マインド・クエスト

 『マインド・クエスト』(ダン・ロイド著、谷徹・谷優訳、講談社刊)を読む。ミステリーと現象学と神経科学お三つの主題が絡み合いながら、展開する小説が第一部で、第二部が脳と意識の理論を解説した部分である。訳者あとがきに「まず、第一部をお読みください。『私』が存在するということ、『世界』が存在するということ、こういうことに少しでも不思議を感じたことのある人であれば、いやミステリーが好きだという人でもそれだけで、たっぷりお楽しみできるはずです」とわざわざ強調してブロック体で書かれていたりするものだから、素直に第一部を読んだ。
 しかし残念なことにいわれるほどの面白い小説でもなかった。本書の三分の二が第一部だから、読んでみて面白くないと約1600円(定価が2318円)損した気分になった。小説は本職に任せたほうがいいのではないだろうか。第二部に期待してみる。
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現代思想の使い方

 『現代思想の使い方』(高田明典著、秀和システム刊)を読む。現代思想に登場する26人の思想の紹介本であるが、「使い方」という題のように日常生活でしばしば遭遇する問題に即して一人ひとりの思想のエッセンスを紹介している。例えば「言葉に縛られていると感じたとき」にはデリダを、「制度に縛られていると感じたとき」にはフーコーをというように。そこに共通しているのは哲学という営みに高尚ということはなく、どれもそれを生み出した人が日常生活で苦闘していた問題を解決しよういうものであったという視点である。確かにさまざまな哲学書を読むときに、その人がどういう問題をどんなふうに解決しようとしたのかという点の見通しが立っていると理解しやすい。そこには歴史的背景というものがあり、近代哲学であればキリスト教、現代哲学であれば資本主義という背景を抜きにしては語れない。しかしそうした巨視的な背景から語り始めるとこうした解説書はとたんにページ数が増え、結局それを手にした読者の身近な問題に肉薄することができなくなってしまうのだ。
 さまざまな思想のさわりというよりは、ほとんど導入という感じだから肩透かしを食らうようなところもあるが、それは巻末にブックガイドがついているからそれを購入してさらに読み進めればいいのである。でも一部には絶版になっている書物があるのが残念。
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狂気

狂気は、一生を通じてわれわれについてくる。もし何人かが、おとなしそうに見えたら、それはただ、その人の狂気沙汰が、その年齢と運命とにたいして釣合を取っているからだ。

狂気なしに生活する人は、自分の信じているほど賢くはない。

世には、伝染病めいた狂気沙汰がある。

年とった狂人は、若い狂人より、もっと狂人だ。

 

『箴言集』 ラ・ロシュフコオ

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幻景の明治

 『幻景の明治』(前田愛著、岩波現代文庫)を読む。江戸幕府を終焉させた「御一新(御維新)」のエネルギーが解き放たれた明治という時代には実に様々なベクトルが鬩ぎあっていたことを教えてくれる実に興味深い著作である。このベクトルを統合し、天皇を頂点とする国へと形作っていく過程が、教育勅語の起草や鹿鳴館時代の記述をみるとよくわかる。
 著者は明治の国家体制作りという表の部分を辿りながら、その底流にどのようなカオスが蠢いていたのかを精緻な論述で明らかにしている。毒婦として斬首された高橋お伝についての論述は、一つの犯罪に時代というものがいかに密接に関連しているのか、時代が生んだ犯罪というものがあることを教えてくれる。特にここで表題にもなっている「絹の道」は、明治になって形成されていった都市とそれを結ぶ(今風に言えば)ネットワークが犯罪の欠かせない要素であることを見事に描いている。
 「からゆきさん」を中国や東南アジアに輸出してた女衒の村岡伊平治と公娼制度のことと憂国の士となった二葉亭四迷が説いた娼婦の渡航の国家的意義との奇妙な共通点のことを読むと慨嘆とも苦笑ともつかぬ思いを感じる。
 頑迷な儒教主義者である元田永孚によって教育勅語の草案がいかにして、その明晰な論理性を骨抜きにされて抽象的な道徳訓に変貌していったかを読むと、現在進行中の教育改革の行き先に暗澹たる思いが去来してしまうのである。
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表現と意味-2

 『表現と意味』を昨日に続いて読む。
 フィクションと嘘は異なること。嘘をつくことは言語行為における統制的規則に違反することであるが、統制的規則はどれもその内に違反の概念を含んでいる。したがって私たちは規則を学ぶことで同時に違反することがどういうことかを学ぶ。すなわち嘘をつけるようになる。しかしフィクションは単に嘘をつくということではなく、高度な技術である。フィクションの作者は、文を書くことと通して発語内行為を遂行する「まね」をする。発話行為は「本物」であるが、発語内行為は「まね」であるというのがサールの結論である。
 しかし歴史的事実を多く取り入れながらフィクションを作る場合、歴史的叙述と歴史的フィクションとはどこに境界線があるのだろうか。これは単に実証的文献の有無により決定できる問題ではないように思われる。またフィクションか否かの判定は一般にそのテクスト自身だけではできない場合もある。歴史的文献については、残存する他の文献との整合性により判断されるのであろうが、それも絶対的な基準ではない。報道文のような事実を報告する文章であっても、私たちはそれが新聞の然るべきところに掲載されているから、事実の報道だと了解する。もしこれが小説欄に掲載されていたら、小説の一部と解釈するだろう。
 それにしても論文の最後になって著者が呈している疑問は単純ながら真実をついている。いわく、

なぜこのような事柄をとりあげて論じるのかという疑問である。すなわち、大部分においてまねごとの上での言語行為からなるようなテキストに、われわれはなぜこのような重要性をみとめ、努力をそそぐのであろうか。(中略)この疑問に対しては、私の考えでは、単純な解答などまったくなく、単一の解答さえないと私が言うのを聞いてももはや驚いたりはしないであろう。

 最後になってこう言われるとなんだか肩透かしをくったような感じになるが、著者はその解答の一つとして、想像力の産物が果たす役割を挙げている。すなわち「フィクションのテキストによって真剣な(つまり、フィクション上のものであはない)言語行為が伝えられることがありうるという事実」があり、「フィクションに属するほとんどすべての重要な作品は、テキストにより伝えられはするが、テキスト中に属してはいない「メッセージ」ないし「メッセージ群」を伝えている」からであると述べている。
 なぜ昔から小説というジャンルが絶えることなく続いているのか、虚構的存在の分析哲学の小難しい議論はさておきなんとなくわかったような気がした。
 分析を長々と行いながら、最後は常識的な結論に落ち着くというこの議論は次の隠喩の分析でもそうだった。

隠喩による発話は、その真理条件をただ伝える以上のことを行っている。隠喩による発話は、発話の真理条件の一部ではない真理条件をもつ別の意味論的内容を経由して、自分の真理条件を伝える。効果的な隠喩には不可欠な要素だと感じられる、あの表現力は、主として二重の特徴(two features)に関わっている。聞き手は、話し手が言おうとしていることを算定しなくてはならない-聞き手はコミュニケーションに対して、単に受動的に理解すること以上の貢献をしなくてはならない-、しかも、伝達されている内容と関連はあるが別の意味論的内容をたどりきることにより、これを行わなくてはならないのである。

だからつまらないのではなく、とても楽しい。

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表現と意味

 『表現と意味』(ジョン・R・サール著、山田友幸監訳、誠信書房刊)を第3章まで読む。発語内の力の体系的分析、間接的言語行為の分析、フィクションの言語的身分について述べられている。その中から興味をひいた部分を書き記す。
 発後内行為における「世界」と「言葉」の間の方向性について。

いくつかの発語内行為は、その発語内の目標の部分として、言葉(より厳密に言うと、その命題内容)を世界に合致させなければならず、他の発語内行為は、世界を言葉に合致させなければならない。断言(assertion)は前者のカテゴリーに入り、約束は依頼は後者のカテゴリーに入る。

 言語を世界に合わせるか、世界を言語に合わせるか、人間のさまざまな営みを考える上でこの方向性は興味深い。科学することは言語を世界に合わせることだろうし、芸術は世界を言語(表現)に合わせることだろう。政治も世界を言語に合わせようとする行為だろうか。歴史は科学としては言語を世界に合わせる行為だろうが、ここに政治が絡むと複雑となる。そしてこの「世界」というものを複数あると考えるとさらに面白い。

 フィクションの論理的身分について。

 人間の言語がフィクションなるものの可能性を許容しているという事実は、人間の言語に関する一つの奇妙で特異で驚くべき事実である。ところがわれわれは、フィクションに属する作品を識別し、理解することに何の困難も見出さない。このようなことは、いかにして可能なのであろうか。

 戯曲のテキストの発語内の力は、ケーキを焼くためのレシピの発語内の力に似ているように私には思われるのである。それは、ものごとのやり方、すなわちその劇を上演するやり方についての、指図の集まりなのである。

レシピ(指令書)のようなものとしての言語という考え方。これはちょうどDNAが個体発生のレシピのようなものだという比喩に通じるものがある。文学的テクストをレシピのように解読すること。DNAというものはその遺伝暗号の配列自体も重要だが、各遺伝子がどのタイミングでどのように発現するかも決定的に重要である。芸術的効果が最もうまく発現するように配置されたレシピとしてテクストを読んでみるのも面白いかもしれない。

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人間原理

 昨晩に引き続き、『ゼロからの論証』に出てくる人間原理について考える。
 この宇宙全体が私たちのような知的生命体をどうして生み出すように配置されているのかという問いに、強い人間原理は、さまざまな物理定数が人間の存在を許すように配置されているからだと答える。人間は生じるべくして生じたというように聞こえるが、そうではない。物理定数がさまざまに決まっている多くの宇宙がここでは想定されている。多くの宇宙の集合の中から私たちはこうして精妙に調整されているこの宇宙を観測している。結果として見出されたこの宇宙というわけだ。
 本書では、宣伝用飛行船から落ちたネジがたまたま下にいた人に当たるということを例にとっている。空から落ちてきたネジがたまたま当たるという低確率の事象を説明するために、当たったその人以外にも多くの人々がその周囲にいたとする。この場合任意の誰かに当たる確率は、高い。しかしほかでもない私に当たる確率はやはり低い。周囲に誰がどれだけいようと低い。
 しかし、ネジがあたるまでは誰がわたしであるかは分からないのである。当たってしまって初めて「このほかでもない私」が登場する。ネジが当たってしまって出現するこの私は、観測者によって私が生まれたとされるところのこの宇宙である。精妙に調整されることと私という観測者が生まれることは、独立した事象ではないのだ。だからほかでもないこの宇宙は必然的に微調整された宇宙である。
 私に起こるさまざまなことがどうしてほかでもないこの私に起きたのかという問いの解決に使えないか。
 
 
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ゼロからの論証

 『ゼロからの論証』(三浦俊彦著、青土社刊)を読む。宇宙物理学での「人間原理」が、ダーウィニズムの宇宙論的拡張バージョンであることを論じた第4章を興味深く読んだ。多様な変異がランダムに生起し、自然選択によってその時の適応者が選択されるというダーウィニズムの考え方と同じく、多様な環境から観測選択によって特定の環境が選択されるというのが人間原理である。私たちの生息するこの宇宙の中で私たちは例外的な時空に位置しているという条件の制約を認めるのが「弱い人間原理」であり、そもそもこの宇宙全体が生命進化に適した例外的な物理法則にしたがっていること、物理定数が微調整されているという条件の制約を認めるのが「強い人間原理」である。後者ではこの宇宙以外にも多くの、この宇宙に適用される物理法則とは異なった法則をもつ宇宙の存在の実在を主張する。
 特別な場所ではないこの地球に生命、知性をもった生命が誕生したことから、宇宙のほかの場所に知的生命の存在を主張する推論は、地球というサンプルの観測選択効果を無視した議論であることから始まり、地球では生命そして知性が脳という複雑な組織に依存しているという事実から独我論、指示の因果論が論駁されるていく議論は面白かった。なぜ私は他の誰でもない「この私」なのかという問題は、この議論からすると、心(意識)というものが存在したときに、どうして「この私」がいつもいるのかと問わねばならないのである。

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英語の感覚・日本語の感覚

『英語の感覚・日本語の感覚<ことばの意味>のしくみ>』(池上嘉彦著、NHKブックス)を読む。日本語と英語の表現の違いがどのようなものの見方により生じているのかを例文をあげて説明しながら解説している。
 中心は第4章以降で暇がない人はここから読み出してもいいと思う。第4章はテクストを成立させる7つの規準(結束構造、結束性、意図性、容認性、情報性、場面性、テクスト間相互関連性)、談話の成立条件(グライスの協同の原則+対人関係の調整条件)を述べている。
 第6章では日本語、英語における話者の位置づけの違いが指摘され、話者を時間的空間的に客観視できるかどうかという相違点の記述は興味深い。


第7章は「ことばの限界を越えて」と題され、ことばが世界を創るという視点から、詩のことばがどういうものであるかを述べている。ヤコブソンによることばの6つの機能(それぞれの機能はコミュニケーションにかかわる6つの要因の()内に最もかかわる):1)表出機能(話し手)、2)働きかけ機能(聞き手)、3)指示機能(コンテクスト)、4)メタ言語機能(コード)、5)交話機能(経路)、6)詩的機能(メッセージそのものへの志向性)をあげ、ヤコブソンは、詩をことばの実用機能と対立するものとしてとらえていることが述べてある。彼によれば、詩のことばと対極に位置するのは日常のことばである。イギリスの批評家リチャーズは詩を純粋な喚情的用法としてとらえ、認識論的要素の強い科学的言明をその対極に位置づける。ここで漱石の『文学論』との比較は面白い(前者が詩・文学を表現の問題としているのに対して、後者は内容の問題としてとらえている)。
 言語形式が文学の性格に影響するか否かについて、さらに俳句という文学形式の翻訳可能性について論じている。内容ではなく言葉の形式にその芸術が強く依存しているならば、その文学は翻訳可能性が低いということになる。著者は俳句というものは、そのメッセージの受け手の積極的介入を要求する文学であると詩的し、他の言語圏では俳句を翻訳してもそうした前提が共有されていないため、もとの詩興は伝わりいくいと述べている。言語の形式自体に違いがあるかどうか、あるとするならどの点にあるのかという問いについては、明確に解答されていないが、一般に日本では会話において聞き手責任のほうが話し手責任よりも大きく、欧米では逆であるという違いが俳句という文学が理解されるかどうかの違いであると結論されている。確かに俳句という文学は、解釈する人の想像力に大きな余地が与えられている。そうした余地があるのも日本語独特の曖昧さによるのかもしれない。古池とそこに
飛び込む蛙の関係が、表現する場合には必ず精密に規定されてしまうような言語であれば、受け手が想像力を自由に働かせる余地は必然的に少なくなるであろう。現在の日本では、欧米同様話し手責任の重要度が増しているように思うが、そうした文化的背景が変わってくると俳句の理解可能性も変化していくのであろうか。

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信頼と自由

 『信頼と自由』(荒井一博著、勁草書房刊)を読む。信頼とはどういうことかをゲーム理論も用いながら説明し、個人の自由のみを無制限に追求することを至上とする新古典派経済学の考え方を批判していく書物である。信頼ということを期待の一種であるととらえ、それを信頼する主体の主観的確率として定義する。ここで著者は信頼度が多数の要因に影響されて決まると考えている。この点は現実に即しており、信頼に値する行動はその個人が選択できる範囲の中から何ものにも影響されず自発的に選択されなければならないという論理をとらない。内面の意図と、外面の能力、外的条件としての社会的諸条件が信頼行動を決定している。カントのように主意主義では、信頼するということは分析できないという指摘はうなづける。
 一般均衡理論での前提(情報の完全性や取引費用ゼロの仮定)に問題があることを指摘し、現実の取引には情報の非対称性があることから、そこに信頼が最も重要な効率達成手段であることを説いている。続けて、市場と組織(信頼しあうよう努力する特定の個人同士が継続して取引し、また信頼を強化する制度的工夫を行って、取引費用を含む生産費用の最小化を図る存在)は異質のものであり、信頼によって成り立っている組織に市場原理を持ち込むと、信頼性が低下して組織がうまくいかなくなること、逆に相互監視や信頼性を醸成する風土を作ると組織の効率性が増加することがゲーム理論を援用して説明されている。もともと合理的であり何事にも瞬時にして判断を独力で下せる個人という前提には無理があるのだから、当然のことであろう。新古典派経済学はそうした自由で独立した、そしておそらくは倫理的にも高い個人というものを前提としているが、自由で独立したという部分だけがいいように解釈されてしまったことが歪みをもたらしているのではなかろうか。著者にすればそう解釈されるような理論は、すでに間違った理論なのであろう。でも教育や医療といった分野が明らかに市場の論理とは相容れないものであるという主張は、正しいと思う。少なくとも学校は、成果主義で改革できるようなところではない。
 前半の理論的な論の進め方から転調して、第九章以降は、著者のアンチ新古典派経済学による組織論に熱が入っている。このあたりは読んでいて著者の熱意が伝わってくる。市場や組織、一般社会で働く私たちがどのように生きればいいのかという問いに、著者は自己利益のみ追求する生き方は誤りであり、「自己の存在を表現する」ように生きるべきであると説く。ここはなんだか著者がソクラテスのようだ。
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