことは旅することであり、書くことは読むことであり、読むことは書くことであり、読むことは旅することである。いっぽうジョージ・スタイナーによれば、翻訳することもまた読むことであり、翻訳することは書くことでもある、そして書くことは翻訳することであり読むこともまた翻訳することである。したがって・・・(以下略)
                            (「くりかえす」から)

 失われたいろいろのものたち、でも本当に失くなったのではなく、世界のどこかに今もある。ほとんどは小さいものだが、大きいものも二つあって、一つはコート、一つは犬だ。小さいもののうち一つは高価な指輪、一つは高価なボタン。それらは私からも私のいる場所からも失われてしまったけれど、消えてしまったわけではない。どこか別の場所にあって、そこで誰か別の人のものになっている、おそらくは。でもたとえ誰かのものになっていなくても、指輪は依然としてどこかにあって、それ自身が失われたわけではなく、ただ私のいる場所にないだけで、ボタンもまた、依然、どこかにあり、それ自身、失われず、ただ、私のいる場所にないだけなのだ。
                           (「失われたものたち」)

というようにこれらは小説というよりはエッセイというべきものであろうか。一つのことを巡って堂々巡りするような、あるいはメビウスの環をぐるっと一周したような気分になるような不思議な文章である。
 最後の掌編は次のような文章である。

 私たちがある特定の思想家に共感するのは、私たちがその人の考えを正しいと思うからだ。あるいは私たちがすでに考えていたことをその人が私たちに示してくれるから。あるいは私たちがすでに考えていたことを、より明確な形で私たちに示してくれるから。あるいは私たちがもう少しで考えるところだったことを示してくれるから。あるいは遅かれ早かれ考えていたであろうことを。あるいは、もしそれを読んでいなかったらもっとずっと遅くに考えていたであろうことを。あるいは、もしも読んでいなかったら考える可能性があっても結局は考えなかったであろうことを。あるいは、読んでいなかったら考える意志があっても結局は考えなかったであろうことを。
                                  (「共感」)

「これこそがまさに私が言いたかったことなのだ」という共感の中には後悔と矜持と嫉妬があるからこそ共感は強まるのだろうか。


一週間が過ぎて

2007-11-10 17:18:27 | 独り言
 11月3日にブログを更新してからまる一週間ブログに向かうことなく一週間が経過した。多忙だったと自分に言いきかせるほど多忙であったわけでもなく、無為に過ごしたというほど無駄であったわけでもなかったが、(どこかの国会と同じように)空転という感じが適当な一週間だった。物事に取り組んでも成果がでないことはままあるものだ。そういうときはたいてい他のこともうまくいかないものでへんな連鎖現象である。renqingさんからはコメントをいただいていたが、すっかり公開するのが遅くなってしまった(ご寛恕のほどを)。