『哲学、脳を揺さぶる』(河本英夫著、日経BP社刊)を読む。
オートポイエーシスについて学際的に研究している著者の哲学入門といった本であるが、通常の哲学入門とは異なり、使う脳の領域が違うという印象を受ける。「読む」という経験よりは、題名どおり「脳が揺さぶられ」、ウォーミングアップをしながら体操をするような感覚に陥る。脳の凝りがほぐされる感じに近い。
面白かったのは、Exercise 8すなわち第8章の注意を向けるということと分かるということの違いを述べた部分で、暗闇の経験から始まる。
真っ暗闇のなかで足先に何かがあると感じられることがある。このなにかがあるという場面は、既に現実の「個体化」が起きているが、その個体がなんであるかはまったくわかっていない。しかし、これは現実だと感じられるものは、既に個体化している。この個体の内容がなんであるかは決まっていないし、個体といっても個物のようなまとまりである必要はない。この現実、このものという特定さえできていればよい。そうした経験の局面がある。
知覚と注意の違いとして、「知覚は見るべきものが既に決まっている」のに対して、「注意は、見るということが出現する働きであり、見るという行為が起動する場面を指定している」。見方を教わった上で、既に分かっているものを見て、分析するというのは、「焦点的意識」であり、「注目すること」である。これは学校教育で教わる。黒板に書かれたものを教わったとおりによく注意してみれば、教わったことは「見える」ようになる。しかし自力で何かを見出すためには、この知覚(焦点的意識)ではなく、「注意が向く」かどうかが重要であると著者は言う。
ここからこの注意を向ける達人として寺田寅彦が登場し、彼が俳句とスケッチで日常の中に注意を向けており、そこに彼の天性の素質が光っていることを著者は指摘する。身近な動物である猫について書かれた文章を引用して、谷崎潤一郎、内田百?、寺田寅彦の文章を比較し、彼の文章が猫という個体にいかに注意を向けているのかを示している。
俳句については、漱石の「落ちざまに虻を伏せたる椿かな」という句について寅彦が書いた解釈(「思い出草」)が取り上げられている。これは俳句に限ったことではないだろうが、著者が言うには現象を捉えて、理解へと進むところが難しいらしい。すなわち「注意から理解へと進むさいに、筋の良し悪しが出てくる」というのだ。
理解は、どこかに理由付けを含む。その場かぎりの偶然を指摘するような場合には、ある種の物語を形成し、「逃げ遅れたドンくさい虻」の物語ができ上がる。エピソードをつくり上げて前後関係を指定し、それによって物事や出来事の意味を確定する。起きている現実が、1回かぎりの2度と起きないようなものであれば、物語で語るよりない。これに対して、物理学の発想は、他にも応用可能な問いの一事例として事象を捉えることである。理解は、問いからでてくるが、物語はむしろ問いを停止させる。それに対して、自然科学的な理解は、問いをさらに開くように条件を設定する。
ここでは物語による理解と自然科学的な理解ということで対比されているが、物語がすべて問いに対して閉じるように作用するわけではないだろう。むしろ問いに対して開かれた部分のある物語ほど豊かな内容をもつ物語だといえるだろう。俳句や詩、小説など現象の切り取り方や説明の仕方はさまざまだが、卓抜な作品は常に新しい解釈を許容する能力を備えている。
ある対象を与えられたものという枠組みの中で解釈するのではなく、対象を生み出す形で理解することが創造的に生きるためには必要なのだ。