しかし残念なことにいわれるほどの面白い小説でもなかった。本書の三分の二が第一部だから、読んでみて面白くないと約1600円(定価が2318円)損した気分になった。小説は本職に任せたほうがいいのではないだろうか。第二部に期待してみる。
しかし残念なことにいわれるほどの面白い小説でもなかった。本書の三分の二が第一部だから、読んでみて面白くないと約1600円(定価が2318円)損した気分になった。小説は本職に任せたほうがいいのではないだろうか。第二部に期待してみる。
狂気は、一生を通じてわれわれについてくる。もし何人かが、おとなしそうに見えたら、それはただ、その人の狂気沙汰が、その年齢と運命とにたいして釣合を取っているからだ。
狂気なしに生活する人は、自分の信じているほど賢くはない。
世には、伝染病めいた狂気沙汰がある。
年とった狂人は、若い狂人より、もっと狂人だ。
『箴言集』 ラ・ロシュフコオ
『表現と意味』を昨日に続いて読む。
フィクションと嘘は異なること。嘘をつくことは言語行為における統制的規則に違反することであるが、統制的規則はどれもその内に違反の概念を含んでいる。したがって私たちは規則を学ぶことで同時に違反することがどういうことかを学ぶ。すなわち嘘をつけるようになる。しかしフィクションは単に嘘をつくということではなく、高度な技術である。フィクションの作者は、文を書くことと通して発語内行為を遂行する「まね」をする。発話行為は「本物」であるが、発語内行為は「まね」であるというのがサールの結論である。
しかし歴史的事実を多く取り入れながらフィクションを作る場合、歴史的叙述と歴史的フィクションとはどこに境界線があるのだろうか。これは単に実証的文献の有無により決定できる問題ではないように思われる。またフィクションか否かの判定は一般にそのテクスト自身だけではできない場合もある。歴史的文献については、残存する他の文献との整合性により判断されるのであろうが、それも絶対的な基準ではない。報道文のような事実を報告する文章であっても、私たちはそれが新聞の然るべきところに掲載されているから、事実の報道だと了解する。もしこれが小説欄に掲載されていたら、小説の一部と解釈するだろう。
それにしても論文の最後になって著者が呈している疑問は単純ながら真実をついている。いわく、
なぜこのような事柄をとりあげて論じるのかという疑問である。すなわち、大部分においてまねごとの上での言語行為からなるようなテキストに、われわれはなぜこのような重要性をみとめ、努力をそそぐのであろうか。(中略)この疑問に対しては、私の考えでは、単純な解答などまったくなく、単一の解答さえないと私が言うのを聞いてももはや驚いたりはしないであろう。
最後になってこう言われるとなんだか肩透かしをくったような感じになるが、著者はその解答の一つとして、想像力の産物が果たす役割を挙げている。すなわち「フィクションのテキストによって真剣な(つまり、フィクション上のものであはない)言語行為が伝えられることがありうるという事実」があり、「フィクションに属するほとんどすべての重要な作品は、テキストにより伝えられはするが、テキスト中に属してはいない「メッセージ」ないし「メッセージ群」を伝えている」からであると述べている。
なぜ昔から小説というジャンルが絶えることなく続いているのか、虚構的存在の分析哲学の小難しい議論はさておきなんとなくわかったような気がした。
分析を長々と行いながら、最後は常識的な結論に落ち着くというこの議論は次の隠喩の分析でもそうだった。
隠喩による発話は、その真理条件をただ伝える以上のことを行っている。隠喩による発話は、発話の真理条件の一部ではない真理条件をもつ別の意味論的内容を経由して、自分の真理条件を伝える。効果的な隠喩には不可欠な要素だと感じられる、あの表現力は、主として二重の特徴(two features)に関わっている。聞き手は、話し手が言おうとしていることを算定しなくてはならない-聞き手はコミュニケーションに対して、単に受動的に理解すること以上の貢献をしなくてはならない-、しかも、伝達されている内容と関連はあるが別の意味論的内容をたどりきることにより、これを行わなくてはならないのである。
だからつまらないのではなく、とても楽しい。
『表現と意味』(ジョン・R・サール著、山田友幸監訳、誠信書房刊)を第3章まで読む。発語内の力の体系的分析、間接的言語行為の分析、フィクションの言語的身分について述べられている。その中から興味をひいた部分を書き記す。
発後内行為における「世界」と「言葉」の間の方向性について。
いくつかの発語内行為は、その発語内の目標の部分として、言葉(より厳密に言うと、その命題内容)を世界に合致させなければならず、他の発語内行為は、世界を言葉に合致させなければならない。断言(assertion)は前者のカテゴリーに入り、約束は依頼は後者のカテゴリーに入る。
言語を世界に合わせるか、世界を言語に合わせるか、人間のさまざまな営みを考える上でこの方向性は興味深い。科学することは言語を世界に合わせることだろうし、芸術は世界を言語(表現)に合わせることだろう。政治も世界を言語に合わせようとする行為だろうか。歴史は科学としては言語を世界に合わせる行為だろうが、ここに政治が絡むと複雑となる。そしてこの「世界」というものを複数あると考えるとさらに面白い。
フィクションの論理的身分について。
人間の言語がフィクションなるものの可能性を許容しているという事実は、人間の言語に関する一つの奇妙で特異で驚くべき事実である。ところがわれわれは、フィクションに属する作品を識別し、理解することに何の困難も見出さない。このようなことは、いかにして可能なのであろうか。
戯曲のテキストの発語内の力は、ケーキを焼くためのレシピの発語内の力に似ているように私には思われるのである。それは、ものごとのやり方、すなわちその劇を上演するやり方についての、指図の集まりなのである。
レシピ(指令書)のようなものとしての言語という考え方。これはちょうどDNAが個体発生のレシピのようなものだという比喩に通じるものがある。文学的テクストをレシピのように解読すること。DNAというものはその遺伝暗号の配列自体も重要だが、各遺伝子がどのタイミングでどのように発現するかも決定的に重要である。芸術的効果が最もうまく発現するように配置されたレシピとしてテクストを読んでみるのも面白いかもしれない。
『ゼロからの論証』(三浦俊彦著、青土社刊)を読む。宇宙物理学での「人間原理」が、ダーウィニズムの宇宙論的拡張バージョンであることを論じた第4章を興味深く読んだ。多様な変異がランダムに生起し、自然選択によってその時の適応者が選択されるというダーウィニズムの考え方と同じく、多様な環境から観測選択によって特定の環境が選択されるというのが人間原理である。私たちの生息するこの宇宙の中で私たちは例外的な時空に位置しているという条件の制約を認めるのが「弱い人間原理」であり、そもそもこの宇宙全体が生命進化に適した例外的な物理法則にしたがっていること、物理定数が微調整されているという条件の制約を認めるのが「強い人間原理」である。後者ではこの宇宙以外にも多くの、この宇宙に適用される物理法則とは異なった法則をもつ宇宙の存在の実在を主張する。
特別な場所ではないこの地球に生命、知性をもった生命が誕生したことから、宇宙のほかの場所に知的生命の存在を主張する推論は、地球というサンプルの観測選択効果を無視した議論であることから始まり、地球では生命そして知性が脳という複雑な組織に依存しているという事実から独我論、指示の因果論が論駁されるていく議論は面白かった。なぜ私は他の誰でもない「この私」なのかという問題は、この議論からすると、心(意識)というものが存在したときに、どうして「この私」がいつもいるのかと問わねばならないのである。
『英語の感覚・日本語の感覚<ことばの意味>のしくみ>』(池上嘉彦著、NHKブックス)を読む。日本語と英語の表現の違いがどのようなものの見方により生じているのかを例文をあげて説明しながら解説している。
中心は第4章以降で暇がない人はここから読み出してもいいと思う。第4章はテクストを成立させる7つの規準(結束構造、結束性、意図性、容認性、情報性、場面性、テクスト間相互関連性)、談話の成立条件(グライスの協同の原則+対人関係の調整条件)を述べている。
第6章では日本語、英語における話者の位置づけの違いが指摘され、話者を時間的空間的に客観視できるかどうかという相違点の記述は興味深い。
第7章は「ことばの限界を越えて」と題され、ことばが世界を創るという視点から、詩のことばがどういうものであるかを述べている。ヤコブソンによることばの6つの機能(それぞれの機能はコミュニケーションにかかわる6つの要因の()内に最もかかわる):1)表出機能(話し手)、2)働きかけ機能(聞き手)、3)指示機能(コンテクスト)、4)メタ言語機能(コード)、5)交話機能(経路)、6)詩的機能(メッセージそのものへの志向性)をあげ、ヤコブソンは、詩をことばの実用機能と対立するものとしてとらえていることが述べてある。彼によれば、詩のことばと対極に位置するのは日常のことばである。イギリスの批評家リチャーズは詩を純粋な喚情的用法としてとらえ、認識論的要素の強い科学的言明をその対極に位置づける。ここで漱石の『文学論』との比較は面白い(前者が詩・文学を表現の問題としているのに対して、後者は内容の問題としてとらえている)。
言語形式が文学の性格に影響するか否かについて、さらに俳句という文学形式の翻訳可能性について論じている。内容ではなく言葉の形式にその芸術が強く依存しているならば、その文学は翻訳可能性が低いということになる。著者は俳句というものは、そのメッセージの受け手の積極的介入を要求する文学であると詩的し、他の言語圏では俳句を翻訳してもそうした前提が共有されていないため、もとの詩興は伝わりいくいと述べている。言語の形式自体に違いがあるかどうか、あるとするならどの点にあるのかという問いについては、明確に解答されていないが、一般に日本では会話において聞き手責任のほうが話し手責任よりも大きく、欧米では逆であるという違いが俳句という文学が理解されるかどうかの違いであると結論されている。確かに俳句という文学は、解釈する人の想像力に大きな余地が与えられている。そうした余地があるのも日本語独特の曖昧さによるのかもしれない。古池とそこに飛び込む蛙の関係が、表現する場合には必ず精密に規定されてしまうような言語であれば、受け手が想像力を自由に働かせる余地は必然的に少なくなるであろう。現在の日本では、欧米同様話し手責任の重要度が増しているように思うが、そうした文化的背景が変わってくると俳句の理解可能性も変化していくのであろうか。