祝祭の<帝国>

 『祝祭の<帝国>』(橋爪紳也著、講談社選書メチエ)を読む。
 明治から昭和戦前期にかけて都市に出現した工作物(凱旋門、杉の葉アーチ、花電車)を紹介した一風変わった本である。著者はこれらの造形を「めでたさを表す環境言語」と表現している。
 杉の葉アーチというのは、鉄や木でアーケードや屋根型などの枠を造り、そこに杉の葉を飾りつけた造形物である。こんなものが明治時代に開化のしるしとして作られたことは本書で初めて知った。さまざまな建築の落成記念や橋の開通記念など公的空間の装飾ばかりか正月の松飾りの代わり、結婚式の飾りにも使用された。一世を風靡したそうだが、西洋風のものから和洋折衷の形、純和風の形(鳥居など)と変形したという。その後飽きられたのか次第に廃れ、門松や松飾は昔ながらの伝統的な様式に復した。
 凱旋門は端的に戦勝記念の造形物として西洋のそれを模倣して作られたものだが、掲載されている写真を見ると、アーケード形式の実に巨大なものがあり、驚きである。
 花電車は最初「装飾電車」といわれたらしいが、初期には帝国陸海軍にかかわるパレードに使われた。大正時代になると軍事イベントは少なくなり、天皇家の祝賀行事が多くなるという。
 これらの造形はその新奇さ、壮大さ、華麗さで衆目を圧倒し、祝われる対象をさらに美化する効果をもたらしただろう。杉の葉アーチなどは最初公的で大きいものが、次第に縮小しつつ私的な祝祭行事に転用されたようだから、庶民が祝祭性を共有するということで共同体意識を高めるのにも役立っただろう。こうした造形は韓国や台湾にもあったのだろうか、それとも国内だけのものだったのだろうか。<帝国>の版図を考えると、その辺も紹介してほしかった。
 表題に<帝国>とあるが、帝国の国民の意識にこれらの建造物がどのような影響をもたらしたかという考察はあまりなく、表題にもう少し工夫がほしいところである。

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日中戦争

 『日中戦争 殲滅戦争から消耗戦へ』(小林英夫著、講談社現代新書)を読む。日中戦争については講談社からも新書が出ている。本書では戦争遂行という軍事的観点からこの戦争が当初短期的に決着をつける殲滅戦争として開始されながら、中国および諸外国との政治外交で失点を重ね、日本がいまだ経験しなかった消耗戦へと突入し、敗戦への道を進んだと分析する。当時自給戦争的な戦争を構想できた指導者は日本には稀だったようだ。殲滅戦と消耗戦との違いを認識し、長期的戦略をたてる必要があったにもかかわらず、それができなかった日本が、それを気づく機会としては、著者が指摘するところによれば、日露戦争があったという。これを当時の軍首脳は殲滅戦の一類型として位置づけていた(石原莞爾はこれに疑問をいだいていたという)。
 日本が長期的展望にたてなかった理由として、著者は日本の地理的・歴史的特性に求めている。「明治以降の日本の近代とは、たえずその時の超大国と連合し、その庇護の下で世界情勢の変化も利用しながらアジアで国益の伸張を図るという歴史」であったことが原因だとする。当時の認識は殲滅戦としてしか戦争を認識していなかったので、「十五年戦争」という呼称についても著者は皮相的な見方だと断じている。
 本書を通してのメッセージは、長期的視野にたった戦略が必要だということと、インフラとしの技術や装備などのハード面がいかに優れていても、外交的戦略というソフト面が伴わなければ負けることが十分あるということである。これを今日の日本がおかれている状況についても当てはまるのではないかと懸念している。
 長期的視野に立つということは、目的を遂行していく個々の段階で予想される場面をすべて想定し、いかなる事態になってもそれに対する対策を講じておくこと、そしてその場合に他国がどう反応するかを想定しておくことだ。目的を掲げる者は往々にしてその目的の素晴らしさに酔っていることが多いから、予想される不利な事態には目を瞑っている。これを認識させるのがそれを支える周囲の人々の役目である。「死ぬ気でやればなんとか道は拓ける」というのが、もし指導者の言葉だとすれば、それは自分の無能さを露呈しているとしてよい。まあ戦いというものは、負けるとわかっていながら受けて立たねばならないことはあるから、その場合にはどのような負け方をして、どう敗戦処理をするかというのを予め考えておき、そこから戦略を練っておき、敗戦後にも部下の人心が離れないように予防線を張っておかねばならない。
 狡猾な戦い方というものを日本人は、歴史からまだ十分学んでいないのではないだろうか。
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日中戦争下の日本

 『日中戦争下の日本』(井上寿一著、講談社選書メチエ)を読む。
 太平洋戦争へと日本が突入していくことになった1930年代の日本の状況はどのようであったのか。著者は、この時代の日本が「社会システムの不調」をきたしていたと診断する。1929年の世界恐慌の影響により日本は国際協調から地域主義へ、自由主義から全体主義へと大きく政策転換していた。この過程での不調和が顕在化したのが、日中戦争であったと位置づける。当時国内システムの改革を進めた勢力は同時に侵略戦争の推進派でもあった。
 盧溝橋事件が起きた時日本は不拡大主義をとり、現地では日中両軍が4日後には停戦協定を結んだが、近衛内閣は停戦協定を確実なものとするために、増派を決定する。抗日姿勢をとりつつあった中国はこれに反応し、戦争は長期化する。この戦争を国内的にどのように位置づけるかで問題があった。国内では帝国主義的戦争ではないかとして質問演説をした民政党の斎藤隆夫議員は懲罰委員会にかけられ、除名処分となった。この演説が問題だったのはこれが「反軍演説」だったからではなく、「いたずらに聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑居し」、「東亜新秩序」の樹立といった抽象的な目的のために領土も賠償金もとらない政府の基本方針を批判するものだったからだ。
 「吾々は、現在に於いても、帝国主義戦争には絶対反対である。然し今次の支那事変は、民族発展の戦争であって、資本主義改革を要求する所の国内改革の戦争である」と主張していた社会大衆党は、斎藤演説が日中戦争の目的を矮小化していると批判した。政党間の政策対立は、「営利経済主義」(既成政党)対「公益全体主義」(無産政党)の対立だったのだ。社会大衆党は、高額所得者への増税や戦時利得の国庫還元によって、戦争に伴う犠牲の均衡を求め、「全体主義計画経済」を求めていた。大政翼賛会が成立する前の状況というのは、「自由主義」対「全体主義」の対立だったのだ。さらに対米英依存から脱却し、東アジア圏に自給自足の経済圏を確立しようという動き(地域主義)がからんでくる。
 大政翼賛会は、ファシズム体制というよりはデモクラシー体制だったというのが著者の主張だ。ファシズム一色の戦時体制と今まで思っていたから、こうした分析は非常に新鮮で面白かった。
 日本主義は大政翼賛会の成立前後には興隆をきわめていたが、この時期から日本主義は政治目標が実現したため急速に衰退したという。

 また日米開戦も、目標喪失感をもたらした。日米開戦直後の国家主義団体の状況は、たとえばつぎのようだった。「米英に対する宣戦布告に依り対外運動の主要目標解決せられたる為運動方針の再検討を余儀なくせられ・・・予定の講演会を中止せるものもあり」。
 対米英戦争の決意を東条首相に求めていた国家主義団体は、実際に米英との戦争がはじまると、「『吾が事成れり』と歓喜する」とともに、つぎの目標を掲げにくくなり、行動も拡散していった。
 以後、日本主義は、急速に影響力を失っていく。東条首相も施政方針演説のなかで「徒ニ理想ヲ追ハズ、事態ニ即シテ」政治運営をおこなうと述べている。(中略)
 それどころか東条は、警察権力を直接指揮して、国家主義団体の摘発に乗り出している。行き過ぎた日本主義が政治に及ぼす悪影響を取り除こうとしたからである。
 こうして空虚な「神の国」=日本が成立した。


 開戦への道のりはよくわかったが、それではなぜその空虚な日本で、あのような悲惨な結果になるまで”継続”されたのだろうか。一旦始まったものは止めようがなかったのだろうか。戦争継続の要因についてはまだ分析が必要ではなかろうか。
 あとがきで著者が「この本を書きながら、「昭和戦中期の日本とは、今の日本のことではないか」と錯覚に陥ることがあった。」と述懐していることが妙な説得力をもって迫ってきた。

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ダイ・ハード4.0

 映画『ダイ・ハード4.0』を観る。封切られてまもなく観たから、ちょっと遅れた感想である。主演のブルース・ウィリスは1955年生まれだからもう52歳になる。映画の主人公のジョン・マクレーンが設定でいくつなのかは知らないが、娘ルーシーに会うためニュージャージー州の大学に立ち寄ったとなっているから、50歳前後だろう。まさにタフガイといったところだが、なかなか死なない奴「ダイ・ハード」という題名からは、私立探偵フィリップ・マーローの台詞を連想する。
 If I wasn't hard, I wouldn't be alive, if I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
 「タフでなければ生きてはいない」と訳されることが多いが、原語は”hard”である。まさにこの映画の主人公が吐いてもおかしくない台詞だと思う。
 マクレーンは一応警察という公的機構に所属している人物であるが、置かれている位置はその中枢というよりは周辺であり、恰好もおよそ正規の警察官らしくはない。かぎりなく部外者に近い存在である。その彼が途方もない悪の集団に一人で立ち向かい撃破するという設定に観衆は喝采を送るのだ。お約束どおり警察機構の人物は無能者として描かれる。しかしマクレーンは、ハードボイルドに登場するタフガイとはまた異なる。ストーリーでは彼とロマンスに落ちる女性は皆無であるし、結婚したことがあり、娘がいる。女性という存在に対してはこの映画は徹底的に禁欲的になっており、彼はかつての奥さんを愛している。しかし家庭を維持するという父親としては失格しており、娘ともうまくいっていないという弱点をもった存在である。超人的活躍を見せ、よき夫であり、父であるという一昔前のヒーローでもない。すべてにおいて優秀というヒーロー像はもはや共感を得られないので、そういう設定になっているのだろうが、不甲斐なさがありながら女性や酒に溺れるような人物ではない。そういうところにも人気があるのだろう。
 シリーズでは超人的な彼の脇役としてよく黒人が登場するのもアメリカ的である。第一作では、確か過去に人を誤射して弱気になってしまった黒人警察官が登場するし、第三作ではスラム街の黒人とともに街を駆け回っていた。今回はさすがに趣向をかえて、引きこもりのコンピュータおたくの青年を登場させている。ヒーローに寄り添うのは、か弱き美女という設定ではなもはやない。逆にこのシリーズに登場する女性は冷血で残酷な悪役であることのほうが多い(第三作と今回)。従属する美女か敵対する悪女とするか、このあたりはアメリカ映画の作成者(男性)が女性の扱いに困惑している状況がうかがえる。
 かつての男性の観客はおそらく自分をヒーローに同一化し、美女を従え冒険をするという幻想に満足していたのだろう。しかし現在、家庭でも仕事でも自信がもてない彼らは素直に主人公に同一化できない。だからヒーローはどこかしら欠点を持っているし、同一化できる脇役たちの視線が必要とされるのだ。その脇役のもつ弱さ(ここで依然として黒人が起用されるところにも問題があるが)に共感を感じ、戦い終えた主人公から一片の強さを学ぶことで希望を持つことができることが、現代のアクション映画に求められることだ。観客にとって「優しくなければ」映画としての資格がないのである。
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肖像写真

 『肖像写真』(多木浩二著、岩波新書)を読む。肖像写真を見ることは、単にその写真の人物を見ることではない。その写真の被写体を通して写真家がどのようにその時代と人間を見つめていたのかを感じることができる。この本では、異なる時代に生きた三人の写真家を取り上げ、彼らの作品とエピソードを紹介しながらそれぞれの時代と写真家を浮き彫りにしている。取り上げられる写真家は(1)フェリックス・ナダール(1820-1910)、(2)アウグスト・ザンダー(1876-1964)、(3)リチャード・アヴェドン(1923-2004)である。気球を使った都市景観の撮影も行ったナダールの被写体は主にブルジョアの知識人たち。ザンダーの被写体は匿名化された人々。アヴェドンは被写体の背景は白い空白として彼(彼女)たちの表現としての肖像を撮影した。

ナダールは自分の好みの人物たちを選び、彼らをできるだけ自由な状態に置きたいという応対をしながら相手を見ていた。ザンダーは、ピンからキリまでの人間のだれにも共感を抱きながら見ていた。アヴェドンは決して冷淡ではないが、善人に対しても悪人に対しても、権力者にも犠牲者にも、できるだけ冷やかで空虚な視線を投げかけた。

 顔とその表情というのを私たちは単なる対象として見ることができない。これはコミュニケーションする生物として今まで進化してきた人間の宿命だと思うのだが、私たちは必然的にそこに意味を読み取ろうとしてしまう。さらには自然界のいたるところに表情を見ようとしてしまう。意味を時間軸上に展開したとき、それは観相術になる。相手から眼差されたとき、どう対応するかを迫られる(少なくともそう感じる)。このとき私たちの脳はフル回転で記憶を呼び覚まし対応を瞬時に決める。肖像写真では眼差されるが、そうした対応から私たちを解放する。好きなだけその被写体を眺めることができる。この非対称的な視線のやり取りによって眺める私たちはさらに多くの意味や物語をそこに読み取る。これら三人の作品を眺めてくると、写真というものが最初は被写体が語るものを受け取るという感じであったものが、写真によって語らせる、仮に虚構の物語であろうと積極的に語らせるものに変化してきたことが実感できる。
 興味深いアヴェドンのエピソードが紹介されていた。ボルヘス、ベケット、フランシス・ベーコンを撮影したときのエピソードである。

アヴェドンは彼(注;ボルヘス)が盲目であることに不安を感じていた。さらにブエノス・アイレスに向かう機上で、ボルヘスが一生ともに暮らしてきた母親がその夕方死去したことを知った。撮影はキャンセルだな、とアヴェドンは思った。ところがアヴェドンは招じ入れられた。暗い中にボルヘスは座っていた。それからアヴェドンにキプリングの詩をとってこさせ、そのなかのひとつを朗読させた。母親の遺体はとなりの部屋にあった。それからしばらく会話。やがて明るくしてもらい、感動に胸一杯になりながら撮影した。しかし写真はよくなかった。

ベケットは単純明快にパフォーマンスを拒絶した。アヴェドンが撮影の準備をしていると、ベケットは「これは私にはひどい苦痛なんだ」と言った。アヴェドンはベケットの意向を尊重し何枚か撮ってやめたが、撮れたかどうか不安だった。だがベケットの肖像はよく撮れていた。

ベーコンの場合はうまくいった。パリのトロカデロの近代美術館の影になったところをスタジオにして待っていると、彼はいかにも写真を撮るんだという派手な恰好として現れた。いろいろ話をしているうちに、意図を理解してジャケットを脱ぎ、アヴェドンの着ていたなんでもないセーターに着替えてくれた。そして一切の余計な身振りをやめ、自分自身に戻ってくれた。ベーコン以上にベーコンを演ずることはできない。それを完璧にやってくれたのだった。

 

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モスラの精神史

 『モスラの精神史』(小野俊太郎著、講談社現代新書)を読む。東宝映画『モスラ』とその原作『発行妖精とモスラ』で読み解く現代日本の精神史である。映画は1961年公開だから当然私はリアルタイムでは観てはいない。テレビで放映されたのを見たのだろうと思う。蛾の怪獣と南洋から来た双子の小人という点は覚えているが、詳細なストーリーは憶えていなかった。この本を読んで、当時の社会情勢や日本神話と深く結びついていることが分かり大変面白かった。原作が中村真一郎、福永武彦、堀田善衛の三人だったというのも初めて知った。
 同時期の怪獣として有名なゴジラと対比し考察されているが、モスラというのはゴジラとは異なり、母性原理と関連していると考察されている。そこには日本に古来からあった養蚕に因んださまざまな神話や文学のイメージが流れ込んでおり、それらもモスラの女性的イメージを強くするのに寄与している。興行目的に拉致誘拐された妖精を連れ戻すためにはるばる海を渡り来るというのもゴジラと対比するとやはり母性的である。怪獣映画でありながら破壊ということよりもそうした神話的イメージが基礎におかれている。さらに南洋に抱く幻想的イメージが重ね合わされる。モスラの唄は、インドネシア語だというのも本書で初めて知った。そこに日米安保条約を結んだ当時の日本の政治状況や水爆実験によって汚染被爆された自然といった問題が映画に現実感と緊張感を与えている。モスラが日本から飛んでいく先はロシリカという国家でこれはロシアとアメリカの合成だそうだ。映画では「ロリシカ」に変更されているという。
 このモスラの系譜は宮崎駿の『風の谷のナウシカ』へと続いていると最終章で述べ、『モスラ』の意匠をそこに指摘している。
 当時の怪獣映画にこめられた社会性や作者の思想が見事に分析されていて面白かった。こうした怪獣映画がどうしてその後お子様向けに幼稚化の道を辿ったのか。そして日本では実写の映画ではなくアニメの方がむしろ優れた作品を生み出すようになったのはなぜだろう。単純に経済的な問題ばかりではないように思う。
 本書を読んで改めて映画『モスラ』を鑑賞してみたくなった。

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鉄道ひとつばなし2

 『鉄道ひとつばなし2』(原武史著、講談社現代新書)を読む。『鉄道ひとつばなし』の続編である。前著にあった「駅から見た東京に出づらい都道府県ランキング」が沖縄県を含めて更新版が載せられている。新幹線が整備されて中央、すなわち東京へのアクセスが便利になっているように見える反面実は、地方都市では在来線のダイヤが以前よりも削減され東京に出るまでにさらに時間がかかるところが出てきているという指摘がされている。たった8ページの記事だが、著者の綿密な計算には頭が下がるし、それだけに説得力がある。もちろん自動車による移動は計算にはいってはいないが、鉄道が基本的な国家的インフラであることは現在でも変わらないから、こういうところに地方切捨ての悪影響がでているのかと心配になる。東京や地方の中核都市への集中はどんどん進んでいるが、地方の市町村は寂れているのだ。さらに、一つの鉄道線で二つの県にまたがる路線があるが、その数(K)とその区間で隣接する双方の県の駅に停まる列車が全部で何本あるか(H)を調べ上げ、各県の駅から隣接する県の駅に行くのに1日平均何本の列車があるかを示す「隣接係数」(H/K)を算出している。鉄道による移動からみて、隣の県がどれくらい遠いかを示す指標になるわけだが、これも地方ごとに格差が大きいことを著者は示している。東北地方は新幹線の開通で東京へのアクセスはよくなっているのに、隣接県どうしのアクセスは逆に悪くなっているのだ。地図上は近くても実は遠いという感覚をもつことがあるが、こうしてデータでしめされるとなるほどと改めて実感する次第である。


 別のエッセー「狙われる列車」では、昭和天皇が乗られたお召列車の爆破未遂事件のことを紹介するとともに、訪中を終えた金正日総書記が乗った特別列車が龍川駅を通過した後爆発事故があった事件のことも書いている。そこで金正日のような独裁者はなぜ列車が好きなのかという疑問を出している。



なぜ金正日は列車が好きなのか。それはおそらく、彼が独裁者であることと関係している。飛行機は、いったん離陸するや、独裁者といえども全く無力になる。あとは着陸するまで、パイロットの操縦に従うしかない。ところが列車ならば、ダイヤグラムがあっても、独裁者の命令一つで即座に停めることができる。事実上、運転士になり代わることもできるのである。


輸送機関に乗せられて移動中は誰でも拘束下に置かれている。いわば軟禁状態である。他者の自由をだれよりも拘束している独裁者はそれを誰よりも嫌うということだろうか。独裁者の話とは別になるが、鉄道が文学を生むというのも、移動中に拘束された状態に置かれながらもある程度の自由が確保されているからではないだろうか。飛行機では窮屈すぎる。あれほど人の自由を奪う交通機関はない。また文学が生まれるためには内省が必要だ。人はまったく自由である時よりもある程度の束縛下に置かれた時の方が内省的になれる。自動車によるドライブは自分で運転しなければならないから内省的にはなれない。では運転士がいればどうか。そんな金持ちはおそらく文学とは無縁だろう。

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鉄道ひとつばなし

 『鉄道ひとつばなし』(原武史著、講談社現代新書)を読む。講談社のPR誌『本』に連載されていた鉄道に関するショートエッセイをまとめたものであるが、これは面白い。著者は、東海道本線の戸塚駅近くの大学に勤務しているということだが、「授業終了後に東京に出るとき、百年以上も前に明治天皇や伊藤博文や夏目漱石が、やはり同じ区間に乗っていたという事実に思い至り、大いなる感慨を覚えることがある」ほど鉄道に寄せて歴史的想像力を馳せられる方なのである。また小学校に上がる前に日本全国の駅名を覚え、時刻表を自由に使いこなしていた鉄道ファンでもあったという。
 話題は鉄道や駅にまつわるものや鉄道周辺の風景など多岐に渡るが、特に面白いのが鉄道にまつわる人々のエピソードを紹介した第二章である。東急の創業者五島慶三と阪急の創業者小林一三の対照的人物像とそれが二つの鉄道にどのように繁栄しているか(「五島慶三と小林一三」)や下関に向かう途中で突然病に倒れた後藤新平がどのように救急搬送されたか(「後藤新平の客死」)、なぜ永井荷風は浅草に行くのに東武を利用しなかったのか(「荷風と京成」)、ドイツの鉄道網を誇っていたヒトラーがそれをどのように政治的に利用したか(「ヒトラーと鉄道」)、戦後の占領期に高見順が鉄道車内で感じていた屈辱と怒りは誰に向けられていたか(「占領期の鉄道」)など面白さは尽きない。宮脇俊三氏の死について書いたところでは、鉄道文学の将来を憂える。

 内田百、阿川弘之、宮脇俊三と受け継がれてきた鉄道紀行文学の系譜は、阿川さんよりも年少の宮脇さんが亡くなったことで存亡の危機に立たされている。どこの鉄道にどんな車体が走っているという知識ばかりをひけらかしたマニアは山ほどいるに違いない。けれども、宮脇さんほど昭和史に精通し、日本各地の四季折々の変化に鋭敏な感性の持ち主が、果たして鉄道趣味界に現れるだろうか。
 全国が高速道路と新幹線で結ばれようとする二十一世紀に、その可能性は限りなく低いといわざるを得ない。

目的地へと移動する手段にすぎないと言えば言えなくもない鉄道が、自動車や飛行機、船舶と異なりこれほど文学的生産力に富んでいるというのはどうしてだろうか。

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戦争の日本近現代史

 『戦争の日本近現代史』(加藤陽子著、講談社現代新書)を読む。為政者や国民がいかなるときに戦争やむを得ずと感じたり、戦争を支持したりするようになるのかを日本が経験した戦争を取り上げ分析するというケーススタディである。通読してみると明治維新により政治体制が変わり、日本が独立を守りながら西欧化を進めていくのに平行して軍備拡張が進められていった経緯がよくわかる。維新期においてはすみやかに攘夷論を抑えつついかに欧米に支配されないようにするかという観点から軍事外交戦略が進められた。この国家的強迫観念に突き動かされながら外には帝国主義的野心を示すという過程で、朝鮮は日本の欠かすことのできない「利益線」だったのだ。その意味で朝鮮の中露に対する独立を確保しておく必要があった。当時の帝国主義下の情勢を考えると、日本の権力者たちは客観的に情勢を分析していたことがわかる。侵略者日本という見方をすれば、たしかにそういえるのであろうが、当時の情勢を眺めると欧米列強に対する外交戦略としてそうせざるを得なかったのであろうと思われる点も多々ある。クラウゼヴィッツが定義したように、この時代は、戦争とは「政治とは他なる手段をもってする政治の継続」であったのだ。戦争は確かに悪であろうが、戦争が政治外交の一手段であった時代に対する想像力も歴史を読む上では必要だ。戦争反対とお題目を唱えるだけだと、いつの間にか「戦争」というものをある明確な時期から突然始まる行為としてしか理解できなくなってしまい、その戦争を準備させた外交や経済の問題に対して盲目になる。だから戦争になぜ負けたのかという分析よりもなぜ始まったか(始まらざるをえなかったのか)という分析のほうが重要であり、より生産的だと思う。
 また日本が悲惨な戦争へと向かっていった過程では大衆の戦争を肯定する感情とそれを増幅したメディアの影響は無視できないと思われる。対外的な政策をいかに大衆に納得させるかということ、これは権力者が自分の政策を合理化する手段でもあるだろうが、その論理があとづけ的でも好戦的な国民感情に押されると立派な開戦理由となるのだ。そのような渦中での反戦論というのがいかに無力になってしまうのかということにも私たちは肝に銘じておかねばならない。いったん振り上げてしまった矛を鞘に収めるためには振り上げたとき以上に大きな力が必要なのだ。
 本書の中で興味深く読んだのは第7講のところでとりあげられている日本の移民問題であった。第一次世界大戦後のパリ講和会議で、日本が北太平洋の旧ドイツ領南洋諸島処分問題と山東省利権継承問題とともにあげた人種差別撤廃問題があった。これは日米間の移民問題が中心なのだが、アメリカはそれを内政干渉だとして拒否した。アメリカが最終的に連盟に加入しなかった経緯にこの問題が大きな比重を占めていたということは興味深い。もちろん日本側も人種問題という普遍的な権利問題として定義したわけではなく、あくまで政治戦略として提出したものであるが、一般論では普遍的問題であるが、個別には内政問題として写り国際協調の蹉跌となるというのは今の環境問題にも通じるところがある。またこの移民問題に負けることが日本の「武威の減少」を意味し、ひいては日本に対する中国の態度にも影響するため参謀本部が由々しき問題だと受け止めていたというのも軽視すべからざる点だと思う。国家の威厳や体面ということが、戦争という愚かな行為にはしばしば関係するからである。国家という他者からどのようなまなざしで自国が見られているのかという不安や疑心暗鬼、また軽蔑されていると思いこんだときの怒りは戦争への格好の入り口となる。
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伊勢神宮

 『伊勢神宮-東アジアのアマテラス』(千田稔著、中公新書)を読む。新書のカバーのところに「伊勢神宮は、日本文化のなかでもっとも日本的なものと思われている」と書いてある。「もっとも日本的」とあるが、私は一度も訪れたことがない。距離的には東京よりも近いのだが、心理的には東京よりも遠い。遥か彼方の神社という気がする。
 アマテラスの来歴の考察から伊勢神宮の成り立ちが書かれているが、道教の影響を受けていた古代の祭祀がアマテラスという「太陽の宗教」に習合した結果成立したということらしい。「天皇」という語は、道教の最高神である天皇大帝(てんんこうたいてい)に由来し、北極星を象徴化している。これが日本では日の御子すなわち太陽の子供と同一化されているというのだ。またアマテラスの神体を鏡としているのも古代道教の影響という。さらにアマテラスに道教の最高の仙女である西王母の影響をみる説もあるという。道教の世界観では東西南北とその中間の東北、東南、西南、西北を含めた八方位があり、天皇が納める八方の国が神国として認識された。これは『日本書記』神武紀にある「八紘をもって宇(いえ)とする」という表現につながる。
 アマテラスは、また本地垂迹説によれば密教の大日如来と習合した。それによれば当時「大日本国」という表記は、「だいにほんこく」ではなく、「大日の本国」すなわち「大日如来の本国」と読まれた可能性が高いという。当然のことだろうが、日本の神様もさまざまなところから影響を受けて成立しているということだ。それにしても大陸から伝来した道教や仏教とあからさまな宗教的対立なく融合してしまうというのは宗教と宗教という関係を考えるとかなり特異なことである。これには著者も指摘しているように、神道が祝詞以外には目立った言説がなく、当然のことながらその宗旨の思想的言説がないことから簡単に融合したのであろう。もし神道に明確な思想的言説があったならば、伝来したほかの宗教との「対話・討論」といった言語的コミュニケーションが行われ、その後の日本の思想も変わっただろう。そうした対立が実際にはなかったために、日本では幸いにも激しい宗教戦争がなかったのかもしれない。そして不幸なことには言語で理路を尽くすという態度が育たなかったのかもしれない。
 近代日本において韓国や台湾で神社の建設や神道の普及が図られたが、キリスト教とは全くことなり、成果をあげることなく敗戦と共に捨てられたのもかしこき神をただ崇め奉るという「宗教」にすぎなかったからであろう。伊勢神宮が遥か遠くの存在に感じるのもおそらくそのために違いない。
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