烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

ラカンはこう読め!

2008-02-02 21:17:31 | 本:哲学

 『ラカンはこう読め!』(スラヴォイ・ジジェク著、鈴木晶訳、紀伊国屋書店刊)を読む。
 ここしばらく体調不良と多忙のせいでほとんど”本らしい本”を読んでいない。久しぶりに書店に立ち寄り、ジジェクの新刊を購入した。今まで数多くのジジェクの著作は翻訳されているので、屋上屋を架す観がなきにしもあらずだが、簡潔にまとめられており、おさらいするには手ごろかと思われる。ラカンの思想を解説するにあたって、ジジェクが使う卑近な例は今までの著作の中のあちこちで使われているものである。
 ラカン理論の入門書という位置づけであるが、基本的公式を一つ一つ説明していくという入門とは異なり、さまざまな事象をラカン刀を使って腑分けをしてみせながら、「これってけっこう切れるでしょう?」と実演する形である。料理の作り方を基礎からまず説明してからではなく、実際に作りながら説明していく方が、説明される方は眠気を催すことはない。こういうやり方はプラクティカルでイギリスらしい感じがする。グランダ社が刊行している「How to read」シリーズの一冊ということだが、「How to use」という方が適切かもしれない。他の解説書もこんな感じなのだろうか。
 本書では「現実界」についてジジェクは頁を多く割いているので、後期ラカンに焦点を当てている。そしてラカンの説く<現実界>は、刺激的である。

 もしわれわれが「現実」として経験しているものが幻想によって構造化されているとしたら、そして幻想が、われわれが生の<現実界>にじかに圧倒されないよう、われわれを守っている遮蔽膜だとしたら、現実そのものが<現実界>との遭遇からの逃避として機能しているのかもしれない。夢と現実との対立において、幻想は現実の側にあり、われわれは夢の中で外傷的な<現実界>と遭遇する。つまり、現実に耐えられない人たちのために夢があるのではなく、自分の夢(その中にあらわれる<現実界>)に耐えられない人のために現実があるのだ。

 ラカンのいう<現実界>は、永遠に象徴化を擦り抜ける固定した超歴史的な「核心」という見かけよりも、ずっと複雑なカテゴリーだということである。それはドイツ観念論者イマヌエル・カントが「物自体」と呼んだもの、すなわちわれわれの知覚によって歪曲される前の、われわれから独立した、そこにあるがままの現実とはいっさい無関係である。