カフェーの歴史

 『前田愛対談集成』を読むと都市というものが生き物で、小説を読む上で都市の歴史が非常に重要だということを認識させられる。そうした都市の誕生と成長という立場で日本の二大都市大阪と東京の西洋化、電化の歴史をあつかった『モダン都市の誕生』(橋爪紳也著、吉川弘文館刊、歴史文化ライブラリー156)を読んだ。

 著者はあとがきに記しているが、「大阪の盛り場ミナミが故郷」だそうだ。新陳代謝を続け生きている都市の中でも、盛り場を「都市のなかの都市」と彼は位置づけている。なぜなら最もアクティビティが高い場所のひとつだからである。
 本書の中に「カフェーの誕生」を扱った章があり、日本人に「擬似的な西洋体験の機会を提供した場所としての意義を認めている。この中で村島帰之(のりゆき)という人の分類によれば、昭和初期のカフェーは、珈琲販売を主とする「純粋カフェー」、菓子販売を主とする「ベーカリー」、清涼飲料水販売を主とする「ソーダ・ファウンテン」、西洋料理を供する「レストラント」、飲食のほかに余興を用意する「キャバレー」の五種類に区別することができるという。「純粋(純)」ということばが「文学」や「理性」などと親和性があるように感じていたので、カフェーというものにも「純粋」と冠されるものがあるということに思わずうなってしまった。カフェーとは珈琲のことだから、それ専門に扱った店という意味だろうが、そういうふうにわざわざ純粋ということばで形容しなければならなくなるくらい、雑多なサービスを提供する店が短期間に急速に増えたということだろう。
 日本で最初に「カフェー」と名乗った店は、明治44年3月に銀座に開業した「カフェ・プランタン」とされてきたが、著者の調査によればその前年に大阪に「カフェー・キサラギ」が開業しているという。前者の創業者は画家の松山省三で、命名は小山内薫であった。森鴎外や岡本綺堂、坪内逍遥、黒田清輝、松井須磨子などが常連だったという。
 昭和になるとカフェーは営業形態が多様化して、女給をおいてサービスをする「風俗営業」という側面が強くなり、取締りの対象となった。「珈琲」を飲むのではなくアルコールを飲む場所となり、「エロチックなサービスを全面に押し出す大阪資本のカフェーが東京にも進出し盛り場を席巻する」のが関東大震災以降のことだという。こうした関西から関東への文化の波及現象は今もそうだろう。震災の影響もあっただろうが、景気の動向というものが大きく影響しているように思われる。この中の一節で大阪流の女給と東京流の女給の違いが比較考察してあり面白い。後者が客に対して個人主義的、秘密主義的であるのに対して、前者は「根本的に資本主義的」であるという。
 大阪出身である著者の郷里への熱い思いが文章の端々に感じられる考察であり、特にこの部分は百貨店や電化を扱った章に比べ力が入っているように私は思う。
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東京の悪路

『前田愛対話集成II都市と文学』を続いて読む。明治になり江戸から東京へと変貌し、日露戦争から大震災を経て変貌していく東京から文学を読み解いていく対談は面白い。都市というとついつい現在生活しているこの環境を連想してしまうのだが、震災前後の首都東京のイメージが今と大きく違うことを教えられる。例えば道路。舗装されているのが当たり前の現在の道路だが、当時は悪路であった。



野口:・・・大震災のあとにバスというものが出てきました。ところが道路が悪いためにガタガタ揺れる。それで円太郎という落語家が、ガタクリ馬車に揺られる乗客のありさまをおもしろおかしく話したことが大評判になったので、それをもじって当時の市バスが円太郎バスと呼ばれたんです。
・・・やはり道路が悪かったんです。(中略)その靴も、道を歩くともうドロドロになってしまうわけです。三越なんかでも、通路にゴザがしいてあった。ですからああいうところでは必ず草履にはきかえさせられたんですね。


この対談の中で、漱石の『門』で、宗助が穴があいている靴をはいていたため雨のときに靴下がずぶ濡れになってしまった小説中のエピソードが紹介され、



野口:・・・駒沢から電車の停留所へ行くあいだは、もう靴がぬげてしまうほとの泥やぐら。関東ローム層でベタついていますから、短靴だとすっぽり抜けてしまう。(中略)漱石の時代どころか、ぼくら、ずいぶんあとまで、道路とは悪戦苦闘していました。


ということだったらしい。この野口冨士男という人は、1911年生まれの作家で、昭和十年代までは道路状態がひどかったと話している。
 だから荷風は日和下駄を履いて東京の裏通りを散策したのだった。
 それと驚いたのは、当時の市電や自動車の性能に限界があって、赤坂の紀伊国坂が急坂で電車が登れなかったという話や九段坂の隣の中坂は自動車が登れなかったのではないかとこの野口さんが回想していることだった。

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作家の日記の信用性

 昨年からブログをつけているが、日記風ホームページといわれているくらいだから多くの人が「日記」として自分のことを書いていることだろうと思う。『前田愛対話集成Ⅰ闇なる明治を求めて』(みすず書房刊)を購入して読んでいたら、最終章の日記・歴史・文学と題されたところに、彼と大岡昇平、紅野敏郎(早稲田大学名誉教授)の鼎談が載っていた。
 作家の日記についての鼎談だが、公表されることを予期していたかどうかという点に注目して各氏が評している。以下は取り上げられる日記についてのコメントを一部列挙してみる。



『作家の日記』『疎開日記』(大岡昇平)
大岡:「疎開日記」は、あれはだいたい本当の日記のままです。だけど『作家の日記』になると、当時のぼくは忙しくて日記を付ける余裕がないわけですから、あれは発表用に書く日記なんですね。そこのところが違います。
『欺かざるの記』(国木田独歩)
大岡:青春日記のお手本は独歩の『欺かざるの記』(1908-09)で与えられたとぼくは思っています。感想日記ですね。
紅野:欺かざると言いながら大事な部分、つまり佐々城信子と結婚してからの部分は抜けている。
中原中也の日記
大岡:中原中也の最初の日記は昭和二年(1927)の十八歳のときの「精神哲学の巻」という副題つきの感想日記です。
『断腸亭日乗』(永井荷風)
大岡:『断腸亭日乗』でも『西遊日誌抄』から出てきたんで、ぼくも旅に出るときは日記を付けました。
『流れゆく日々』(石川達三)
紅野:・・つまりあれも公表を予期し、整理したかたちではじめから書かれたものですね。
大岡:あれは二、三ヶ月遅れで、事件について世論が決定してから発表するんですから、信用できませんね。(中略)発表用ってことですよ、大事なのは。つまりこれは『断腸亭日乗』の成功によりみんな付け始めたんじゃないですかね。
『高見順日記』
大岡:だからぼくは、『高見順日記』(1959、64-77)も信用しないんだ。最初から発表用に書いたものだと思っています。
『太平洋戦争日記』(伊藤整)
大岡:それから、伊藤整『太平洋戦争日記』(1983)もぼくは疑ってるんだ。未亡人の手が入って取捨選択の余地があるからね、現物を見ないかぎりは、ぼくは信用しないんだ。
『独逸日記』(森乗ス外)
前田:これは、日記を公表することで何かを隠してしまう、ということのいちばん単純な例ですね。
『歌日記』(森乗ス外)
紅野:あれもフィクションがちょっとあるかわからないけど・・・。
大岡:いや、あれは発表を意図してますよ。
『志賀日記』(志賀直哉)
紅野:これは完全に発表を予期せずに博物(ママ)*館の日記に書かれているわけですね。
(*博文館の誤植だろう 烏有亭)
『一葉日記』(樋口一葉)
大岡:何か事件があると長く書かれているけど、ときどき一行か二行の日も混ざっていますね。それが小説家のテクニックかもしれないけど・・・。途中から明らかに発表用になっていますね。『一葉日記』についてもそれがいえると思います。
『戦中派不戦日記』(山田風太郎)
紅野:当時は彼も無名だったですからね。無名時代のこの風太郎の日記、おもしろいです。
『観想録』(有島武郎)
紅野:ただこれは自己省察があまりにも感傷的な部分がありすぎて、私はちょっとおしゃべりの文章だな、という感じがある。


まだまだ他にも取り上げられている日記があるのだが、大岡は作家の日記の忠実度についてかなり懐疑的である。この対談を通して最後に前田は、



 いままでぼくらは、研究する者、批評する者として、日記を資料として、つまりそこから作家の生身に近づいていこうという姿勢で考えていた。しかしこれは少し考え直さなければ、いけませんね。 
 日記というのはそれ自体ひとつのテキストであり、作者がいかに正直に書いても必ずそこにズレがある。


と発言し総括しようとする。日記の信用度に限界があるのは認めるが、それを使って研究する彼の立場からすれば、その信用性についてはまあ条件付ながら認めようという立場なのだが、作家として日記をつける立場の大岡が



 それは内容は重大でおもしろいですが、細部の信用性については、まず眉毛に唾を付けておいて・・・


とさらに食い下がるようにしつこく日記のあてにならなさを強調しているのは笑える。
ブログという日記形式は公表を前提としているから、大岡は、「こんなもんまったくあてにならん」と草場の陰で嘆いているに違いない。
 この対談集は二分冊で値は張るがかなり面白い。

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メールという媒体

 言葉のはたらきというものは魔術的なところがあり、ないものをあるものに仕立て上げてしまう力がある。古代の人はこの魔力が言葉そのものに宿っていると信じていた。確かに力強い言葉には力強さが、やさしい言葉にはやさしさがあるように感じてしまう。しかし同時にその言葉を伝える媒体も重要である。特に声という直接的な媒体は歴史的にみて非常に価値を置かれてきたし、このことに着目して哲学を構築した人もいる。書かれたものが声と比較すれば間接的であることは確かであるが、書かれるものがどういう形式を装うかによってもその間接性は異なってくる。現代では自筆の文字から活字、電子媒体などさまざまな形をまとって伝達される。自筆の文字というのは歴史的なもの、すなわち過去のものに近づこうとする場合には特に重要視される形式である。だから作家の自筆原稿というのはいつの時代でも重要視される。
 これに対して電子メールは書いている人にとっては、手紙を書いているのと感覚的には近いが、実際はそれを発信するコンピュータのアドレス、経由するサーバの情報を含めた二進法的コードであり(というか、にすぎず)、コードは匿名的なものである。コードにすぎないものだからわざわざ署名などを考案しているのだが、その署名も二進法でコードされるのだからそれで問題は解決されない。

 発信者が基本的に誰か分からない情報だから、これを適切に取捨選択することが要求される。この能力は、文字を読み書きする能力とは異なるからわざわざメディアリテラシーと呼ばれたりする。メールなどの文書は手紙とは異なるのだということをきちんと認識してもらうためである。しかしこれが分からない人も多く、AからBへというメールがあったというだけで、Aという人がBという人へ宛てた文書であるとなんら疑うことなく信じられてしまう。最近たった一件のメールだけで国会での論戦を挑んだ人がいた。この客観性に疑いを向けられた時に、情報収集能力に限りがあるから、客観性の確度が低くても意味があるというような反論がなされていたようだが、あれは情報収集能力ではなく情報解読能力に根本的な欠陥があったと見るべきであろう。

 それにしてもこうした茶番が国政の場で堂々と論ぜられることには悲しむべきことであると同時に、もしこうした能力に欠けた人々が無邪気にあるいは故意に利用すると容易に(弱い)個人の人権を侵害する事態に至ることになる恐ろしさというものをもっと真剣に憂うべきであろう。公的権力をもつ人々のメディアリテラシーが向上しなければまた同様な事件は必ず繰り返される。

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書物の文字の大きさ

 『書物』という書物は、知る人ぞ知る森銑三と柴田宵曲の二人が書物についての薀蓄を傾けた随筆集である。岩波文庫に収載されているが、今回初めてワイド版という形で手にした。実は注文したときに普通の文庫で頼んだつもりだったが、届いたものを確認したらワイド版であった。注文を間違えてしまったと内心がっかりし、ワイド版でなくとも普通の文庫で十分だったのにと後悔したが、開いて字を読んでみると、字も大きく読みやすい。
 ワイド版には帯がかけてあり、「大きな活字で余裕の読書」、「目にやさしくハンディなサイズでお楽しみいただく・・・」とある。実はこの文句が気に入らなかった。別に小さな字でも構わんし学生時代からずっと文庫に親しんできたし、小さくて十分と思っていたからである。こういう考えは、精神的なレベルと肉体的なレベルがなんら問題なく均衡している場合には全く問題がないが、いったん肉体的なレベルが陰りを見せてくるや、「やせ我慢」という精神に変貌してしまう。小さな字がびっしり並んでいる状態にレンズの厚さを調節する毛様体筋なるものが耐え切れず音を上げてしまうのだが、大脳はまだがんばれと叱咤激励する。これが昂じると眼精疲労となり、ひいては脳のストレスになってしまう。
 こうなると眼が耐え切れないことが明らかになるのが悔しいから、おのずと大きい活字の本を選び、ひいては小さい活字の本を馬鹿にするようになるいわゆる「合理化」が起きるであろうと思われる。私も注文間違いは棚に上げて、ワイド版で大人の読書だねなどと感じた。
 年取るとそんな理窟をつけるんだろうなんて思いながら、この本を読み進めていたら、森銑三がこう書いていた。



 現代はまた岩波文庫の全盛時代というのであろうか、その本を手にした若い人たちが街頭にも電車の中にも氾濫している形であるが、私などもう五十歳を越して見ると、小さな活字をべた組にした書物は読みづらい。この間『声曲類纂』を岩波文庫で見たら、七号活字の分註のやたら多いのに悩まされた。
 なお縮刷版と称して、一度大きな形で出して評判のよかった書物を更に後から小さな形に組直して出すことなどもかつて行われた。そうした本を最も多く造ったのは東亜堂だろうか。内容の堅い、それほど一般的でもないものまでが、やたらに縮刷になっていたりするのに驚くことがある。しかし小さく造り直したのは見た目が貧弱で、安々しくなって感心しない。元の大きな形で読んだ書物を、縮刷版が出来たからといって、もう一度それを読直す気にはなられぬ。『子規全集』『漱石全集』『乗ス外全集』なども、今、大小二通りが行われているが、これらについてもまた同じことがいわれそうである。そうした意味で、私などは岩波文庫を買った記憶など十回を出ない。余計な憎まれ口を叩くにも及ばぬが、文庫本ばかりを書架に列べてその量を殖えて行くのを喜んでいる人たちは、まだまだ書物好きとはいい兼ねるのではないかという気がする。(形の大小 p147)


 この意見に賛成する人と反対する人は、小さい文字で眼精疲労を起こしてしまう人とそうでない人の区分けと重なるような気がして思わず笑ってしまった。

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アジア海道紀行

 旅に出かけなくても旅をしたような、いやそれ以上の経験をしたような読後感を味わえたのが、今度読んだ『アジア海道紀行』(佐々木幹郎著、みすず書房刊)であった。著者の佐々木は、東シナ海を中心にして、そこを取り囲むように点在する場所を訪れて交易や戦乱など人々が繰り広げてきた歴史に想いを馳せる。その場所は鹿児島県坊津であったり、長崎であったり、あるいは済州島(チェジュド)や上海である。読んでいると日本や韓国、中国という国境はいつの間にか消えてしまっている。間違いなく存在するのは、東シナ海を行き来して交易してきた人々であり、今現在生活を営んでいる人々である。歴史はもちろん記録に残された文書が重視されるのだが、旅をする詩人は物言わぬものたちに歴史を語らせる。
 鹿児島県坊津は、その昔遣唐使船の出航地であり、琉球や中国からの航海者が黒潮に乗って北上して九州を目指した時には、その近くにある開聞岳と野間岳を目印にしたという。そこの歴史民族資料館に収められている「袖がらみ」という奇妙な武器。中国の南海地方に浮かぶ普陀山(ふださん)という島で彼が手に入れた爻板(こうばん)という占いの道具。「几巾(いかのぼり)きのうの空の有り所」と蕪村の句で詠まれているが、長崎では「ハタ」と呼ばれていた凧。日本から輸入されて朝鮮半島に広まって「コチュ」といわれるようになった唐辛子。済州島で栽培されている「非時(ときじく)の香(かぐ)の木の実」柑橘類。詩人が語りかけ、物がそれに応えて語る豊かな紀行文であった。
 それと、この本で初めてshanghaiという英語の動詞があることを知りました。

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書物の敵

 『書物の敵』(ウィリアム・ブレイズ著、高橋勇訳、八坂書房刊)には、蔵書の保存にあたり憎むべき害悪を列挙してある。著者ウィリアム・ブレイズ(1824-1890)はヴィクトリア朝イギリスに生きた書誌学者で、最初は印刷工として出発したと冒頭に紹介されている。本にとって恐るべきものを列挙して「地震、雷、火事、おやじ」ならぬ「炎、水漏れ、紙魚、埃」といったものが取り上げられている。
 この本の第六章は「紙魚の襲撃」と題され本を喰う虫たちが紹介されている。紙魚は、節足動物門昆虫綱無翅類総尾目(シミ目)シミ科の昆虫の総称であるが、紙の繊維を分解するセルラーゼを分泌して紙を喰う。本を開いた時に申し訳なさそうに頁の表面を這い回り、逃げていく様は、まさに紙のプールの上を泳いでいく魚のようだ。この本でブレイズが指摘しているのは、本に真に甚大な被害を与えるのは、この紙魚ではなくアノビウム種とオイコポラ種であるという。
 アノビウムAnobiumは、ギリシャ語で「蘇生する」という意味に由来する。英名は、「死時計虫deathwatch beetle」といわれ、家の中でこの虫が時を刻むような音を立てると死人がでるという迷信から名づけられている。和名はこの英名を訳して「死番虫」という。暗い蔵書庫にひっそりと住まい、夜中にボリボリと音を立てて本を食べているのを想像すると気味が悪いが、本では書誌学者のエティエンヌ・ガブリエル・ペニョーが二十七巻本の本が一匹の虫によって喰い貫かれているのを発見したというのを紹介している。
 オイコポラ・プセウドスプレッテラOecophora pseudospretellaは、ネジロマルハキバガという蛾の幼虫である。ブレイズは、本につく虫を知り合いから送ってもらい、一匹を十八ヶ月近く飼育したと書いている。この虫はアテネから大英博物館へ届けられたヘブライ語聖書注釈書の中から発見されたものだった。「ギリシヤ生まれでヘブライ語の知識を身体に詰め込んだ」虫の飼育は、なかなか難しかったようだが、もし本を食べることで永遠にその知識を身につけることができるのならば、羨ましいかぎりである。
 このほかにもゴキブリやネズミ、イエバエ、キクイムシなど本を齧ってしまう生き物が紹介されているが、同じくこの書物の中で紹介されている本を暖炉の炊きつけに使う掃除婦や書物で狼藉をはたらく腕白小僧に比べれば、可愛いものである。
 巻末の高橋勇による解題、監修者の高宮利行の「書物の敵あれこれ」も面白い。

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池田菊苗と漱石

 漱石がロンドンに留学していたときに、池田菊苗(1864-1936)という化学者と会っている。漱石は、池田から薫陶を受けたようで、

 

池田君が独逸から来て、自分の下宿へ留まった。池田君は理学者だけれども、話して見ると偉い哲学者であったには驚いた。大分議論をやって大分やられた事を今に記憶している。倫敦で池田君に逢ったのは、自分には大変な利益であった。御陰で幽霊の様な文学をやめて、もっと組織立ったどっしりとした研究をやろうと思い始めた。

 

と後日回想している。

 

 池田は非常に研究熱心な学究肌の人であったようで、自伝には「多くもあらぬ小遣い銭は尽く薬品器具の購入に費やし、家人の迷惑も顧みず酸類にて衣服や畳に孔を穿ち又硫化水素などを弄びて実験を行ふを唯一の楽と」していたとある。さぞかし奥さんは苦労したであろう。帰国後東京帝国大学教授となるのだが、42歳(明治40年)のときに彼の奥さんが買ってきた昆布が彼の人生の転機となる。この昆布の「うま味」に興味をもったことがきっかけで研究を始め、この独特な味の成分がグルタミン酸ナトリウムであることを突き止めたのである。

 周知の通り味には、甘味、酸味、苦味、塩味の4種類の味が基本味としてあることが世界共通の認識だったが、「うま味」という第五の基本味があることを世界に認識させたのが日本人の業績である。グルタミン酸ナトリウムという化合物(C5H9NO4)は、すでに既知の化合物(1866にドイツの化学者リットハウゼンにより発見されていた)であり、しかもその味はリットハウゼンにより「不味い」とされていたのだが、それこそがうま味の正体であることを証明したのが池田であった。「・・・前に述べた四味已外に更に一種の味覚あることは殆ど疑を容れぬ次第であります。今或人の発議に従つて説明の便利の為此の味をうま味と名づけて置きます」(東京化学会誌第30帙)。

 

 このエピソードは、うまいか不味いかという感覚が、化合物が舌の味蕾に作用して起こる神経の電気信号に還元されないものであることを示す好例であるばかりか、既知(グルタミン酸ナトリウムの存在)と既知(うま味の存在)を関連づけることで新たな知が発見されるという科学上の発見の好例であろう。池田は約十貫目(38kg)の昆布から30gのグルタミン酸ナトリウムを精製しているが、彼によれば「案外容易に成功」したそうである。彼は「佳良にして廉価なる調味料を造り出し滋養に富める粗食を美味ならしむること」を目指したのであった。化学調味料を加えるという行為が天然素材を使わず手を抜く行為のように語られているが、当時としては我が国の栄養学上その成分を工業的に生産できるようにすることはたいへん重要だったのである。翌41年4月池田は「グルタミン酸を主成分とする調味料の製造法」に関する特許申請をする。彼に協力して工業化を進めたのがのちに味の素の創業者となる鈴木三郎助だった。

 

 この年の7月グルタミン酸ナトリウムは、「味の素」の商品名で鈴木商店から発売され、ヒット商品となった。池田はその後この特許に関連して百万円(現在の約20億円!ちなみに青色発光ダイオード訴訟の和解金として中村修二教授に支払われた金額が約8億である)を手に入れ、後顧の憂いなく研究生活に没頭したのであった。

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大英博物館の漱石

 昨年九州は太宰府に国立の博物館が百八年ぶりに設立され、話題となったが、博物館中の博物館といえる大英博物館の歴史を紹介した『物語大英博物館』(出口保夫著、中公新書)を読んだ。かなり以前に私も訪れたことはあるが、その広さと収蔵物の莫大さに舌をまいた覚えがある。閉館間際になって迷って出口がわからなくなって焦ったことも忘れられない。
 この博物館の実質的創始者といわれるのが、1660年生まれの医師ハンス・スローンだ。経歴を読むと、27歳のときに西インド諸島に侍医として赴いたこともあり、『ジャマイカ島博物誌』という書物も刊行している。「富を愛しつつ、なおよく学問を愛した」ハンス・スローンは、1712年(52歳)にロンドン郊外のチェルシーに別邸を造り、そこに膨大なコレクションを移す。1748年そこを見学に訪れた皇太子(のちのジョージ三世)夫妻は、これを「国家的コレクション」と誉めた。世継ぎのなかったスローンは、その行幸の後に遺書を託し、自分の蒐集物を死後国家に寄贈することにした。このコレクションが大英博物館の基礎になる。これにロバート・コットン卿、オックスフォード伯ロバート・ハーレイのコレクションを加え、1753年に創設され、59年に開館に至る。
 
スローンの生前の蒐集物の一覧(p42-44)が載っているのだが、写本や約四万の書籍の他に、硬貨、貴金属鉱石、植物・昆虫などの標本などなどおよそ集められるものは集めているといった観がある。哺乳動物標本という項目以外にクサリヘビという項目だけ独立していて数が521とある。彼はヘビに特別の思い入れがあったのだろうか。話は少し脱線するが、モノを蒐集するというのは人間の、というか(ここで敢えて性差別的な独断的発言を許してもらえるなら)男性一般の矯正しがたき性癖である。だから博物館というのは、表向き学術機関だけれどもほんとうは人間の蒐集癖が極まって作り出されてしまった公共のがらくた箱である。スローンもたいそう好奇心旺盛な子供だったようで、寝食を忘れて夢中になって集めている姿が想像されて思わず微笑ましくなる。
 本書にはそのほかにも博物館運営資金を賄うため富くじを発行していたことや、フランスが手にしたロゼッタ・ストーンがイギリスに渡った経緯、南方熊楠が書見室(リーディング・ルーム)で係員と乱闘した話、第二次世界大戦時下での収蔵物の非難の話などが紹介されている。


 熊楠とすれ違いでイギリスへ留学した夏目漱石も1900年11月3日にここを訪れているが、著者の調査によると漱石は留学中にリーディング・ルームの入館証を入手した記録は残っていないという。彼は図書館通いはせずにほとんど下宿に引きこもりの生活を続けていたのであった。著者の出口は、ここに通って勉強すれば留学費用も節約できたであろうに、そうしなかったのは、調べ物をする際に書物に手当たり次第書き込みをする癖があったためであろうと推測し、「融通のきかない、まことに古いタイプの学者だった」としている。しかし本当にそうだったのだろうか。留学中の彼の生活を読むと彼は他人の視線に過剰なほどの敏感さを示していたことがわかる。読書をするという極めて個人的な行為において、たとえば背後からの視線を感じたりすることに、彼はとてつもない嫌悪感を抱いていたのではないだろうか。例えば講義室という公共の空間で、同じ書物を同じ目的で「読む」という経験は、通常のことであっただろうが、不特定多数の出入りする公共の空間で、どこから注がれるかわからない他人の視線に曝されつつ私的な読書をするということは、少なくとも漱石にとっては堪えがたいことであったのではないか。その視線のことを考えるととても研究に没頭できないというのが真相ではないだろうか。

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グールド魚類画帖

 『グールド魚類画帖』(リチャード・フラナガン著、渡辺佐智江訳、白水社刊)という本を書店で見かけたとき、私は鳥類の博物画を描いたジョン・グールド(180141881)を真っ先に連想したので、あのグールドが魚類も描いていたっけと思いつつ本の巻末を開き、「グールドが英国リヴァプールで生まれたのは、一八○三年。」とあるのを読んで頷いたが、続いて「一八二七年、グールドは、ノーサンプトンで衣服を盗んだ罪で、ファン・ディーメンズ・ランドに七年間の流刑を言い渡される」とあるのを見てようやく勘違いに気づいた。このグールドは、確かに実在の人物であったが、タスマニア島に送られた囚人だった。彼は画才に秀でていたらしく、航海中に士官の肖像画を描いたり、植民地で外科医で素人博物学者であったジェームズ・スコット医師の命令で現地で採取された魚類の絵を描いたりしたそうだ。物語は囚人として彼がその島で過ごした話であるが、彼が残した「魚の本」を、シド・ハメットという男が偶然みつけるところから始まる。観光者相手に贋骨董品を売りつけている彼は、冒頭で「実のところ、旅行者たちが買っているのは、物語だったのだ。」と贋物作りよろしくこう割り切ったせりふを吐いているのだが、何を隠そうそうした物語を読者である私たちは買っているのだから、なんとも最初から人を食った話である。


 当時の西欧世界からは赤道をまたいで遠く離れた、まさに対蹠地点で繰り広げられる物語である。そこでランプリエール医師は、当時リンネを頂点とする博物学会に名を残そうという野望に溢れグールドに魚類の絵を描かせるのだが、他人に先をこされその望みを断たれるや、今度は進化の頂点に白人が位置することを証明すべく、現地人の頭蓋骨を収集する。現地人が猿に近く知性において白人より劣ることを示そうという彼の意図は、結局意外な展開で「証明」されことになるだが、それは実際に本を読んでのお楽しみである。
 
各章のはじめにはグールドが描いた魚の絵が色つきで掲載されている。原書は各章ごとに文字のインクの色が変えてあるという凝りようということだが、訳書では二色刷りである。買わない人のためには、グールドの絵がここで閲覧できます。


 この小説を楽しむためには、十八世紀当時の博物学に関する知識を持っておくほうがよいだろう。例えば、『大博物学時代』(荒俣宏著、工作舎刊)や『リンネの使徒たち』(西村三郎著、人文書院刊)などがお勧めである。


 彼は彼を支配する人間の欲望と権力には表向き従順に従うふりをしながら、魚類を描くことでそれらの欲望と権力から逃走する。最初は強制された厄介な仕事が、魚を向き合って絵を描いているうちに、「世界」に対する彼なりの愛の表現方法となる。その愛は、計り知れない痛みと悲しみを含んだ望みのない愛である。
 魚を描く時に、魚をゆっくりと殺しながら絞首刑を宣告されている彼は魚の解放の瞬間を夢見る。それは「虹の色が破裂して、硬い太陽がばらばらになって柔らかな雨と降るように生きたかったのに、安物の画用紙に薄汚い染みをつけることに甘んじなくてはならなかった」彼の生の悲しい夢である。私たちがさまざまな欲望を抱いて毎日生きているこの世界、言葉で作られているこの世界の中にはグールドの描く「魚」となるような救いはあるのだろうか。

 読了するまで数日かかったが、フラナガンが構築した小説の世界に入り、馴染むのにはやや努力が必要とされる。短い時間を読書にあてて小説世界に入って、また現実の世界に戻ってという往還運動は正直骨がおれた。できれば十分時間があるときにどっぷりとフラナガンの言葉の濃密な海に浸りきって一気に読むほうが適当かと思われた。

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