桜が今年も満開になった。桜の花を見上げながら
私は「美しいね」とつぶやく。
傍らに立つ友人も
「そう、美しいね」と返す。
この時私たち二人は言葉を交わすことによって何をしたのだろうか。
一人が「この桜は美しい」と対象である桜を観察することにより陳述した内容をもう一人が「それは真なる命題である」と肯定したということなのか。ふつうの感覚なら正しくもあり間違ってもいるという感じをいだくのではないだろうか。確かに認識論的には正しいが、このコミュニケーションにはそれ以上の内容が含まれている。美的な判断だ。カントにいわせれば規定的判断のみならず反省的判断が関わっている。
今ここで咲いているこの桜に、美しさという普遍を見いだすことである。この発見は私がいまここでなした主観的なものでありながら、同じ桜を見ている人と直ちに共有できる普遍的なものだ。見ていて心地いい、すなわち快を感じる。実に不思議なことだが「桜」という概念を知らない子供とでもこの感じは共有できる。カントはこれを「自由美」といっている。
多くの鳥類(鸚鵡やコリブリ[蜂鳥]、極楽鳥など)や海中に棲む多数の甲殻類は、それ自体だ けで美しい、そしてかかる美は、これらの動物のそれぞれの[特殊な]目的に関して概念的に規定されている対象に帰せられるのではなくて、自由にかつそれ自体だけで我々に快いのである(『判断力批判』一六節)。
カントが指摘していることで重要なのは、この「共通感覚sensus communis」が文字通り誰にでも備わっているということ、そしてこの「ふつうなかんじ」が決して卑俗なものではないことを強調していることだ。彼はさらに共通感覚は知的判断よりもこの種の美的判断により強く結びついていると主張している(『判断力批判』;第四○節一種の「共通感」としての趣味について)。(言葉(象徴)によって表現される美とイメージ(想像)によって表現される美の快感(快楽)の差異というものは当然あるだろうが、ここではイメージとしての美としてまず考えたい)
私が興味深いのは、カントがこうして例示している美しさが自然の中にある美だということだ。鸚鵡や蜂鳥などいかにも博物学時代らしい例が挙げられていて、これはこれでカントはこれらの生物をどこでどうやって見たのだろうかと想像することが楽しいのだが、より根本的なことは実際にヒトがこうした生物の美しさというものを生得的に認識できる能力をもっているのだろうかという興味である。年端のいかない子供でも生物と無生物の区別は直観的につけているようだし、花の美しさも直感的に知っているような感じがする。花を愛でてその美しさを分かち合えるということはほんとうに驚くべきことではないだろうか。