スウィニー・トッド

 『スウィニー・トッド』の公開が今週で終わるというので、遅まきながら映画館に足を運んだ。『チャーリーとチョコレート工場』の監督ティム・バートンとウィリー・ウォンカを演じたジョニー・デップのコンビということでも興味があった。
 もう鑑賞した人も多いことだからあらすじを含めてここで書いても問題はないだろう。彼の美しい妻に横恋慕した悪徳判事によって無実の罪を負わされ終身刑となった理髪師ベンジャミン・パーカーは、脱獄して十五年の年月を経て自分の街に帰ってくる。もちろん判事への復讐心に燃えて。彼はロンドン一まずいパイの店の女主人ミセス・ラヴェットの二階で床屋を開店することとした。ラヴェットから妻は砒素を飲んで自殺したと告げられ、益々復讐の誓いを堅くする。しかし彼が復讐を企てたその矢先、彼の過去を見抜いた理髪師ピレリから恐喝を受け、思わず殺害してしまう。死体の処理に窮した彼にラヴェットは、それをパイにつめる肉の原料として処分することを提案する。ここから二人の奇妙な生活が始まる。人肉パイ屋は繁盛し、トッドは判事が自分の店に訪れるよう画策する。
 おどろおどろしい猟奇的な犯罪を血しぶきが飛び交う生々しい映像とともに描写していくのだが、全編ミュージカル仕立てでくるんでいるところがまるで人肉をあたたかいパイ生地で包んだような出来上がりになっており、15歳以上であればおいしく召し上がれますといったところだろうか。
 しかし鑑賞して最も強く印象に残ったのは、猟奇的事件のことでもなければ、殺人の残忍な描写でもなく、資本主義というシステムの強靭さである。復讐心という実に私的な情念をも、肉詰めパイの生産過程へ組み込んで利用してしまうというところに感嘆した人はいないだろうか。これは羊頭狗肉ならぬ羊頭人肉という食品偽装事件でもあるのだが、トッドは食品偽装という意識はまったくなく、自らの復讐へ向けてまっしぐらに進んでいると思い込んでいる。しかし客観的にみると彼はせっせと毎日パイの原料の生産に励んでいる一労働者なのである。客の鬚を研ぎ澄ました銀の剃刀で芸術的手さばきで剃ること、これがパイを生産する店(一階)の二階すなわち上部構造で行われている。しかし彼は自分を支えている地下の人肉処理システムがどんなものかは全く知らない。女主人は言葉巧みに彼への愛を囁くが、夢見ているのは海岸での瀟洒な生活という上流階級への夢である。この大きなシステムの流れの中でトッドを見るとき、彼の妻と子への愛情の証明となるべき復讐心はどこか滑稽で哀れな様相を帯びてくる。映画の中で彼が歌い踊るとき、猟奇的な映画なのにどこか物悲しさと滑稽さが伝わってきてしまうのは、彼が実は踊らされていることに気づいていないことからくるのではないだろうか。
 古典的な復讐劇であれば、復讐者は彼を手助けする者と知恵を出し合い計画を立てて遂に悪漢どもに正義の刃を見舞い、目的を達するが自らも傷を負い死んでしまうというプロットであるが、そこに商品生産とその消費という奇妙だがそんな情念よりはずっと強靭でずっと長生きするシステムが介在する時、悲劇は喜劇と転化する。なぜ強靭で長生きなのか? それは、そうした悲喜劇自体をさらに商品にしてこの映画のように流通させさらなる消費を生み出すことができるからである。
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ダイ・ハード4.0

 映画『ダイ・ハード4.0』を観る。封切られてまもなく観たから、ちょっと遅れた感想である。主演のブルース・ウィリスは1955年生まれだからもう52歳になる。映画の主人公のジョン・マクレーンが設定でいくつなのかは知らないが、娘ルーシーに会うためニュージャージー州の大学に立ち寄ったとなっているから、50歳前後だろう。まさにタフガイといったところだが、なかなか死なない奴「ダイ・ハード」という題名からは、私立探偵フィリップ・マーローの台詞を連想する。
 If I wasn't hard, I wouldn't be alive, if I couldn't ever be gentle, I wouldn't deserve to be alive.
 「タフでなければ生きてはいない」と訳されることが多いが、原語は”hard”である。まさにこの映画の主人公が吐いてもおかしくない台詞だと思う。
 マクレーンは一応警察という公的機構に所属している人物であるが、置かれている位置はその中枢というよりは周辺であり、恰好もおよそ正規の警察官らしくはない。かぎりなく部外者に近い存在である。その彼が途方もない悪の集団に一人で立ち向かい撃破するという設定に観衆は喝采を送るのだ。お約束どおり警察機構の人物は無能者として描かれる。しかしマクレーンは、ハードボイルドに登場するタフガイとはまた異なる。ストーリーでは彼とロマンスに落ちる女性は皆無であるし、結婚したことがあり、娘がいる。女性という存在に対してはこの映画は徹底的に禁欲的になっており、彼はかつての奥さんを愛している。しかし家庭を維持するという父親としては失格しており、娘ともうまくいっていないという弱点をもった存在である。超人的活躍を見せ、よき夫であり、父であるという一昔前のヒーローでもない。すべてにおいて優秀というヒーロー像はもはや共感を得られないので、そういう設定になっているのだろうが、不甲斐なさがありながら女性や酒に溺れるような人物ではない。そういうところにも人気があるのだろう。
 シリーズでは超人的な彼の脇役としてよく黒人が登場するのもアメリカ的である。第一作では、確か過去に人を誤射して弱気になってしまった黒人警察官が登場するし、第三作ではスラム街の黒人とともに街を駆け回っていた。今回はさすがに趣向をかえて、引きこもりのコンピュータおたくの青年を登場させている。ヒーローに寄り添うのは、か弱き美女という設定ではなもはやない。逆にこのシリーズに登場する女性は冷血で残酷な悪役であることのほうが多い(第三作と今回)。従属する美女か敵対する悪女とするか、このあたりはアメリカ映画の作成者(男性)が女性の扱いに困惑している状況がうかがえる。
 かつての男性の観客はおそらく自分をヒーローに同一化し、美女を従え冒険をするという幻想に満足していたのだろう。しかし現在、家庭でも仕事でも自信がもてない彼らは素直に主人公に同一化できない。だからヒーローはどこかしら欠点を持っているし、同一化できる脇役たちの視線が必要とされるのだ。その脇役のもつ弱さ(ここで依然として黒人が起用されるところにも問題があるが)に共感を感じ、戦い終えた主人公から一片の強さを学ぶことで希望を持つことができることが、現代のアクション映画に求められることだ。観客にとって「優しくなければ」映画としての資格がないのである。
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怪奇大作戦にみる科学

 連休中深夜放送で、怪奇大作戦(1968年放送)と怪奇大作戦セカンドファイルが衛星放送であっていたのでビデオに録画し視聴した。5月1日から4夜連続で各2時間、合計8時間である。サイエンスホラーのカテゴリーに入る作品群であるが、旧作は30分という時間の制約の中で驚くほど濃密な怪奇の世界を作り出している。
 一連の作品を通して、主役は難事件を解決していくSRI(科学捜査研究所)のメンバーたちであるが、真の主役は怪事件の犯人であり、その犯人をそこに追い詰めた状況である。当時の日本は著しい経済成長を遂げ、1968年には日本発の超構想ビルである霞ヶ関ビルが竣工したり、これまた初の心臓移植が行われるなど科学技術の進歩により日本は右肩上がりに発展すると誰もが期待し、信じていた時代である。その一方で同年にはイタイイタイ病や水俣病が公害病と認定されたり、カネミ油症事件が起きたりなど科学技術がもたらす負の側面が社会問題化してきた時期でもある。この7年後には「人類の進歩と調和」と題して大阪で万国博覧会が開催される。そうした時代背景を考慮して視聴すると興味深い。
 「白い顔」(レーザー光線銃)「死神の子守唄」(スペクトルG線冷凍銃)「青い血の女」(遠隔操作によるロボット殺人)「氷の死刑台」(超低温人体保存技術)「京都買います」(物質転送装置)などの作品は、その当時としては(もちろん現代でも)想像を絶する高度な技術が犯罪に使用されるという設定であり、その使用者は(いろいろな原因で)狂った科学者、マッドサイエンティストの系譜に連なる人物たちである。
 一連のドラマにおいて、基本的には技術自体は優れているが応用を誤れば悲惨な事件を生むという前提があり、実証的科学的検討を加えればどんな難事件でも解決可能であるという立場がとられている。事件のトリックは科学的に解明されるが、犯人の動機という心の闇までは分からないということを表明している作品(「かまいたち」)もある。科学技術の進歩で社会のあちらこちらにおかしなことが起こりつつあるが、基本的にはこれも科学が解決してくれるということが信じられていた時代といえる。その技術を悪用してしまう狂った科学者たちは、名誉欲の虜となっていたり、人間関係でうまくいっていないことで病んでいるのである。しかし中には、社会の構造的問題が関係していることを告発している作品もあり注目される(「人喰い蛾」での企業間競争、「死神の子守唄」での胎内被爆による白血病の発症問題、「霧の童話」での農村部の乱開発、「京都買います」での古都保存問題など)。また旧作ではまだ科学がビッグプロジェクトになる前の時代であり、周囲と隔絶された暗い実験室の中で天才科学者が新技術を生み出すということが暗黙の了解となっているのが今から見ると微笑ましい。
 新作のセカンドファイルでは、旧作にあるような科学についての素朴な信仰は見られない。どちらかというと現代の科学では解明できないことがあるのだということを言いたげである。「昭和幻燈小路」におけるタイムスリップがどうして可能となったのかの解明はよくわからないし、「人喰い樹」で感染した人が音楽で癒されてしまうなど理屈に無理がありすぎるような設定もある。このあたりは38年も経っているのだからもう少し納得させるような工夫をしてもらいたいという不満も残る。では社会問題に鋭く切り込んでいるかというとそうもいえない。「人喰い樹」では、花粉が変異して病原体となる恐怖を描いているが、未知の感染症のアウトブレイクというならば、高病原性鳥インフルエンザによる大規模流行や新種ウイルスによるテロなど、花粉の変異による病原性獲得といったことよりずっと差し迫った恐怖に私たちは曝されているのであり、種明かしをされると肩透かしを食ったようで拍子抜けするのである。新作は、一見科学を駆使しているように見えながらあまりにも怪談に傾斜しすぎている。社会の暗部から生まれる怪奇を科学が暴くという旧作の延長線上でドラマを作成するならば、同じ視点をもっと取り入れたドラマ作りをして欲しかったと思う。
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THE 有頂天ホテル

 公開当時見そびれてしまった『THE 有頂天ホテル』をDVDで観る。年の瀬のホテルを舞台にしてさまざまな人物が交錯して悲喜劇が生まれる。若い頃の夢を捨てて現在の仕事に情熱を抱けない副支配人、夢を捨て故郷に帰ろうとするベルボーイ、贈賄で政治生命が危機に瀕している政治家とその秘書、その政治家の前妻だった客室係、娼婦とのスキャンダルの暴露に戦々兢々としながらも授賞式に望む男とその夫婦関係に疲れてきた妻、ホテルに入るたびにつまみ出される娼婦、名声はあるが自身のない演歌歌手、売れない芸能プロダクションの社長とその芸人たち、富豪の父親とその愛人にその仲を清算させようとする息子、型にはまった仕事しかできない筆耕係などなど。
 この喜劇も劇中さまざまなことが起こるのだが、皆それぞれ何かをつかんで結局元の鞘に収まる。そしてそれが楽しく爽やかな印象をもたらす。
 注目すべき登場人物はたくさんいるが、ここではベルボーイ只野憲二(香取慎吾)に注目したい。冒頭歌手の夢を捨てて故郷に帰ろうとするベルボーイが、ギターとともに同僚に捨てるように与えてしまう「幸運の」緑のマスコットが出てくる。それを持ちながら八年歌って幸運は来なかったのだから、受け取る同僚もそれが「幸運の」マスコットなどとは信じない。劇中このマスコットは、いわばどうでもいいものとして登場人物に次から次に手渡されていく。この実体の伴っていない小さな象徴が、最後に悪徳政治家の手から感謝をこめて元のベルボーイに手渡される。やがてバンダナとギターも彼の手に戻ってくる。今までの「歌手を目指していた」彼を支えていた物たちが円環を描いてもとに戻ったとき、彼はそこに自分の運命を読み取るのである。これらの小道具は、彼以外の人にとってはさしたる意味もないものだが、彼にはその意味が十分分かっている。これらのものは結局彼の手に戻るのだから、この劇の初めと終わりを単純に比較してみると、物理的にはまったく等価な状態である。にもかかわらずそこには新たな意味が生まれ、彼は希望を燃やしてもう一度歌手を目指すのである。
 希望は突然やって来て単線的に進む時間に別な輝きを与える。その光はそれを見ようとする人にしか見えない。その輝きの中では時間がその航路を外れるのであるが、私たちはそれを言祝ぐ。先の保証のない新年の到来を祝うように。
 劇の中ではそれぞれが自分の航路からわずかに外れる。結局もとには戻るのだが、その顔は輝いている。笑いと時間、笑いと希望についての楽しい映画だった。
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Pirates of the Caribbean;dead man's chest

 『パイレーツ・オブ・カリビアン デッドマンズ・チェスト』を観る。上映時間2時間31分という大作ながら退屈することなく楽しめた。前作同様痛快な映画だった。鑑賞してから知ったが、今回の作品は第2部ということで、来年完結編が公開されるという。興行収入が上がれば、続編、続々編を作成するという方法が定着している。制作会社も俳優も鑑賞者もヒットすればそれで文句なしというところであろう。
 世界のいたるところできな臭い戦火が絶えないが、すでに滅びてしまった戦闘は、映画で観ても生々しさがないので、安心して堪能できるのがいいのかもしれない。カリブの海賊や古代ギリシャの戦士や中世の騎士などがこれに当たる。現代の戦闘シーンでは、こうはいかないだろう。
 カリブの海賊が主人公となっているので、昔読んだ(したがって内容はほとんど忘れた)『イギリス海賊史』(チャールズ・ジョンソン著、朝比奈一郎訳、リブロポート社刊)という本を思い出した(上下二分冊で計800頁余りになる大著だが、今手に入るだろうか。当時は一冊1800円ほどだった)。この本は、1724年初版で、十八世紀初頭の、主として西インド諸島とマダガスカル島を中心に海賊行為をしていた兵達の列伝である。著者の正体も詳らかでなく、自身海賊であったともいう。またあの『ロビンソン・クルーソー』の著者であるダニエル・デフォーではないかという説もあるそうだ。
 この本によれば当初西インド諸島は、海賊たちが我が物顔に略奪をしていた海域であったという。その理由として、この海域には船の修理などをする港に恵まれた無人島などが無数にあり、フランス、スペイン、オランダ、イギリスなどの貿易航路として多数の物資が交易されていたこと、そして軍艦からの追跡を逃れるのに恰好の地理的条件であったことを著者は挙げている。それに次のような政治的状況もあったようだ。

ユトレヒト講和条約(1713)以降の海賊の興隆、少なくとも彼らの甚だしい増大は、西インド諸島のスペイン植民地のせいだと言ってよい。これら植民地の総督たちは本国で零落した廷臣で、身代をたてなおすかひと財産をつくるためにこの地に送られてきた連中であることが多く、儲かることならどんなことでも奨励するのである。彼らは、密貿易の取り締まりを口実にして多くの船に私掠船の許可を与え、植民地沿岸から五リーグ以内に立ち入った船はすべて拿捕するように命じている。

映画に描かれた姿を見ると、一見無法者たちの集団のように思えてしまうが、実際はそれぞれの国家を後ろ盾に掠奪をしていた非公式な軍隊組織のようなものだったのだろう。映画でも随所にパーレイ(交渉)やネゴシエイトという言葉が使われており、海賊稼業もかなり計算高い経済行為であったのではなかろうか。戦争にはいつも損得勘定がしっかり働いていており、どの時代も例外はなかったのだと考えていると、鑑賞後の気楽さもやや醒めてしまった。

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ゲド戦記

 映画『ゲド戦記』を観る。世界の均衡が崩れつつある最中、映画はエンラッド国の王子アレンが王である父を殺害する(結果として死亡したのかどうかははっきりしないのだが)場面から物語りは始まる。この展開から村上春樹の『海辺のカフカ』を連想した。思春期の息子による父親の殺害というエディプス的関係が物語の通奏低音として響いており、これは監督自身が父親に抱くコンプレックスの投影ではないかと感じられてしまった(しかし、これは映画作品自体とは直接関係ないこと)。
 アレンは逃避行の途中で大賢人と呼ばれる魔法使いハイタカ(ゲド)に出会い、一緒に旅をすることになる。彼は自分を追ってくる自身の「影」に怯えつつホート・タウンで人間たちの狂気を垣間見る。ハイタカは彼に語る。

この世界の森羅万象はすべて均衡の上に成り立っている。風や海も、大地や光の力も、獣や緑の草木も、すべては均衡を崩さぬ範囲で正しく動いている。しかし人間いんは人間ですら支配する力がある。だからこそ、わしらはどうしたら均衡が保たれるか、よくよく学ばねばならない。

 自分の影を怯えつつも最終的には、父から奪い取った剣を見事に抜くことができるようになり、均衡を崩している魔女クモを倒すという筋からすると、原作者と監督はユング的にこの世界を解釈しているようだ。父から奪い取った剣は、すなわちファルスであることは論を俟たない。ファルスを見事に自分のものとしたときに、彼は一人前の男性となり、「影」との調和を達成し成長するというわけだ。
 しかしラカン的にこの映画を解釈してみると、敵対者である魔女クモがハイタカに言った言葉の方が説得力がある。「世界の均衡なんてはじめから崩れていたこともお前も知っていただろう」。
そう、私たちの「世界」にははじめから均衡などないのだ。象徴界へ参入したときから均衡は失われてる。いや、失われているというのも正確ではない。もともと存在しないものを私たちはそれを失ったと思っているだけなのだ。アレンが真の名前の意味を他者から改めて教えられてから剣を抜けるようになったというのは、人は自分では象徴界における位置を定めることはできず、常に他者によるそのネットワークの中に位置づけられる必要があるということからすれば当然であろう。

 龍が人間の地であるこの東世界に現れよったか。太古、人間と龍はひとつであった。しかし、ものを欲した人間は大地と海を選び、自由を欲した龍は風と火を選んだ。以来、人間と龍は交わることがなかった。

とらえることのできない不可解な存在であり、私たちの世界と交わりを持たない龍は、したがってラカンのいう現実界が顕になったものである。それは象徴界にはどうしても位置づけることができない存在である。だから人と龍とはひとつにはなれない(なれたとしたらその時は発狂するときだろう)。
 ユング的にみれば人と龍は一つになって、アレンは自分の罪を償いより大きく成長するという物語なのだろう。ここにユングとラカンを分かつ大きな超えがたい深淵がある。どうしてもラカン的に観てしまう私としては、だからこの結末はしっくりしないのである。不可能な永遠の生命を求めつつ、非道なことをする魔女クモが、ああいう形(これは映画で観てください)で出現した龍によって滅ぼされてしまうのでは、陳腐な勧善懲悪ものになってしまう。最後に龍は突如として出現して、人間たちの争いとは無関係に彼らの世界と偶然交錯し、結果としてクモが死ぬというのがあるべき展開であろう(例えば龍が落とした糞に当たってクモが死ぬというような最期)。まあ、これは娯楽映画としては最低の展開と酷評されるだろうけど、人間が命というものをほんとうに理解して生きていくためには、そんな事実を受け容れることが必要なのだ。

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ダヴィンチ・コード

 『ダヴィンチ・コード』を観た。映画をこれから観るという人は、ネタばれになる点に触れるから、ご覧になってから以下を読んでいただきたいと思うのだが、ひとことでいうとschizophrenicなシネマであった。さまざまな示唆的な断片的事実からキリストが妻とした女性がいたということを「断定」し、そのことが明るみにされるとキリスト教という「世界」が瓦解するという危機感を抱くこと、これはもうschizophreniaの妄想世界だ。それはそれとして面白いのだろうけど、これに長時間つきあわされるのは少し疲れる。よくあるトンデモ本の陰謀説の類といえる。
 気になったのは、この映画で重要な役割を担うソフィー・ヌブーなる女性が、どうしてキリストの末裔だと簡単に決めることができるのかが疑問だ。かのイエス・キリストの「血」をひいていることがこの映画では重要なのだが、遺伝学的にいうと直系の女性が始祖の男性の遺伝子を受け継いでいるかどうかは確実にはいえない。キリストは男性だから、確実にいえるのはその男児であれば彼のY染色体を受け継いでいるということだ。しかし他の常染色体およびX染色体については、世代を重ねることに配偶者の染色体を受け継ぐ可能性があるから確実にキリストの遺伝子を受け継いでいるとは断定できない。わかりやすくするために性染色体で話をすると、キリストに娘がいたとするとその子は、彼のX染色体を受け継いでいるが、彼女がある男性と結婚して子供をつくった場合、できる女児にキリストのX染色体を受け継がれる確率は0.5である。世代を重ねれば重ねるだけその確率は低くなっていくからその末裔である女性がキリストの遺伝子を受け継いでいる可能性はかなり低いといえる。一世代30年として2000÷30で約66世代、確率は0.5の66乗という天文学的に低い確率になる。これが直系の男性の場合であればY 染色体はその始祖の男性からしか受け継がれないから、別の男性との間に子供をつくっていなければ、直系の男児は確実にその始祖のY染色体を受け継いでいる。日本の天皇問題でもあれほど男児にこだわるのは、遺伝学的には一理あることだ。そうでないと万世一系の保証ができないから。ついでいいうと遺伝学的にはあまり重要性のないY染色体にこだわるというのは、まさに天皇の「象徴的」性格を反映していて面白い。
 だからこの映画では、鍵となる人物をソフィー・ヌブーという女性ではなく男性にすべきだったのだ。マグダラのマリアにひっぱられてしまったのだろうが、ここはやはりイエスの血を引き継ぐ人物は、男性として設定すべきだった。トム・ハンクスがその役でもよかったのになぁ。

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ナルニア国物語

 映画『ナルニア国物語』を観た。私はファンタジーはほとんど読まないので、C.S.ルイスの原作は読んでいない。したがって原作を論じたりそれとの比較を評する立場にはない。
 ファンタジーは異界への(空間的、時間的)移行が物語の最初の重要点であろう。映画では四人の同胞がまず空襲に苛まれるロンドンから郊外へと疎開するところから始まる。ここでは現実の交通手段として汽車が使われる。まず第一段階の異界への旅として汽車が道具として使われているのは、「ハリー・ポッター」シリーズでもそうであったし、ファンタジーでは常套手段といっていい。さらに第二段階としてナルニア国への移行にあたり、常界と異界の境界(「門」)となるのが、衣装箪笥である。衣装箪笥や押入れの中に隠れて息を潜める経験をルイスは巧みに使っている。おそらくルイスもかくれんぼの経験があるのだろう。暗い空間に身を潜ませると、次第にそこが広いのか狭いのか分からなくなってきて、体を包む皮膚全体に神経が集中する不思議な体験は私も記憶がある。(最近のマンションではこういう経験をしたことがない子供が多いかもしれない。だとするとこれは映画の理解を妨げる不幸なことだ)。

 ナルニア国での出来事は、貴種流離譚に基づいた明界と暗界の対決の中で主人公たちが成長するという形で進行する。これ自体には、特筆すべきこともない。CG技術によって初めて映像化が可能になったということらしいが、私はライオンの毛並みが昔みた『ジュマンジ』という映画に比べれば格段によくなったなぁという感想をもったくらいか。それとつい最近読んだ小谷野敦のエッセイ「ファンタジーは君主制の夢を見るか?」(『なぜ悪人を殺してはいけないか』[新曜社刊]所収)で、ファンタジー作品がなぜ英国で多いのかということが論じられていたことを思い出した。

 この物語の背景として、戦争という陰惨な現実があり、家族の柱(少なくともこの時代には父親はまだ柱であったはずだ)としての父という超自我が不在であるという二つの点が現実からの逃避を促すという点で物語の発端として重要であるように感じた。
 四人の同胞の構成は男性二人に女性二人であり、最年長者が男性で最年少者が女性である。現実への適応(ときに過剰な適応)志向と現実には必ずしも適しない選択も辞さない性向という軸を設定してみると、兄弟姉妹をそれぞれ配置することができる。敵と対峙し最も現実に適応しようとするのが長男のピーターであることはいうまでもない(彼は英雄王と呼ばれいてる)。そしていかなる事態にも損得勘定なく、当惑することなく融通無碍に対応するのが純真無垢な最年少のルーシーである(彼女は頼もしの君といわれる)。この呼び名を聞いて、英雄とは必ずしも頼もしい存在ではないのだということを改めて感じさせられた点は、面白かった。
 ともあれナルニア国での体験を通して四人四様に自分の超自我を獲得し成長するのだが、その時父としての超自我はもはや不要となる。だからこの物語では父親は冒頭で写真としてしか現れない。

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寅次郎、頑張れ!

一週間遅れでBSで放送の『寅次郎、頑張れ!』を観る。
中村雅俊演じる朴訥な九州男児が大竹しのぶ演じる秋田から東京に働きに出てきて食堂に勤める女性に恋するストーリーが描かれている。この映画のシリーズを観ていると、東京でも昔はこんな町並みであったということが背景の風景から知られ驚き、寅さんの旅先の地方の風景がまた一昔前の日本の姿を教えてくれて愕然とする。本作品を観て、また驚いたのは中村雅俊演じる九州男児が大竹しのぶ演じる女性の言葉に失恋したと思い込み、間借りしているとらやの一室でガス自殺に及ぶというプロットであった。「東男に京女」といわれ、とかく九州男児というのは朴訥で不器用で直情径行(それに酒が強い)といったイメージで描かれることが多いのだが、この作品が上映された昭和52年(今からざっと30年前)の青年のメンタリティというのはこれほどまでに繊細で内向的であったのかとしばし感慨に耽ってしまった。相手の女性に対する恋慕の念が通じないと、勢い相手につきまといストーカーまがいの行為に走ったり、あるいはキレて刃傷沙汰に及ぶという事件が新聞の三面記事を賑わしていることに、ある意味慣れきっていた私の脳はこの青年の描写に忘れていた自分の過去を突然思い出させられたような、違和感と郷愁と羞恥の入り混じったなんとも名状しがたい感情を覚えた。
 この青年の自殺未遂行為によってとらやの一部屋が噴き飛ぶのだが、この青年の切羽詰った思いの「爆発」は、今のドラマでは悲しいけど描けない事件だなと思ったのである。そう今この屈折した青年の心理を描写しようとしたらストーカーまがいの行為として描かれてしまうことが確実であろう。そもそも昭和52年には「ストーカー」という言葉さえ存在しなかった。恋心のあまり女性の家に押しかけ、雨が降ろうが風が吹こうが(この表現自体がすでに古色蒼然としているが)ずっと会えるまで待つという行為は、当時なら純情の一表現形態であったはずである。それが今や立派な犯罪行為になるということになんともやりきれない感じを抱くのである。
 張り裂けそうな恋心を伝達するのに、今ではメールやケイタイなどのメディアを介さなければ伝えることができなくなったのだろうか。それは便利でいいことなのであろうか。
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寅次郎と殿様

BS放送で放映中の寅さんシリーズを観た。映画の主題とはあまり関係ないのであるが、映画の中でとらやで飼っている「トラ」という犬をさくらの主人が叱りつける場面が出てくる。


戸口のところに粗相をしてしまった犬に対して「トラ!」と呼び捨てにしたのを耳にして、寅さんが自分が呼び捨てにされて叱られたと勘違いして、怒り出す。そして(おそらく拾われた)その犬が自分と同じ名前で呼ばれていることを知り、激怒する。あとはお約束の喧嘩のシーンとなるのだが、そのときに「犬の名前と同じだ」という寅さんに対して、おいちゃんがぽつりと「でも犬のトラはカタカナだから」という。ここで大爆笑。


ろくに稼ぎも入れない無為徒食の居候である寅さんと拾われて飼われている犬の境遇はほとんど一緒であることを観客は前提として観ているから、名前が同じであることに怒る寅さんに対して「そうは言っても同じだよ」と心の中では言っている。とらやの全員もおそらく無意識のうちにトラと呼ぶときにどこか寅さんのイメージをだぶらせていることにうしろめたさを感じているのであろう、寅さんを宥めるために躍起になって悪意のないことを強調する。


ここでは音の同一性(「寅」=「トラ」)から、イメージの同一性(「寅さんのイメージ」=「拾われ犬のイメージ」)という等式が成立しまっている(小難しくシニフィアンの同一性からシニフィエの同一性が生成されているなんてことをいうのかしら)。そもそも名づけを最初に行った人(おいちゃん?)は、イメージが同じだからこそ同じ名前をつけたんだろうけど。普通音が同じでも内容が違うことを示したい(ここでは同じ「tora」と読んでいても意味している内容は違うことを言い訳したい)ときには、その本質的な属性が違うことを列挙して説明するだろう(でも寅さんの境遇と犬の境遇は悲しいほど似てしまっているし、これを知らぬふりをして人と犬は別といっても納得はされないだろう)。どうするか緊張は一気に高まる。


音の同一性は否定しようがないのだが、おいちゃんは同じ「tora」でも一方は漢字で、もう一方はカタカナだという論理でぽつりと切り返すのである。これに観客は肩透かしをくらってしまって、大爆笑してしまう。


これはたとえば英語だったら理解できるおかしさかなとふと考えた。同じ発音の名前でスペルが違う二つの意味の異なる単語の場合というのを想像すればいいのかもしれないが、日本語の場合のような漢字とカタカナの音の感覚の妙味が出せるだろうか。そう考えると普段私たちは、耳に聞こえる音は一緒でも微妙な感情をこめてカタカナで問いかけたり、漢字で応えたりしているのではないだろうか(「ビミョー」なことですかね)。

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