烏有亭日乗

烏の塒に帰るを眺めつつ気ままに綴る読書日記

暗い書庫の歴史

2006-04-02 21:48:18 | 本:歴史
 以前『物語大英博物館』(出口保夫著、中公新書)を読んだときに、リーディングルームのことが書かれてあったが、この閲覧室ができたのは1852年のことで、当時の主任司書アントニオ・パニッツィが立案したものであった。それ以前にあった閲覧室は、一つのテーブルに椅子が二十席並べられた貧弱なものであった。開設された1753年当時はまだ入室者が一日十人足らずであったということだから、そんな設備でも十分対応できたのであろう。開設してから百年の間に閲覧者が急増し、大増築となった。このエピソードについては、『本棚の歴史』(ヘンリー・ペトロスキー著、池田栄一訳、白水社刊)からの引用である(以下も同様)。
 この建築には丸三年がかかっているが、パニッツィは1851年に開催された大博覧会でハイドパークに建てられた水晶宮に使われた最新技術を応用しているそうだ。鋳鉄を力骨に使って作られたドームの書庫には床と同じ階に二万四千冊、閲覧室を取り囲む回廊の壁に四万冊の蔵書が収納されている。特に画期的だったのは、てっぺんに採光用の窓があったことのようだ。
 書庫というとだいたい暗いイメージがあるが、電灯がなかった当時は格段に暗かったようだ。しかも霧のロンドンでは冬は四時過ぎると窓からの太陽光は役に立たなかった。ガス灯の使用は1861年に検討されたそうだが、消防団から反対され却下となっている。
 1897年に完成した米国連邦議会図書館の書庫を設計したバーナード・リチャードソン・グリーンも電灯が一般化する前に設計建築にあたっているので、採光には苦労している。当時本棚で本を探すときに」はほとんど日光だけが頼りであったが、日光は「人間が依存しているものすべてのなかで最も不平等で不安定であり、太陽の位置や気象の変化に左右されやすいが、紫外線を含む太陽光線は同時に蔵書にとっては敵であり、「暗いほうが本にとってははるかによい」というジレンマに悩んでいる。しかし夕闇迫るロンドンの大英博物館の暗い書棚の間を、南方熊楠やマルクスが目当ての書物を探しながら徘徊している姿を想像するとなんだかわくわくしてしまう。
 確かに背の高い本棚を部屋に置くと当然光は遮られてしまう。著者が訪れたというイリノイ大学の数学図書館は、床板の床材に分厚いガラスを利用しており、「窓からの直接光がほとんど当たらない下のほうでも十分な自然光を得て、本を見つけ」られるように工夫されていたという。
 床にガラス板なんて、下から覗いたらなんていらぬ心配をしたら、「それと同時に、下の階にとっては天井でもあるガラスの床には、上や下にある物がはっきり見えないくらいの厚さがあり、波形模様がつけられていた。(そのおかげで、スカートやドレス姿の女性も安心して書庫に入ることができた。)」とすかさず書かれていて、ほっと安心した。この工夫もやがて廃れてしまうのだが、なるべくたくさんの書物を詰め込むということとなるべく明るく見やすくするという相反する二つの条件を折り合わせる努力が書庫に秘められていたというのは、電灯の恩恵を恩恵とも思わなくなっている現代では新鮮な発見だった。

 未読であるが、この著者は、『鉛筆と人間』(晶文社)や『フォークの歯はなぜ四本になったか』(平凡社)など技術史を中心に興味深い書物を著している。いずれ読んでみようと思う。